第8話 風船としての私

 地下鉄の入口が四隅にある交差点の横断歩道を、日傘を差した制服姿の女性社員らが、ポーチを片手に渡る昼食時であった。ランチサービスを板書した飲食店の看板が至る所に置かれ、時に通行人の歩行の妨げにもなっていた。


 グレーのスーツに身を包んだ水元は、午前中に予定していた取引先の訪問を済ませた後、ゆったりとした雰囲気のレストランに一人で入り、食事を取ろうと考えていた。


 営業に使うタブレット端末と、カタログが入った重量感のある黒皮のビジネスバッグを降ろし、少しでも早く肩と腰をリラックスさせたかった。牛飯屋やカレーチェーンでもよかったのだが、せわしない空気から少しでも離れたいと思っていた。


 目にとまったのは〈シンガポール鶏飯〉の文字だ。黒で統一された内装に、天井からつるされた裸電球が光る。入口の左にあるガラス窓からは厨房が見え、アジア系の顔つきをした料理人が、轟々と上がる炎を前に、中華鍋を振るっている。


 店内は意外と奥行きがあった。壁に掛けられた液晶テレビは、MTVを流している。2人掛けの席に腰を下ろし、冷水を運んできたウエイトレスに、鶏飯のランチセットを注文した。


 水元の振る舞いには落ち着きがあった。もともと冷静沈着な性格の持ち主ではあった。


 個人事業主としてG社の日本法人と業務委託契約を結んだ水元は、労働法の定める様々な権利を奪われた一方、自らの裁量で行動できる自由を得た。自身に降りかかる物事の一つ一つを、精緻に分析し、対応しようとする能力が、かつてより、かなり高まったように見えるが、時に均衡を崩すこともある。


 業務委託契約を結んだのは、昨年4月のことだ。突然の弓子との別れからも、まもなく1年が経つ。


 日常生活で弓子の名が頭によぎることは、時間の経過とともになくなるだろうと考えていたが、そんなことは決してない。胸のなかにぽっかりと穴があいたような日々が続いている。街を歩いて本屋に入れば、弓子と二人で入った記憶が蘇ってしまう。

 信じる女性に裏切られた惨めな自分を直視したくないという防御本能も働いた。現実を是認できないのだから、未練は澱となって蓄積する。


 鶏飯が運ばれてくる。長粒米の爽快な香りに加え、蒸し鶏の表面を彩る緑色のパクチーが食欲を掻き立てた。社会人になってから旅行で海外に出たことのない水元の頭には、そのふくよかな香りに、今年こそは海外、それも手頃な東南アジアを旅行したい、との思いが浮かんだ。


 仕事が終われば書店に寄って、ガイドブックを購入するのも悪くはないと考え、スプーンとフォークを手にした時、店内に聞いた覚えのある音楽が流れてきた。


 弓子が、大学在籍時から彼と武蔵小金井のアパートで一緒に過ごすまでの間、好んで口ずさんでいた、〈ネーナ〉の〈99ルフトバルーン〉。99の風船、だった。

 彼が抱いた将来は、風船のように、ビル街の青空に消えていった。


 ジーンズとTシャツというラフな出で立ちの女性が、跳ねるようにして自室から飛び出していった。笑いも涙も、何も見せることなく。風が吹いたのと同じだった。胸に残ったのは怒りでも悲しみでもなく、虚しさだった。心の穴が開いた状態で街をさまよう彼もまた、色は違えど、風船の1つだと言っていい。


 巷の男性と同様、そうした情況で水元が一人で真っ直ぐに立ち続けるには、仕事に没頭するしかなかった訳だが、対処すべき課題が次から次へと降りかかる中で、自分の立ち位置を確かめるための、ある種の基準点としての役割を担ったのが、残照だった。水元は月に2,3度は残照に通うようになった。


 利害関係のない人間が集い、忘却に身を沈められる時間の流れる店内に、胸の辺りに山のあるTシャツ姿の人間がいる。


 厚化粧の奈美はバーカウンターの奥で、氷の入ったグラスにスコッチを注ぎ、軽くステアしてから、それを手渡す。前かがみになった奈美の、ディオールの香水を吹き掛けたシャツの中に隠れていた人工的な乳房を時に目にする。


