第4話 いざ聖典を出版せん

 

「何と!」


 エラルドは言った。


「それはありがたい! ではさっそくラヴィナーレ領へ向けて出発しましょう、アリーチェ殿!」

「分かりました」


 アリーチェは決然として頷く。


「いやちょっと待って」


 リベリオが口を挟んだ。


「勝手に話を進めないでくれない? 俺たちよく分かんねえんだけど。そのラヴィナーレって貴族様は信頼できんのかよ?」

「うむ!」


 エラルドは頷いた。


「ラヴィナーレ家は我々に協力してくれるはずだ! 私の長兄が、ラヴィナーレ家の令嬢をお嫁に取っているからな」

「……それだけ、か……?」


 パルミロが疑わしそうに見てくる。


「うむ、それだけだな! わはは! しかし、貴族にとって婚姻は非常に重要な事柄なのだ!」

 ウベルトは自信満々に言う。

「特に長兄との婚姻となると別格だ! 自分の娘が、嫁ぎ先のお世継ぎを産むこととなるのだからな! 両家の間には強い絆が生まれるものなのだ!」

「ふうん?」

「……」


 まだ不審そうな様子の二人に、エラルドは言った。


「安心せられよ。ラヴィナーレ家の協力を得られるであろうことは、私が保証する! だからここは一旦、私の兄上の提案に従ってはもらえないだろうか?」

「二人とも、ここはエラルドの兄上殿の仰る通りにしましょう。ラヴィナーレ領ならば、わたくしも興味がありますし」


 二人はようやく、ゆっくりと頷いた。


「……二人が、そう、言うなら……」

「にしても、アリーチェは何でラヴィナーレに興味なんかあるんだ?」

「ラヴィナーレ領は活版印刷技術が特に発展していると聞きます」


 アリーチェが突拍子もないことを言い出したので、その場にいる全員がぽかんとした。


「確かにそうですが、それがどうかしましたか、アリーチェ殿?」

「わたくしは出版をしようと思うのです」

「出版……。確かにそうすれば、アリーチェ殿の主張がより多くの人に届きますね」

「ええ。市民の方々に広く聖書のことが知られれば、中央教会を脅やかす勢いとなり得ます。教会を変えていくためには、欠かせない手順です」


 わっはっは、とウベルトは豪快に笑った。


「そんなことは私は考えたこともなかった。いやはや、アリーチェ殿は聡明でいらっしゃるな!」

「あ、その……いえ……。これは直感に従っただけのことなのです……」


 天啓か、とエラルドにはぴんと来た。アリーチェは、自分の頭で考えついたことではないのに褒められたのを、後ろめたく思っているのだ。


「アリーチェ殿、自信を持たれよ」

 エラルドは言った。

「その直感を得られるというのも、アリーチェ殿の稀有な能力。是非、誇りに思っていただきたい!」

「そう……そうですね」


 アリーチェはまだ戸惑いがちだったが、とりあえず俯くのをやめた。


「では、みなさん。ラヴィナーレ領に向けて、出発しましょう」


 歩き出そうとしたアリーチェを、止める声があった。


「すみませんが、少々お待ちを」

「?」


 ふわふわとした薄茶色の長髪の男性が近づいてきた。穏やかそうな細い目をしている。


「ネストレ」


 エラルドは言った。彼は、シルヴェストリ家に仕える騎士団の団長である。


「どうした、何かあったのか?」

「口を差し挟む御無礼をお許しください。しかし、ご婦人、しかも聖女であられるアリーチェ様を、このまま徒歩で往かせるのは忍びのうございます。もしよろしければ、私の馬に乗っていただければと思いまして、お声がけした次第でございます」

