第5話 「ありがとう」

「その子、誰?」


 生温いはずの梅雨時の風は何処へやら、冷たい空気が俺たちの間を駆け抜けた。

 後ろの街灯の灯りが逆光となって儚の顔を覆う。

 それに怖気付いたのか、紅葉は気づけば俺の後ろに隠れていた。こういう行動も課題といえば課題だが、それはおいおい治していくことだ。


「聞いてどうするんだ?」

「聞かれて困るような人なの…?」

「そういうわけじゃないが……」


 思わずため息をついてしまう。

 とりあえずここで話すのもしょうがない。

 後ろの紅葉はどこか不安そうな顔をしていた。


「紅葉さんは先に戻っててくれ。俺は儚と少し話がある」


 ×××


 儚と向かい合い、座る。

 場所は駅前のカフェ。紅葉の家からは少し離れてしまうが、あの辺りには話しやすい場所はないので仕方ない。

 黙り込んで、俺は俯く。

 別に何か悪いことをしでかしたわけではないが、なんだか彼女に合わせる顔がないような気がして。


「それで、あの子誰なの?」


 彼女は単刀直入にそう聞いた。

 先ほど街灯の時の声とは少し雰囲気が違って———そこには何か、寂しさとか悲しさを感じさせる何かがあった。

 言いたくないという訳ではないが———しかし言いたいという訳でもない。

 けれど言ったところで何か問題がある訳ではないので、俺は話すことにした。


「……あの子が八神紅葉さんだ」

「八神紅葉って———不登校の」


 不思議そうな顔をしながらも、彼女は続ける。


「不登校なのに———髪を染めたんだ」

「俺が染めさせた」

「えっ…?!」


 今度は先ほどとは違う意味で不思議そうな顔を儚はした。

 先ほどの不思議が『疑問』だとしたら今回は『不可解』とでもいうべきか。


「彼女、高校に行きたいそうだ」

「……」

「それも普通にただ行きたいとかじゃなく、俺———いや、俺はもう違うか———そう、儚とか柾とか、その辺みたいになりたいんだそうだ。俺は今、その手伝いをしてる」

「……なるほど」

「その一環として、今日叔父の美容室で髪をきって、プラス染めさせたんだ」

「そう、なんだ」


 そう言って、今度は彼女が俯いた。

 そして、「ふっ」と笑い、顔を上げて続けた。


「紅葉さん、すごく可愛いんだね」

「……そうだな。それはそうだと思う」

「そうだな、か」


 また俯いてしまった。

 何かよくないことを言ってしまったのだろうか———と、とぼけるつもりは俺にはない。

 確かに失言だったかもしれない。

 儚と頃でも一度たりともそう言ったことは儚に言ったことはなかったから。

 だから少し配慮はなかったかもしれない———けれど。

 けれど俺と彼女はもう、終わっている———と、俺は思っているから。

 だから訂正はしなかった。

 コップに残ったカフェオレを一口で飲み干し、席を立つ。


「だから、もし話す機会があったら話してやってくれ。多分かなり内気なやつだから仲良くしてやってくれると俺も報われる」

「……うん」


 彼女に背を向け、帰ろうとした、その瞬間だった。


「ねえ…」


 そう言われ、手を掴まれた。

 気づけば彼女も立って、俺を引き止めていた。

 放課後みたいに言葉で制止するんじゃなく、ちゃんと、彼女は俺の手首を掴んでいた。

 驚いて彼女の顔を見ると、泣きそうな顔で。


「わたしたち……もう終わったの…?」

「…………」


 きっと、その瞬間、世界は俺たち二人だけだった。

 音もなく、ただ俺たちだけがいる、俺たちのやりとりだけがある、そんな空間。

 ———答えられなかった。

 終わったって。もう終わったんだよって、それだけ言えば、きっと終われたのに。

 俺は醜い。

 答えられなかったんじゃなくて、答えたくなかったんだ。

 切るべきものを、切りきれずに———嫌われることを怖がって。


「………わたし、帰るね」