 今、水元の目の前にあるのは、鶏飯だ。飯粒の上に縦に並ぶ蒸し鶏の妙な質感が、妙なことに、奈美の乳房を連想させる。弓子のそれが得られない今、自分は奈美を代替にして、おのれを慰めようとする変態となってしまったのかと思った。


 窓の外をみた。


 そう言えば、塩津社長の不審死からも、もうすぐ1年になろうとする。通夜の日から今に至るまで、未解決の殺人事件を取り上げるメディアはほとんどなかった。


 残照のカウンターの奥にある、スカイ・ウォッカの群青色の壜の表面に自分の顔が映え、それが塩津の青ざめた顔のように見えた様な気がし、肝を冷やすことがあった。酒の勢いに任せてこの錯覚を心霊体験のように異化し、ふざけて奈美に話すと、大して興味もなさそうに仏頂面のまま、そう、と返され、それよりも唄いなさいよと、カラオケの予約機を突き出されたことがあった。


 奈美にしてみれば、そんな訳の分からぬことを言われても、反応しようがない。


 3週間ほど、残照に足を運んでいない。少し仕事のペースを緩めて、今度の報酬が入った金曜の夕方は予定をおこうかと考え、鶏飯を口に運ぶ。


「水元さん」


 聞き覚えのある野太い声に彼は我に返った。声の主の方を向くと、口ひげを生やした、額の広い華奢な男が手を振っていた。河内という名の、後輩社員だった。


 チノパンに紺のジャケットというラフな姿だが、G社の優秀な営業マンである。販売実績は東京で首位の座を保ち、確か先月も月間MVPを獲得したはずだ。名は河内だが泉州で育った。人の内面に土足で入り込むような話し方は、誤解を招くこともあったが、そこに男の魅力があるのも確かで、水元の苦手なタイプではなかった。


「何してはるんですか、こんなところで」

「何って見れば分かるだろ。飯を食っている。河内こそ何でこんな洒落た店に入ったんだ」

「その言葉、そのままお返ししますわ。外回りの間に寄っただけですよ」


 河内はウエイターを呼び止めて席を移動したことを伝え、早く食後のコーヒーを持ってくるように言った。


「そんなことより先輩、数字、相当いってるんとちゃいます、今月」

「そんなことないよ」

「またまた。みんな言うてますよ、水元さんがリバイバルしたって。どうしたんですか、ここんとこ。えらい金脈見つけたんでしょ」

「見つけたとしても河内の足元にも及ばないよ」


 ウエイターがアイスコーヒーを持ってきた。


「そうそう、水元さん、聞きました?」


 小さな水滴が表面を覆うグラスを指先でさすりながら河内は続けた。


「宮川さん、会社辞めるらしいっすよ」

「えっ」


 水元は耳を疑った。


「みんな不思議がってね。あの人レズだから、子どもができて大変という訳でもなさそうだし、色々聞きまわったんですけどね、懲戒解雇ですわ」

「懲戒解雇? パワハラとか?」

「パワハラでなくて、無茶無茶なことやらかしてたらしいですよ、N社あるでしょ、うちの競合の。あそこに社内文書流し込んで、見返りに報酬もらってたって。人事の人間が教えてくれましたけど。最低ですわ、あの女」


 水元の心拍数が少しだけ上昇した。


「それは、どうやって判明したの」

「そんなん、チクった奴がいてるからでしょ。向こうの会社かうちの会社か分かりませんけど」


 店内を流れる曲がフェードアウトし、食事客の一人がナイフを床に落とした音がやたらと響いた。河内の口は黙っていても動き出す。


「まあN社に渡ったのは人事情報だけらしいんで。生々しい数字が向こういった訳じゃないのが救いですけどね」


 河内はアイスコーヒーを啜ってから、水元の目を見た。


 その視線の眩しさに水元は耐えられず、目をそらし、コップに入った氷水を口にした。再び河内の顔を見ると彼の目は先ほど来から、自分の顔に向けられていることに気付いた。


(なにか、知っているのか)


 喉もとまで、その言葉が出かけてきたが、河内は今年春に入社した新人男性社員の一人の、酒を飲み過ぎると股間を触り出す奇妙な性癖に話題を変えた。


「じゃあ、外回りに出ますんで」


 コーヒーを飲み干すと河内はそう言って、立ち上がった。


「今度、カラオケ一緒に行きましょうよ。その新人誘って。水元さんもたまには付き合いましょうよ」


 そう言い残して、レジの方に消えた。

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