「わっはっは、これはこれは!」


 ウベルトは言った。


「私としたことが、アリーチェ殿への気遣いを怠っていたな! 大変失礼した! アリーチェ殿、お嫌でなければ、我が家の馬に乗ってくれないだろうか!」


 アリーチェは少したじろいだ。


「嫌ではありませんが、わたくし、馬には乗ったことがございません」

「ご心配はご無用です。私がおそばにおつきします。アリーチェ様は、横乗りで座られるだけで結構でございます」


 ネストレの部下たちが、横乗り用の鞍を準備する。女性が裾の長い衣服を着ている場合に座りやすくするための道具である。用意の良いことだ。


 リベリオとパルミロはまたしても不機嫌になった。


「ちょっと、アリーチェのそばにつくのは俺たちなんだけど!」

「……ネストレ……こいつに、アリーチェを、預けられるか……?」

「リベリオ殿、パルミロ殿」


 エラルドはなだめた。


「ネストレは私たちシルヴェストリ家の忠実な部下だ。信用してもらって構わない。それに、アリーチェ殿をお守りする人間は、一人でも多い方が良いだろう? これからは多くの仲間と巡り合うことになる。そう毎度毎度、猜疑の目を向けていては、味方を集めるのにも難儀するぞ」

「うぐっ、でもっ」

「……それは、そうだが……」

「いえ、お二人の心配はごもっともです」

 ネストレは言う。

「道中はもちろん、アリーチェ様が最も信頼を置かれている方に、一番近くで護衛をお願いします。どうぞ、アリーチェ様の横についてお歩きになってくださいませ」

「ネストレの言う通りだ。代わりにこのウベルトが、先導を受け持とう!」


 そんな訳で、配置が決まった。先頭にはウベルト。二番目にアリーチェが馬に乗り、ネストレが馬の手綱を握る。アリーチェの左右にリベリオとパルミロがつき、エラルドはアリーチェの後ろで予備の馬に乗る。三十人の騎士たちがそれぞれの馬の周りに付き従う。

 こうすることで、移動速度がぐっと上がった。もっとも、アリーチェが町へ寄るたびに教会に赴いて演説を行うので、通常の旅のような速度というわけにはいかなかったが。


 アリーチェの話を聞いたウベルトは滂沱の涙を流した。


「素晴らしい。私たちはやはり本来の信仰に立ち返り、聖書にあることに従うべきなのだ。中央教会はやはり打倒せねばならぬ!」


 ネストレも深く頷いた。


「仰る通りでございます、ウベルト様。私も、アリーチェ様のお話を直に伺って正解でした。やはりアリーチェ様は聖女であらせられる。そして中央教会はごみです」


 さて、戦力を大幅に増強したアリーチェ一行は、いざこざをことごとく回避し、追い縋る敵を全て打ちのめした。彼らは難なく、国の東部に位置するラヴィナーレ領に踏み入ることができた。


