第9話 A day:Kira




 ジリリリ。

 ジリリリ。


「ん……」


 左手で机の上をまさぐり、音の根を止める。タン、という音ののち訪れる静寂が心地いい。


「ダメ」


 独り言で二度寝に打ち勝ち、キラはむくりと起き上がった。六時三十分。いつも通りだ。

 昨夜とさほど様子の変わらないベッドを軽く整え、制服に着替えて髪を梳かす。鏡に反射した光が眩しい。とりわけ、キラの生まれつきの金髪は、寝起きの目には辛いのだ。しかし、短く切りそろえられた、手入れの簡単なこの髪は、キラのお気に入りだった。

 そろそろ朝食を作らないといけない。部屋を出てリビングへ向かうと、新聞がひとりでに椅子の上に立っていた。


「!?」


 ゆっくりと近づくと、新聞の陰でミゲルがコーヒーを飲んでいた。すっぽりと覆われて見えなかったようだ。

 だよね、と心の中で呟きつつ、まだこちらに気付いていないミゲルに声をかけた。


「おはよう、ミゲル」


 この家に住む四人のうち、一番早く起床するのは、決まってキラかミゲルだった。あとの二人はなかなか起きてこない。エラとは朝に会わないで出かけてしまうことが多かった。

 キッチンへ向かうと、昨日の夜、余らせて冷やしておいたはずの煮物が冷蔵庫から消えていた。温めて食べよう、思っていたのだが、きっとナギが食べたのだろう。しょうがないから作るか、とキラは包丁を握り、豚ひき肉を入れたオムレツと野菜たっぷりのトマトスープを全員分作って置いておいた。ナギはトマトが嫌いだが、ちゃんと食べさせるようにミゲルに言いつけてから、七時三十分、定刻きっかりに家を出た。

 夏が近づいているとはいえ、朝はまだ涼しい風が頬を掠める。太陽の光をいっぱいに浴びた空気のにおいが、キラは好きだ。

 家から数分のところにある学校にはすぐに着く。教室の一番乗りはいつもキラだ。人のいない教室は静かで、落ち着く。夕方になると騒がしくなる我が家は、勉強するには不向きだから、ここで集中しないといけない。しかし、今日の分の予習は昨日のうちに終わらせてしまっていた。キラは学生カバンから、一冊の文庫本を取り出した。


 キラは本が好きだ。ファンタジーもミステリーも、恋愛小説も読む。何層にも重なったクリーム色の紙の上で繰り広げられる物語は、いつだってキラを空想の世界に連れて行ってくれる。現実から距離をとることが出来るこの時間も、キラの大事な時間だ。あっという間に過ぎ去る時間の感覚も、時間の空白を埋めていくようで心地よい。

 始業のチャイムが鳴る。いつの間にか教室は人でいっぱいで、話し声が頭上にいくつも飛び交っていた。

 窓の外は快晴で、雲の居場所はないようだった。


(……暑い)


 人混みも、騒音も、むさ苦しいこの教室にこもる熱気も、大嫌いだ。

 いつかの記憶が蘇ってくるのを感じ、周りの音の一切を遮断するように目を閉じた。




 頭の中にこだまするのは、誰かの泣き声。女のひと。いや、これは二人分の泣き声だ。

 床が目と鼻の先だ。左手も、赤ちゃんの手のひらのように小さい。

 目の前で、白くぼやけていたシルエットがだんだんと鮮明さを増し、やがてうずくまる一人の女性の姿が映る。ワインレッドのドレスを着た、長い黒髪のその女性は、泣いていた。この人の声だったのか。

 それよりもっと近くに、別の泣き声が聞こえる。すぐ隣、左隣から。

 ゆっくりと首を傾けると、同じくらいの目線の子供がいた。大口をあけて泣きじゃくるその顔には、見覚えがある。

 片腕、左腕がない。エラだ。

 短い右腕で懸命に、零れ落ちる涙を拭っている。一向に止まることのない雫が、ぽたり、ぽたりと地面を濡らしていった。

 やっと気付いた。目の前で泣いているこの女性は、母親だ。

 これは、幼い時の記憶。まだ言葉も、感情も曖昧だった頃。

 二人は、双子で、片腕しか持ち合わせていない子供だ。

 否。

 キラとエラは、双子で、片腕しか持ち合わせていない、親に捨てられた子供だった。

 キラの記憶は、小学校に上がる頃、おばあちゃんに引き取られた時から始まっている。母親の顔も、父親の顔も、エラの元気に笑う顔も、覚えていない。

父方だったおばあちゃんは、キラとエラをまるで自分の子のように、愛情を注いでくれた。早くに夫を亡くし、学生結婚をして妻とともに実家で暮らそうとした息子を追い出してから、ずっと一人だったおばあちゃんにとって、二人は「天からの贈り物」だったという。

