第9話 独りで飲むぐらいなら
午後のアポイントメントが終わると、水元はクライアントの近くにある市立図書館に立ち寄った。業務委託者である彼の机はすでにG社内にはなかった。書類の作成や管理には、自宅かノートパソコンを起動できる場所に身を置く必要があった。
彼が抱える顧客は50社近くある。このうち定期的に訪問しなければならないのは20社強で、自宅外で作業するためのリワーク拠点も、大体同じ位の数字に上った。彼が立ち寄った図書館もその1つだ。
ワーズワスやシェリーなど、学生時代に半ば強制的に接した詩人の書物が並ぶ棚を一瞥もせず、1階の隅にある自習コーナーに向かう。自分と同じように、社外での労働を強いられているスーツの姿が点在している。
その多くは無機質なデザインのノートパソコンを睨みながら、産業用ロボットのようにキーボードを叩いている。
席に座った水元は、作業を始めて20分ぐらい経つと、送信したメールや報告書の内容から、今日という1日が何ら特別なことのない、過去の延長線上に過ぎず、またこれから続く平均的な日々の起点の1つでしかなかったことを思い知らされた。
30代で正社員という市民権を奪われた人間が、収入を下げることなく、日本社会で再びそれを得るのは容易ではない。周囲と同じように仕事をし、一定の成果を出しているにも関わらず、契約が相手の都合次第で打ち切られてしまうかもしれないという、潜在的に可能性のあるシナリオが頭をもたげ、客観的な判断に必要な精神の余白を狭めてしまう。
周囲にロールモデルがなく、不平等感とやるせなさを常に感じている水元にとって、無為な1日の連続は、苦痛以外の何物でもなかった。今の仕事のペースを緩めなければ、心身のバランスを崩す恐れがあると頭では分かっていたけれども、実際に緩めるのはやはり不安である。
宮川の背任行為の発覚も、水元を苛んだ。自分の背任行為が明るみになれば、水元も会社を追われることになるのだ。G社も野口も、都合が悪くなれば自分を、何事もなかったかのように捨て去るのではないか。要らぬ不安ばかりが膨らみ、仕事が遅々として進まない。
「奈美ちゃん、お休みしているの」
開店したばかりの残照に、グラスをキッチンペーパーで磨くオーナーの姿があった。外はまだ明るく、他に客の姿はない。
「体調でも崩したの?」
「知らない。男でも出来たんじゃない? それか男のシンボルを取り除いてもらう手術を受けているとか。いや、本当に分からないの」
水元は壜ビールを頼むことにした。それから30分、時計の針が午後8時を回ろうとしていた頃になっても、客は彼一人だけだった。
クーラーの冷気に埃を吸った湿った空気が入り混じる。雨が降ってきたようだ。オーナーは言う。
「あんまり言いたくはないけど、奈美ちゃんの存在って大きいわよね」
水元は頷いた。
「みんな、奈美ちゃんがいないと分かると、つまらなそうな態度を見せて、1本だけ飲んで帰っていくの。失礼しちゃうわよ、全く」
結局、水元も壜ビールを半分以上残し、店を後にすることにした。そのまま家路に着こうかと考えていた時、携帯電話が着信を知らせた。画面上には〈通知不能〉の文字が並んでいた。
「水元さん? ご無沙汰しています。覚えています?」
業界紙の営業マンのような声が聞こえた。
「覚えていますよ。中村さん、元気そうですね」
「会社は元気じゃないけどね」
思えば中村と話すのは、塩津社長の通夜の日以来だった。
「本当に久しぶりですね」
「いや、電話したのはさ。ヤナさんっていたでしょう。塩津社長の通夜にいた職人の。ヤナさんがね、塩津社長はもうすぐ1周忌だから、一緒にお墓参りをしないかと誘ってきてね。工具屋の兄ちゃんの都合は、どうなのかと聞かれたものだから」
「そういうお話ならぜひ。ご一緒させてください」
人恋しさが水元の背中を後押しした面もある。
「いつですか」
「電話しておいて恥ずかしい限りだけど、実はまだ決まっていないんだよ。決まったら連絡するけど。ところで、君は今お酒飲んでいるのか。店内の有線放送が受話器越しに聞えるんだけど、仕事中?」
「いや、一人で飲んでいます」
「ひとり!」
水元が受話器越しに聞く音声の背後も、有線放送の音楽が聞える。中村は少し間をおいてから言った。
「何だ、寂しく飲んでいるなら、お付き合いするよ。今どちら?」
「新宿ですけど」
「そうか。俺は今、八王子なんだ。これから1時間半はかかりそうだけど、待てる?」
「中村さん、ご自宅はこちらの方なんですか?」
「いや、西国分寺」
「西国分寺なんですか。私は武蔵小金井なんです」
「ご近所じゃないか」
「じゃあ間をとって、国分寺でどうですか」
「分かった。じゃあこれから向かうよ。9時頃に国分寺駅の改札前で落ち合おう」
帰宅ラッシュの時間だった。目一杯に乗客を乗せた電車は、中野駅でさらに東西線からの乗客を拾う。身体を傾けながらつり革に掴まり、ムッとした空気を耐え忍ぶ時間がやたらと長く感じる。
国分寺で電車を降りて乗客の波に押されるように階段を上り、改札口を出ると、正面にある花屋の前に、濃いグレーのレンズの眼鏡を掛け、右の手のひらをこちらに見せるマスク姿の中村の姿がいた。左手には分厚い黒皮のカバンがあった。
最後に会った時よりも頬はこけ、ずいぶん痩せていた。
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