「わっはっは! ここまで来れば危険も減るだろうな!」


 ウベルトは豪快に笑った。


「ラヴィナーレ家には既に早馬を通じて了承を得ている。中央教会の手のものが付け入る隙は無かろうて! わはは!」


 この頃になるとアリーチェの噂は全国に轟き渡っており、ラヴィナーレ領の町の人々までもがアリーチェが来るのを心待ちにしている有様だった。

 アリーチェは怒涛の勢いで賛同者を集めながら、遂にラヴィナーレ辺境伯の城に到着した。

 早速、当主と面会する。

 アリーチェ、エラルド、リベリオ、パルミロ、ウベルト、ネストレは、揃って客室に通された。


 待っていたのは、質素ながらも小洒落た服装をした中年男性。


「よくぞ来てくださいましたね。アリーチェ・ベルティーニさん」


 のんびりとした優しい声で話しかけられる。


「僕はサロモネ・ラヴィナーレといいます。ここの領主をやらせてもらっていましてね。御身の安全は保証いたしましょう。どうぞごゆるりとなさってくださいね」

「ご親切を賜り誠に感謝申し上げます、ラヴィナーレ様。ご迷惑をおかけすることとなりますが、どうかご容赦くださいますようお願い申し上げます」


 アリーチェは固い声で言った。緊張しているらしい。

 サロモネ・ラヴィナーレ伯はにこにこした。


「何とまあ、礼儀正しい修道女さんでいらっしゃる。そう堅苦しくしなくても結構ですよ。僕のことはサロモネと呼んでくださいね」

「よろしいのですか」

「ええ、ええ。これからよろしくお願いしますね」

「では、よろしくお願いします、サロモネ様」


 それからアリーチェは、ここでやりたいことなどをサロモネに伝えた。おや、とサロモネは少しだけその垂れ目を見開いた。


「執筆と出版ですか。もちろん構いませんよ。どうぞお好きにしてくださいな。アリーチェさんのお考えを、僕も応援したいですからねえ」


 アリーチェは部屋に案内された。そこに、執筆に必要な紙やインクや書物が運び込まれる。


「このような立派なお部屋に入るのは初めてです」


 アリーチェは気が咎めているようだった。質素倹約を信条としている修道女にとって、貴族の暮らしは馴染みがないものらしい。サロモネは相変わらず目尻に皺を寄せてにこにこしていた。


「ご自由にお使いになってくださいねえ」

「……分かりました。ありがたく使わせていただきます」


 リベリオとパルミロは別室を与えられていたが、すぐに剣を引っ提げて戻ってきて、アリーチェの部屋の扉の前に陣取った。


「ここの見張りは俺たちがする。それでいいか?」

「……他の奴は……まだ、信用ならない……」


 やれやれ、とエラルドは嘆息したが、サロモネは快諾してくれた。


「アリーチェさんも、よく見知ったお方の方が、安心して過ごすことができましょう。そうでしょう」


 そして、アリーチェは部屋にこもって、ひたすら執筆活動に励んだ。心配になるくらい、一歩も部屋から出てこない。


「『百箇条の論題』を書いてた時もあんなだったぜ」

 リベリオは呑気に言った。

「アリーチェ……真面目すぎる……」

 パルミロは不安そうだったが、アリーチェを止める様子はない。

 アリーチェはきっと神のご意志の通りに事を成さんと邁進しているのだろう。エラルドも、そっとしておくことに決めた。


 何事もなく数日が過ぎた。


 ウベルトとエラルドは、ネストレたち騎士団と一緒に、剣の鍛錬に励んでいた。


「わはは! 素振り五百回だ!」

「はい!」

「声が小さいぞ! わはは!」

「はい!!」


 その時、ラヴィナーレの護衛が駆け込んできた。


「みなさん! 中央教会の一団が、この城に向かって来ています!」

「何ぃっ!」

 ウベルトは叫んだ。

「何と!」

 エラルドは叫んだ。

「おやまあ」

 ネストレは言った。


「数は五十名ばかりです。城を占拠するつもりかも知れません! 加勢を願えますか!」

「当然!」

「無論!」

「承りました」


 エラルドたちは正門に向かってダッと駆け出した。


 城の前の道では、既に乱闘が始まっていた。ラヴィナーレ側がやや押され気味で、中央強方側がこちら側へと抜け出そうとしている。

 シルヴェストリ家の一行は臆せずに、戦いの渦中へと飛び込んで行った。


「うらあーっ!!」


 ウベルトは轟くような声で唸り、力強く重い剣捌きで、四、五人の敵を一度に相手した。剣撃を受けた戦士たちの体が吹っ飛ぶ。凄まじい怪力である。


「薄汚いごみですね。近寄らないでいただけます?」


 ネストレは見下すようにそう言い、華麗に剣を操って、これまた五人ほどの敵を切り捨てる。予測不能の動きに翻弄された敵が、不意をつかれて次々と倒されていく。


「私も負けてはいられぬな! アリーチェ殿の護衛として!」


 エラルドは身軽に飛び回り、あっちこっちへと剣を振るって、続々と敵を倒した。


「絶対に城内へは入らせんぞ!!」


 敵の腹を刺し、喉元を切り裂き、背中を一突きにし、着実に葬っていく。


 ラヴィナーレ家とシルヴェストリ家、双方の働きあって、中央教会の寄越した武装勢力は、散り散りになって逃げ出した。幸いシルヴェストリ軍には、怪我人は出たものの、死者は出なかった。


