5
そうして指示されるままに黙って馬の脚を進め、禁域の中へ中へと入ってゆく。人の出入りは少ないはずなのに、荒れた様子はなく奥へ向かうほど道は緩やかに、苦も無く進む。
ついさっき見た光景が嘘のように、美しい景色が広がっている。温かな日々が思い起こされて、押し殺した感情が込み上げて溢れないように固く口を引き結ぶ。
皆、同じ気持ちなのだろう。誰も声を上げることなく、重い沈黙が彼らを包んだ。
ふいに拓けた場所へ脚を踏み入れると、アウローラが止まるように促した。言われるままに馬の歩みを止める。
「ここ、か?」
何もない、ただの空き地に見える。
「目眩ましされているんだ。マキア、感じる?」
エーギル、ヴェルナー、ノア、ユリウスはいわゆる騎士だが、マキアは少し立場が違う。
この世界には精霊がおり、彼らの善き隣人として力を分け与えられる者たちを『精霊使い』と呼ぶ。
精霊使いは希少であり、一般にその能力は知られることの方が少ない。それほど珍しい存在なのだ。国へ仕えれば重用されるし、守られる。
マキアは精霊使いのための国、アント出身の、数少ない精霊使いだ。
「術の気配が……でも、変だわ。力も空間も曖昧で境界がわからない。こんなことはウルーエル様でもできるかどうかわからない」
マキアの言う『ウルーエル』とは、アントの盟主ウルーエルのことだ。
アントは名目上、『国』と称されてはいるが、どちらかといえばいわゆる国とは全く異なる特殊な場所で、ウルーエルが精霊使いのためだけに作った機関だ。
この盟主は属性に縛られない類まれなる精霊使いであると言われ、世界でも数人しか確認されていない魔眼を持つことでも知られている。
ウルーエルはどの国家にも属さず世界から一線を引いて退いているが、意に反してクナウストとは少なからず関わりがあった。
クナウストは世界で唯一、光の精霊の加護を受ける特殊な国であるからだ。
個人や精霊使いが加護を受けることはあるが、国そのものが加護を受けることはない。だが、クナウストにはなぜか加護があるのだ。精霊の加護をまるで体現するかのように、クナウストの血を引く者は皆、色に差はあれど金の髪色を持って生まれる。
他国の血が混ざっても、子は必ず金の髪を持つ。特異な血を持つ一族である。国の始祖と言われた王も、輝く黄金の髪を持っていたと伝えられているから不思議である。
そんな特殊な国で、アウローラは黄金の髪と黄金の瞳を持って生まれた。
クナウストの王族に限らず金の髪を持つ人間はいるため金髪が珍しいということではないが、
特異な環境と特異な血統、そのためにアントからは時折調査の名目で精霊使いたちが訪れることがある。マキアはその関係からクナウストに身を落ち着けたのだった。
「余人に悟られてはならない。だから、普通の人間や並の精霊使いでは気配が辿れないのだと聞いている。誰が施したのか、なぜ力が薄れないのか私も詳しくはわからないけれど……それに、特別な鍵がないと開かない」
アウローラは手を借り馬を降りると一歩進み出て、頬に出来た小さな切り傷に指を這わせ、乾きかけていた傷口から血を滴らせる。
「アウローラ様……!」
その声は目視で黙らせる。
血に濡れた指先を空間にかざして見せると、呼応するように耳の飾り石が白く輝いて、アウローラの周りに光が集まり虹色の光となって指先を覆う。
指をかざした空間が、歪む。
「!」
エーギルたちは目の前で繰り広げられる光景に息を呑んだ。
アウローラの身体は淡い燐光を放って、黄金色の髪は風もなく柔らかくたなびいている。
彼らはその姿に息をすることも今の何もかも忘れ呆然と、美しい、そう思って見つめた。
指先からほとばしった光が走り、その周りが不安定に歪んでいる。膜が波打つような、遠目にはわからない、小さな違和感。
光に応え、地面に咲いた草花と木々が意思を持って伸び、形作って絡み合う。
「入口が……できた、のか?」
光によって歪んだ空間に、四角く切り取られた門が作り出されている。
ユリウスは信じがたく思わず中を覗いてみると、薄く膜が張った先に全く異なる景色が映し出されているのが見えた。
「血の媒体……こんな、こんな高度な術、は」
アウローラを見つめていたマキアが呟く。
一般に、血液と髪の毛は持ち主の記憶と情報を持つと言われている。これは媒体として特別な術に使われることもあるが、概ね、それらは禁術と呼ばれる類のものであった。