 キラは、いつも優しくて暖かい、おばあちゃんの大きな背中が大好きだった。

 二人が中学校にあがった頃、キラは一度聞いてみたことがある。学校から帰ってきてそのまま、キラは庭へ向かった。


「……ねえ、おばあちゃん」


 花に水をあげていたおばあちゃんにそっと近づく。

 おばあちゃんはいつもと変わらず、にっこり笑ってこちらを向いた。


「学校でさ、言われたんだ。腕が一本しかないなんて変だ、って。おばあちゃんは、どう思う?おばあちゃんも、僕が変だと思う?」


 おばあちゃんは、何も言わなかった。何も言わず、優しくキラを抱きしめた。

 ぽんぽん、と背中をさすられたキラは、こみ上げてきた言葉を、吐くように溢した。


「左手だけだとさ、できないことってたくさんあるんだ。皆みたいにご飯もうまく食べられないし、着替えだっておばあちゃんがいないとできない。体育も見学ばっかりで、嫌になっちゃうよ」


 語尾が上がり、自嘲するように笑ってしまった。言葉は止まらずに、決壊したダムの水みたいに流れ出る。


「僕はお姉ちゃんみたいに強くないんだ。ひどいこと言われても、言い返せない。みんな遠巻きに僕を見てるだけで、友達もいない。おばあちゃん、僕、学校楽しくない。行きたくないよ。やっぱり僕、生まれてこなかったほうが良かったのかな」


「キラ」


 空気を切り裂くような、凛とした声が響く。

 はっとして、目が覚めた。目の前が見えなくなっていた。縁側の向こうの障子の影から、エラがこちらを見ていた。いや、睨んでいた、と言ったほうが正しいかもしれない。


「おばあちゃん、ごめ」


「不安なんだねえ」


 おばあちゃんの声は、いつもと変わらず、優しかった。


「だあいじょうぶ、まだ慣れないだけさ。それにキラ、お前にはエラがいる。一人じゃないだろう」


 また、ぽんぽん、と背中をさすられる。そこで、やっと気付いた。

 いつの間にかキラの背中は、おばあちゃんの背中より大きくなっていた。


「辛くなったら、おばあちゃんに言いなさい。キラを泣かせる奴は、おばあちゃんが許さないよ。だから安心して、ゆっくり生きればいいのさ」


 無意識に見開かれた両目が、じわ、と揺れ出す。

 おばあちゃん。僕の、おばあちゃん。

 堰を切ったようにあふれ出した涙は、キラの新しい制服に、丸いしみを作っていった。




 退屈な授業は、ノートの上でペンを動かしている間に終わっていた。暗黙の束縛から逃げるように退散していくクラスメイト。あっという間に、キラは教室に一人取り残された。

 帰ろう。カバンにノートや教科書をしまっていく手を、キラは途中で止めた。

 たまにふと思い出す、あの日の記憶。エラはあの日から、あまり喋らなくなった。おばあちゃんはあの後、高校生になった二人を見届けるように、息を引き取った。キラとエラはまた、ふたりぼっちになった。

 ミゲルと出会ったのは、そんな時だった。


「……ん?」


 スカートのポケットの中で、スマホがブーッ、ブーッと振動していた。授業が始まる前に電源を切るのを忘れていたようだ。取り出して通知を確認すると、ミゲルから買い物の連絡が入っていた。今夜はあぐりとオボロが遊びに来るらしい。

 荷物を右肩にかけ、席を立った。荷物の重さと腕の重さで、上半身が右側に傾く違和感にも、もう慣れた。今でも時々、傾いてしまうけれど。

 でも今は、そばで支えてくれる誰かがいる。

 いや、本当はずっと隣にいて、気付けなかっただけかもしれないが。

 キラは一人ではないということを、教えてくれた皆がいるから。キラは今、幸せだった。

 スーパーへ寄って、アジトに帰ろうとする途中で、同じくアジトへ向かおうとしているオボロと合流した。バイトを終えたばかりのようで、疲れ切っているようだ。

 いつか、おばあちゃんに言われた言葉を思い出す。


「いっぱい食べて、強くならないとだねっ」


 強く?と首を傾げるオボロの背中を、ばしっとカバンで叩いた。なかなか痛そうで申し訳ない。

 アジトに着くと、既にあぐりがキッチンに立っていた。エラはまだ帰ってきていないようだ。ナギに今朝の煮物の件を問い詰めると、しどろもどろになっていた。キラは一切怒っていないが、冗談が許される仲は素敵だと思う。


(お姉ちゃんが帰ってきたら、久しぶりに思い出話でもしてみようかな)


 レモネード・ジャンキーの団員が集まると、アジトは一気に騒がしさを増す。それはたまに、朝の教室の騒音を超えることだってある。

 それでも、心地良い。あたたかくて、優しくて、たまに真面目で。うまく説明できないけれど、ここが自分の居場所だと思える気がするのだ。


「ふふ」


 思わず零れた笑みも、あぐりとナギの論争にかき消される。ガチャ、とドアが開く音がして、たった一人のきょうだいが帰宅した。

 キラは、満面の笑みで出迎えた。




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