「他愛ないな! はっはっは!」

「全くです、兄上!」

「お二人とも、見事な戦いぶりでした」


 三人はお互いを労わり合った。


「しかし、これは前触れにすぎんぞ!」


 ウベルトは言う。


「中央教会による予告なき強襲。ラヴィナーレ側には死人も出た。これを捨て置いてはラヴィナーレ家の威信にかかわる! この流れ、いずれは大戦争へともつれこむやもしれんな! わはは!」


 ウベルトの言う通りだった。サロモネは中央教会の蛮行を良しとしなかった。しかも今回襲いかかってきたのは中央教会の縁の深い貴族からの差し金。サロモネはまず、今回の戦いに人員を派遣した三家の貴族に対し、宣戦布告をすることを決めた。

 だが、決めただけで、一向に実行には移さない。エラルドはすぐにでも報復に出るものと思っていたが、サロモネはのんびりしていた。


「まだ時が満ちてはおりませんからねえ。やるからには力を溜めてからでないといけませんよ」

 サロモネは言って、部屋に置いてある立派な造りの剣を眺めた。

「その時が来たら、僕も久しぶりに暴れさせてもらいましょうかねえ」


 サロモネの言う「時」とは、アリーチェの本のことだった。


 さて、アリーチェは猛烈な勢いで本を二冊ぶんも書き上げた。


 一冊は、『教会の改革について』。もう一冊は、『聖書 現代語訳版』だった。

 アリーチェの主張は、堕落した中央教会から脱却し、聖書に忠実な信仰に立ち返ること。であるからして、聖書を実際に人々が読めるようになることが不可欠だったのだという。


「現代語訳には手間取りました」


 アリーチェの顔には疲れが溜まって見えた。


「神のお言葉を一言たりとも違えることなく、かつみなさまに分かりやすいように書き直すことは、とても神経を使う作業でした」

「もうお休みになられた方がよろしいかと。アリーチェ殿」


 エラルドは恭しく紙の束を受け取って言った。


「あとは私たちが、必ずやこの素晴らしき努力の結晶を出版して世に出させ、人々に行き渡らせましょう!」


 エラルドの手に渡った原稿は、ラヴィナーレ家の管理する印刷所に秘密裏に運ばれた。そこで、忙しなく印刷が行われた。本になったそれらは、それぞれの町の交易網を利用して、全国に広まった。


「……そろそろですかねえ」


 ある日、サロモネは言った。


「と、申しますと?」


 問い返すエラルドに、サロモネはにこにこと笑みを返した。


「市民や農民が、アリーチェさんの味方に付き始めたことでしょうからねえ。これで僕はようやく、各貴族たちに宣戦布告ができます」

「何と! では、いよいよですか?」

「ええ。もうじき決戦の時が来ます。中央教会との衝突……」


 ふふふ、とサロモネは楽しそうに笑いをこぼした。


「そうとなれば、戦いの噂はたちまち国中に広まることでしょう。果たして市民や農民の方々が、黙ってこれを見逃すでしょうか?」


 エラルドは驚嘆した。では、これは中央教会と貴族に対する、下々の人間たちの反逆という、前代未聞の壮大な話になるわけか。まさかサロモネが、そこまで見通していたとは。


「これは、全ての人を巻き込んだ、大戦争に発展するに違いありませんねえ。まさしく、新時代の幕開けです」


 そう言ったサロモネは、満を辞して、宣戦布告の文をしたためた。そして、それを持たせた使者を各貴族と中央教会とに走らせたのだった。


 

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