禁術とは、時に術者や関わる者の命を奪うもので、相応の対価を差し出さねばならず、その術は真実を歪める呪い、ゆえに禁忌とされている。
また、術を行使できるものは精霊使いを筆頭にごくわずかで限られているので、日常的にに触れることも少なく謎の多いものでもあった。
「通った瞬間に、多分、眩暈がする。慣れていないとそうなる。でも一瞬だから、念のため馬の手綱はしっかり握ってついてこい」
アウローラは簡単に説明を施すと、慣れた様子で造られた門をくぐり姿を消した。それまでひたすら黙ってひっそりとしていた一人の青年騎士が、堪らず声を上げる。
「エ、エーギル総長……まだ、禁域はまだしも、この先へ、俺は一緒に行くことはできません!」
ノアの後ろについて
同じ階級の騎士たちに比べ突出した技量と判断力があり、アウローラの代の要になるだろうと目される実力の持ち主で、真面目な仕事ぶりにエーギルにも可愛がられている。
「多少評価されていると我ながら己惚れてはいますが、十剣の皆様と肩を並べて王しか許されない場所へ足を踏み入れるなど、俺は許されません」
たまたま、たまたまだ。
たまたま、敵を切り伏せ難を逃れ、たまたま、馬をあてがわれただけ。
ここに残り追手を阻むか、城下へ戻り仲間と共に敵を討つことが自分にできる、一番の任務だ。国に残り、帰還した王女様のために少しでもできることがきっとあるはずではないか。
「アルノルド、アウローラ様のお言葉を聞いていなかったのか」
「聞いておりました」
「誰一人とて欠けるなと、ついてこいとのご命令だ。肩書など関係ない」
「ですが、俺は」
「今は一人でも多く、信頼できる人間が必要だ。お前の畏怖など捨てろ。行くぞ」
言い残し、門へ消えてゆくエーギルの背中を見送るアルノルドに、去り際、ユリウスが背中をたたいて鼓舞する。
「覚悟を決めろ」
「ユリウス隊長……」
どちらかと言えばいつも無口で静かなユリウスに優しく声をかけられると、同性ながらにどきりと心臓が鳴ってしまう。エーギルのように目に言える男らしい強さに当然憧れはあるが、ユリウスの端正な容姿からは想像のつかない巧みな武術や無駄のない武器さばきにだって憧れているのだ。
次々と消えてゆく背中を見送り、アルノルドは一つ、深呼吸をして瞳を閉じる。
皆の代わりに、俺が。
「俺だって……俺が王女様を守るんだ」
アルノルドは緊張からかごくりと喉を鳴らすと、馬を引いて同じく門をくぐった。
光が歪み、膜が張った空間へ身体を滑り込ませると、とぷり、と
アウローラの言う通り、目は開いているのにもやのようなものに視界を遮られ、一瞬、方向感覚を失うような浮遊感に襲われる。
恐怖心にしっかりと足を踏みしめると、そこはもう門をくぐった先、聖域の領内だ。
「これは……」
「ここが、聖域」
何が、とは言えない。だが、この場所が特別な場所なのだということは本能で理解できる。肌に触れる空気が全く違うのだ。
暖かい風が頬を撫でる瞬間があるように感じもすれば、神々しい何かを感じる気もする。ふいにきらきらしい光を感じる気もするし、息をすると頭が冷たく冴えた気持ちになる。
猛った心が凪ぐような、あからさまな言葉で表現すれば、心が洗われる気がする。水の湧き出る泉があり、小さな花々が咲いている。大木は光と視界を遮りながら、けれど日陰で暗いというわけではない。
「そう、ここが聖域と呼んでいる場所。あちらからこちらへ、どのように繋がっているのか私にはわからない。けれど、肌で感じる。ここが特別な場所であるってことを」
「わかります」
ノアは鳥人であるがゆえに、余計にここが異常であることを理解しているようだった。まるで何かにあてられでもしたのか、そっと身を抱いている。
「こんなに、精霊の
マキアが呆然と呟く。
精霊は様々な場所に宿り、人間世界とは別の世界に住んでいる。精霊が精霊として人間世界に発現する時、人間世界と精霊世界が交わり、歪む、と言われている。決まった場所に好んで居つく精霊が一定数おり、そういった場所は境界があいまいになって精霊の残滓が残る。
精霊には多数の属性とそれに沿った種族があるのだが、精霊の姿を正しく視れる者はあまりいない。
この聖域には光の精霊の力が強く働いていて、故に残滓の濃度も異様に濃いのだ。
「ここはね、いつもこんな感じなの。いつも天気が程よく、いつも何かの花が咲いてる。まるで創世の神話に出てくる『エデン』のように……」
