第10話 履歴書のムッシュ
「ごめんね、突然呼び出してしまって。行きつけの店があるから、そこにするけどいい?」
中村の提案に異を唱える理由はない。北口を出て線路沿いに歩いてすぐの場所に、小さな個店の焼鳥屋があった。狭い店内には幸いにも男2人が座れる席が空いていた。
背の低い老婆が、愛想もなくカウンターにお絞りを置いた。中村と水元は、生ビールとたこぶつ、串の盛り合わせを注文した。
「もう少し質のいい店にすべきかもしれないけど、うちの業界も相変わらずなんでね」
中村は眼鏡とマスクを外し、顔を拭いた。水元は言う。
「中村さんから電話が来た時、私の携帯画面には、通知不能、と表示されたので、とうとう会社が外資の傘下に入ったかと思いましたよ」
「ああ。八王子の分室にある固定電話から掛けたからね。交換機の関係で、そう表示されてしまうんだよ」
「あと、眼、どうしたんですか? それに花粉症ですか?」
「ああ、これ? パソコンの使いすぎなのか分からないけど、やたらとものが眩しく見えてね。お客さんのところに行く時はこれを掛けていくときまりが悪いから外すけどね、その分余計目が疲れてしまうから。夜でも掛けていると楽なんだ」
「そうだったんですか」
「花粉症も、今年はひどいよね。ところで、そちらはどう、景気は相変わらず?」
「まあまあですよ。でも全体的には頭打ちですかね。大口の受注というのは、なかなかないものですよ。まさか新聞広告出せというわけじゃないでしょう」
「またまた。出してくれるならありがたいけれどね」
生ビールとたこぶつが運ばれてきた。二人はしばらく、互いの近況を分かち合った。中村の会社は希望退職の募集が始まり、本社ビルも売却することになった。ボーナスは今年も出そうにないという。水元は正社員の扱いではなくなり、個人事業主となったと伝えた。中村は目を丸くしたが、報酬額を知ると、よくそんな絶望的な状況で働き続けていられるな、とねぎらった。
串の盛り合わせがやってきた。中村は生ビールを追加で注文した後、使えない支局の記者がとうとう観念して退職し、海外に逃避行してしまった話をした。
「あの時、記事になったんですか?」
立川のスナックで、塩津社長の遺体が発見された現場に遭遇した時のことだ。中村はすぐに支局の記者に電話をしていた。
「さては、君のところはうちの新聞とっていないな」
「すみません」
「今度会った時に購読申込書を渡すよ。あの時ね、記事にはならなかったよ。いや、通信社が配信する記事は小さく載せたけど、うちが取材した記事は載らなかった、というのが正確かな。あれからもう1年か」
空になったビールジョッキをしみじみと見つめていた中村は、何かを思い出したように、分厚い黒皮のカバンの中に手を入れた。クリアファイルやノート類がびっしりと詰め込まれている。
「そうそう、面白いものがあるんだよ」
取り出したクリアファイルにはA4サイズの紙が数枚挟まれてある。
中村は水元の目を見て、口を開いた。
「塩津社長の一件だけど、君の中ではどうだい? もう昔話になってしまった?」
水元は、まだ釈然としない気持ちが残っている、と答えた。
「少なくとも俺はね、恩に与った人間だから、何とか真相を知りたいと思ってきたんだ。売掛金は響工業で回収したんでしょう、お宅も。うちもそうだよ。響の御曹司から聞いたよ」
「それは何ですか」
表紙を見せると中村は言った。
「響工業の登記簿。広告のお付き合いする時に、色々と資料は取り寄せはするのだけど。仕事柄、必要なのでね。俺は頭が悪いから、こうしてプリントアウトして持っているんだ」
登記簿謄本の写しなどをホチキスでまとめた資料だった。〈役員に関する事項〉の欄に、野口勇の名があった。顧問であった野口が、最新の登記簿では取締役となっている。水元は尋ねた。
「役員になったということは、経営面で関与を強めているということですか?」
「そう見るのが自然かな。それとね」
中村が紙をめくる。
「この野口という男がどういう男なのか、過去の記事データベースで検索してみたんだ。ちょっと細かいけれど見てほしい」
人事異動を伝える経済紙のコピーには、中村によって所々に傍線が付してあった。
●2007年6月20日付東京経済新聞16面
【東京電工】…▽航空宇宙技術開発本部長を兼務 専務生産管理本部長兼自動車機器開発本部長 夏寺久志…▽退任 常務航空宇宙技術開発本部長 野口勇…
●2004年6月27日付東京経済新聞13面
【東京電工】…▽常務(取締役)航空宇宙技術開発本部長 野口勇…
●2002年6月22日付東京経済新聞10面
【東京電工】…▽取締役兼航空宇宙技術開発本部長(航空宇宙技術開発副本部長)野口勇…
●1999年1月4日付東京経済新聞9面
【東京電工】…▽取締役航空宇宙技術開発本部長(航空宇宙技術開発副本部長)夏寺久志 航空宇宙技術開発副本部長 野口勇…
中村が解説を始めた。
「基本的な読み方はカッコの前が新職でカッコの中が旧職。カッコの後ろにある職名は継続職だ。部長より下のクラスからの昇格か、他社からの転籍の場合はカッコがなくなる。営業部員も最初、研修で書かされるんだ」
「結局、これは何を意味しているんですか?」
「野口が東京電工を退任したのは2007年。この時、彼の上司に当たる夏寺久志という専務が、航空技術開発本部長を兼務する体制を取っている。野口の年齢は他の資料を調べれば分かるけど、当時58歳で役職定年前だ。上司である専務が兼任することになったということからも、東京電工にとっては、イレギュラーな人事だったと見て取れる」
確かに専務の夏寺は3つの本部を統括することになっている。人材が豊富なはずの老舗メーカーでは通常ありえない。中村はなおも続ける。
「野口が取締役に就任したのは2002年、彼は53歳だった。東京電工の幹部社員の出世のスピードとしてはまあ普通だ。でもこれを見て欲しい。弊社の記事で恐縮だけど」
彼はクリアファイルからもう一枚、別のコピーの束を水元に見せた。
●1993年9月8日付 全国工業新聞25面
◎製造業わが技術 上鳥羽理化学技術(京都市伏見区)
当社の原点は、小径パイプの曲げ加工とレーザー溶接技術。東京電工グループとして大学や企業の研究機関との共同研究活動にも積極的に参画する。近年はロケットや航空関連で用途拡大が期待されるチタンや炭素繊維などの難加工材分野にも挑戦し、米仏航空機メーカーと試作品の取引実績を構築した。▽資本金=5000万円 ▽売上高=5億円(92年12月期) ▽従業員数=30人 ▽代表者=野口勇 東工大工卒、証券会社勤務を経て88年入社。90年専務。92年社長。大阪府出身。
「上鳥羽理化学技術って、今もあるんですか」
中村は首を横に振った。
「この記事が出た約10年後に国内の新興株式市場に上場したんだけれども、その4年後に東京電工が完全子会社化している。記事の書きぶりから見て、東京電工の出資があったみたいだね。技術力が買われたのだろう。ただ、上場時の会社の公表資料に野口の名前はどこにもない。この時にはもう東京電工に移っていたと思われる。どこかのタイミングで彼が上鳥羽を離れ、東京電工で頭角を現していった、そういうことだね」
水元は響工業で最初に野口と会った日を思い出した。なぜ彼が金融界に情報ソースを持っていたのか納得した。
「証券マンだったとは」
中村は口角を上げた。
「意外でしょう」
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