 引き止められた手は離されて、空を彷徨う。

 儚が俺を通り過ぎたのち、「また明日」と聞こえたような気がした。


 ×××


「お姉ちゃんに何したの!」

「いや、これはその———」

「言い訳はいらないの!何をしたかだけ聞きたいの!あなたにお姉ちゃんを預けたのが間違いだったわ!この罰はしっかりと受けてもらうからね……!」

「いや、だから」

「だからも何もないわ!今日は帰って!」


 つまみ出された。

 少し気がひけるものの、彼女の家に夕飯を食べに行こうと思っていたのだが、そういうわけにも行かなかった。

 ドアを開けた先には鬼の形相の茜。

 あれはもう正真正銘の鬼だった。威厳とかそんなレベルじゃなくて多分あれは威圧だ。殺気まである。


「ご、ごめんなさい……多分驚いてるだけだと思うんです…」


 苦笑いして、そういうと彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。


「いや、いいんだ。自分の姉が男に連れられて帰ってきたら髪型どころか色まで変えられてたら誰だってああなるさ」

「そ、そういうものなんでしょうか…」

「俺もそうなるかもしれない」

「なるほど…」


 真面目に答える紅葉。なんというかもしかしたらこの子は少し冗談が通じないところがあるかもしれない。


「その、さっき買ってきたんです。よかったら」

「そんな気を遣わなくたっていいのに…」

「大丈夫です。私がやりたいだけですから…」

「そ、そうか。ならありがたく受け取っておく」


 彼女から渡されたレジ袋の中には、おにぎりが二つ程度とコーヒーが入っていた。おにぎりはありがたいが、正直コーヒーはもう足りているが…。まあ、それでも彼女の厚意だ、受け取っておこう。


「それで、その」

「?」


 何か俺の様子を伺うような、そんな仕草で俺を見る彼女。


「さ、先ほどの女性は…」

「ああ……」

「もし言いたくないとかだったらいいんですけど…」


 その話か。

 確かに目の前であんな感じになっていたら誰だって気になるだろう。

 彼女に知る必要はないが、権利はある。

 それにいずれは話さねばならない事だろうし、それにきっと彼女がリア充になるにあたって儚の存在は重要になる。

 偉く下手な彼女に、俺は言葉を紡ぐ。


「その、簡単に言えば、元カノだ」

「?!」

「少なくとも俺はそう思ってる」

「?ど、どういう事ですか?」

「その、よく言う自然消滅ってやつだよ」

「……」

「いつからか話さなくなって、いつしか顔も合わせなくなった。そう言う———」

「そ、そんなのダメです…!」


 珍しく声を張って、俺にそんなこと言う彼女。

 思わず俺は口を開けて驚いてしまった。


「自然消滅なんて、そんなのダメです!だって、だってまだお互いに好きかもしれないのに、なのに———」

「紅葉さん」


 制止して。


「君の言う通りだ。けどね」


 違う。


「けど世の中は、人間関係は、そんな単純な部品だけでは回らないんだ」


 ちがう。


「羨ましいよ。俺もそう言う風に考えられたらこんなにはならなかった」


 ちがう。


「時計みたいに、一つ一つが影響しあって、複雑に絡み合って、そうやって回ってる」


 チガウ。


「どうか分かってくれ。俺にだって紅葉さんと同じようによくわかんなくなっちゃうことはあるんだよ」


 言い訳だ。

 都合のいい御託だ。

 ただ彼女を黙らせるためだけの、意味さえ持たぬ虚構だ。


「……わかりました」


 ———やっぱり。

 やっぱり俺はクズだ。

 どうしようもなく醜くて、歪な。

 そして、そんな自分が嫌いになる。

 消えてしまいたくなる。

 それでも、続けた。


「ありがとう」





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