儀式の時も、そうでない時も、このあたりに足を踏み入れるのは大抵、天気の良い時であって、それ以外の時に本当に天気が良いのかは正直言うとわからないが、それでも良いのだろうと不思議と思える。
時々一緒について回っていた跳び鼠や小鳥、良い香りのする花の中へ寝転んで見上げる大木の神々しさ。光を受けた湧泉の七色の輝き。
ここにいると時間を忘れてしまいそうになった。ここでなら、王太子でも王女でもなく、ただのアウローラでいても誰もいないから許された。本来ならば畏れ多い場所であるはずなのに、どこよりも安心できる不思議な場所。
いつかこの場所へ、トゥーラを連れてくる日を夢見ていた……。
アウローラは振り向いて、付き従ってきた敬虔な騎士たちへ休むようにと促した。自身も、張りつめていたものが少しだけ剥がれ落ちるのがわかった。
「馬に水を。私たちもよ。ノア、上着を脱いで」
「いえ、私は」
「いいから、大人しく従いなさい。傷が痛くて羽もしまえないのでしょう」
ノアの傷口は血と埃で固まってしまって、柔らかいはずの羽が固く乾いてしまっている。
鳥人は羽があって当然とはいえ日常に支障のあることもあって、自分の意志で体内に溶かしてしまうことができるものだが、今は痛みでそうもできないのだろう。
アウローラは泉に近づくと、着ていた服の一部を引き裂いて水に浸す。
この泉で、儀式の際には身を清める。この水は
「本当は、清潔な布が良いのだろうけれど。仕方ないから我慢をしてちょうだい」
冷たい布の感触が、熱を持った傷口にひんやりとして心地が良い。
「……っ」
「どう? しみる?」
「いえ、心地が良いです。ですが、私の傷などより、姫様の傷をまず清めなければ」
「こんなもの。どうせ血が必要だったから丁度よかったくらいね」
構わないとばかりに、適当にぱぱっと拭って見せる。
「……?」
アウローラの頬の傷が、薄くなったように見えるのは気のせいだろうか。
「痛みが……?」
ノアは信じがたい気持ちで、アウローラの触れる傷をまじまじと見つめる。じくじくと痛んでいた傷口が、鈍くなって和らいでいる。
「この水、うめぇな」
ヴェルナーが、生き返った! と何度も水を掬っては飲み干して、ドサッと地面へ座り込んだ。
「おい、ヴェルナー。気を抜くな」
「うっ」
エーギルの眼光鋭い窘めに、ヴェルナーは居住まいを正す。ユリウス、アルノルドも同じように、馬に水をやりながら地面へ腰を下ろした。マキアは、力を辿るように視線を漂わせている。
「――アウローラ様」
エーギルの真剣な声に、アウローラは傷口を拭う手を止め、声の主へ視線を向けた。
「貴女の、意思を伺いたい」
「私の意思?」
そんなもの、と思う。
「私の意思が関係あるの? 選択肢なんてないでしょう」
アウローラの真意を図り切れず、続く言葉を期待して沈黙が訪れる。
何かを言うつもりで口を開きかけ、思いとどまって唇を引き結ぶ。そのまま、一人へと視線を定めた。
「……マキア、話がある」
「私、ですか」
「精霊使いの領域の話だから、お前でないと無理ね」
「承知しました」
「それと、お前たちは服を脱ぎなさい」
「えっ」
あまりに突然の宣告に、男たちは面食らった様子で固まった。
「違……ばかね、見やしないわよ!」
「お、おう。まぁ、姫さんなら今更だしいいけどな」
「ばか!」
騎士たちと寝食を共にすることもあるので裸に免疫がないわけではないが、淑女としてはそうそう求めて見るものでもない。アウローラはさすがに自分の言葉が足りな過ぎたことを反省した。
「そこの泉で、身を清めて。疲れも傷も少しはマシになるはず。馬もその水で拭ってあげて。……マキア、私たちは後よ。先にこっちへ」
「姫、誰かもう一人お付けください」
「マキアがいれば十分。ここじゃ、一番頼りになるでしょう」
ユリウスの嘆願は却下され、彼らは大人しくアウローラの指示に従うことになった。
ここは精霊の力が強く働いている領域だという。確かにアウローラの言うことが正しいのだろう。
追手の不安はぬぐえないが、簡単にここへ侵入できないであろうことは理解できる。すでに消失した先ほどまで門のあった場所を横目に見て、エーギルも黙ってアウローラの判断に従うことにした。
この場所を一番理解しているのは彼女なのだから、それであれば今のうちに準備を整えるべきだろう。
黙って順に泉へ入り始めた男たちは放って、アウローラはマキアを伴い、大木へと近づく。マキアはすぐに、その違和感に眉間にしわを寄せた。
「やはり、わかるのね」
「先ほどと同じ気配がします。王女様、これは?」
マキアにこくりと頷いて、アウローラは大木の幹へ手を伸ばした。木肌がうっすらと光を帯び、正しい姿を現す――。
「!」
大木の幹が二つに割れる。
大人が通れるほどの空間がぽっかりと開いて、奥には石のはめられた美しい
「これ……
手のひらに収まる大小様々な色をした石が、特別な輝きを放って鎮座している。そして正面にはめられた大きな結晶は、複雑な石面が信じられないくらいに
「こんな石、見たことありません」
「私にもわからない」
「ここは何を祀っているのでしょうか」
その問いには首を振って答えた。――わからないのだ。
「儀式はここで行われる。先ほどの泉にな、こう、魔精石を沈める」
アウローラは仕草を交えて説明をしてくれる。沈めた魔精石は次第に淡く光るのだという。
それが面白くて、むやみやたらと魔精石を投げこんでいたことは黙っておくことにした。
「すると、魔精石には何も込められていないのに、まるで力を持ったように輝く。父上は、あの泉に特別な力があるのだと仰っておられた。あの泉は枯れることがないのだそうだ……そんなこと信じられるか? でもな、建国時から存在しているという。濁ることなく静かに、湧き続けている」
マキアはひたすらに黙り、食い入るようにアウローラを見つめる。
「清められた石を、再び聖壇へ戻す。時に、新たな魔精石を持ってくることもあるが、その場合は光を帯びるまでは一定期間、泉に入れたままだ」
どこからどこまで話してもよいのか多少の迷いはあったが、儀式は加護に関わることに違いないのだ。それであれば精霊使いの領分であるし、自分一人の手に余るのは事実で、今後のことを考えて今儀式を行っておく必要性も感じる。それならば、隠したところで何の意味もないと思った。
「アントの視察でもここは明かされない、不可侵の領域だ。真実を知る者は、もういない」
語りながら、そっと耳に揺れる飾りに触れる。
幼いころ、父から贈られたこのピアスは、常に身に着けろと言い含められていた。聖域へ出入りするようになって、次第にその意味を理解できるようになった。
聖壇の石――いっそ御神体とでも言うべきか。これらは名もなきその結晶の欠片なのだ。父は指輪、自分は耳飾りと、姿かたちを変えながら、子々孫々と受け継がれている。
そもそも、魔精石は本来とても貴重なものである。
ごく稀に産出され、どのようにして生まれるのか、未だ解明できてはいない。この石には特別な波長があり、それが精霊の気ととても近い。
本来、精霊は精霊使いへのみ力を貸し与えるが、魔精石に込められた精霊の力は、精霊使いに限らずその力を借りることができた。ただし、精霊そのものの力を使えるわけではなく、あくまでその一端、残滓だ。
それでも貴重であるので悪用されないよう、扱い方は世界規模で共通し、違反した国へはそれなりの制裁が加えられる。
魔精石に力を込められるのは精霊使いのみで、だからそうやすやすと手に入る物でもない。
精霊使いは精霊へ願い出て力を込めることもできるが、多くは精霊の残滓で事足りる。そもそも精霊の強大な力を込めることは非常に困難で、これには石の大きさと術者の能力が力に比例するのことが理由の一つでもある。
「これだけの魔精石があったら、国がひっくり返ります」
「そうね。でも、これには精霊の力が入っていないし」
「それは違います。この魔精石からは、光の精霊の波長を感じます。なんというか、眠っている、といえば良いのか」
「眠っている?」
「はい。普通、魔精石は力を込めると波長が強くなってその存在を示します。ですが、この石たちはとても凪いでいる。静かなのです。意図して力を込められてはいないのに、まるで石自身が意思を持って、大気に惑う精霊の力を吸収して大切に温めているかのよう」
「私にはわからないな」
「私にもわかりません……でもそんな気がするのです。アントなら何かわかるかもしれません。あそこには、ウルーエル様が保管されている禁書もありますし、何より、ウルーエル様自身がこの上なく貴重な存在です」
「アントか……」
謎多き国、アント。そしてその盟主、ウルーエル。
精霊使いのみ滞在が許されるのだというその国は謎ばかりが先立って、正確な情報はほとんど出回っていない。
どのように関わるべきか、アウローラは図りかねているようだった。
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