第7話 サイン・サイン・サイン

 水元は会社近くの立食い店で、醤油味の濃いイカ天蕎麦を胃袋に詰め込んだ。


 こんな塩分の高い食事ばかりしていたらいずれ、脳の血管が何かの拍子で切れて、路上に倒れて死ぬのだろうと、下らないことを考えながら、春霞なのか路上の埃が舞っているだけなのか分からぬ、くすんだ空気の中を本社に向かって歩いていく。


 鼻奥が熱っぽいのは、花粉症の季節の真っ只中だからだ。空気清浄機が効いた室内に早く戻り、女性社員の冷たい視線を浴びようが構わず、ウエットティッシュで思いっ切り顔の表面を拭きたかった。


「こんばんは」


 水元が自席に着くと、上司の宮川が近づいてきて声を掛けた。まだ昼間だ。先の明るくない水元は気分を害した。


 宮川は薄いクリアファイルを手にしながら、水元を防音対策が施されたガラス張りの会議室に連れて行った。そこで彼女はクリアファイルをテーブルの上に置き、中から一枚の紙を取り出した。〈業務委託契約合意書〉と書いてある。


「どういう話ですか」

「大阪行くのが嫌だと思われたようなので、あなたが東京に残る方法をあれこれ考えたの。その結果がこれ」

「雇用契約を結んでいるはずですよね、会社としては」

「ええ。でもこの景気でしょう。あなたが残るには理由が要るでしょう」


 水元は腑に落ちなかった。


「大阪行きを断ったつもりはないんですけど」

「だからよく聞いて。選択肢はね、正社員のまま大阪にいくか、社員ではなく個人事業主として、会社と契約を結んで東京に残るか。それしかなかったの。そして、あなたが片方に難色を示されたので、会社としては大阪に出す人間をすでに決めてしまったの」

「個人事業主ってどういうことですか」

「雇用契約だと、年金とか保険とか天引きになるでしょう。それがなくなるのよ」

「仕事の内容は今と変わらないんですよね」

「そこも注意してもらいたいんだけど、雇用契約ではないということは、あなたは労働者ではなくなるの。会社があなたを使うという形ではなくなるわけ。保険業界には、代理店という形で仕事を取ってくる方がたくさんいるわよね。それと同じ。あなたは仕事を取ってこればいい。私達は特段、日々の仕事の進め方について指示することはなくなるの。1年間の報酬額は予め決められてあって、それを12で割った額を毎月支払う。成績が悪かったから収入が減るという心配はしなくて済むし、ノルマはない。悪くないでしょう?」

「年金や健康保険料は、毎月の給与から天引きではないということになるんですか」

「そうよ。そもそも毎月支払われるのは給与じゃなくて、報酬という名前に変わります。所得税も、自分で経費などを計算して確定申告してもらう形になるわ。うちの会社、そういう人結構いるのよ」

「労災にあったときはどうすればいいんですか?」

「労働者じゃなくなるから、個人事業主向けの共済みたいなのを自分で探して入ってもらうしかないわね。雇用保険もなくなるので、収入保障保険に入るのを検討してもらうことになると思う。年間報酬額はこちらの紙に記載されているけど、4・5ミリオン、ジャパニーズエンでどう?」


 分からないことが多すぎる。リスクが大きく、呑める条件ではない、と水元は考えた。


「今ここで決めないといけないんですか」

「個人事業主よ。会社が細かいことであれこれ指示をしなくなるのだから、好きなように仕事ができる。魅力的なことだと思わない?」

「でも急な話なので」

「あなた独身でしょう。相談する人なんていないじゃない」


 相手にしているのは人間ではなく、人間のふりをした人工知能のように水元は感じた。


「明日までにサインをしてもらえれば、こちらとしては嬉しいんだけど」

「そんなに早く、ですか」

「あなたのつもりよ。でも残念ながら、こういう形でなければ、会社はあなたにお金を払えないの。正社員のまま残ってもらっても、うちは外資で労働組合がないから、仕事がない状況だと給与がドラスティックにダウンするのはご存知でしょう? 一番の働き盛りの時間を、そんなふうにして浪費するのは、もったいないと思わない?」


 宮川の左手首にブルガリの腕時計が光った。水元はバブル期に社会人になった人間と、自分の間に広がる断崖のようなものを、事あるごとに意識させられてきた。宮川もその一人だ。消費面で日本経済を活性化させる分にはいいが、社会の中の立ち位置を奪われないよう、なり振り構わず行動し、自分より下の世代を生き残りのための踏み台にするのは止めて欲しい。だが今、そんなことを考えて何になるのだろう。


 その夜、普段足を運ぶことのほとんどない、御茶ノ水のジャズバーでキューバリバーを何杯もあおる水元の姿があった。


 酔いが回り出した彼はなぜか、新聞屋の中村の携帯に電話してみようと考えたが、斜陽産業である新聞業界への転職は止しておいたほうが好いと諭されそうだし、向こうにしてはこんな下らない人間と会うメリットなどないだろうと考え、思い止まった。


 あんな条件を会社に提示されるぐらいなら辞めたい。


 でも大した職歴もスキルもない自分を採用する会社など、人を大量にかき集めて、ふるいにかけて、よく働く奴隷だけを残す会社ぐらいしかないのだろう。


 そう言えば、どこかの若い政治家が都内で選挙公示日に、演説していたのをテレビで見た。


<既得権益の甘い汁を吸っている方々。その既得権益を壊させてもらいます>


 きっと自分のような人間に対する、耳障りのよい甘言なのだと水元は思う。親を頼りにできず、ひたすら社会で漂流し、巨大な組織に搾りとられていく。


 カネとコネがものをいう実世界で、それらを持たずして大学を出た自分は、悲しいことに運もない。目的のないまま時間を浪費している。下には全く価値観の異なる世代が控え、テクノロジーの進化に適合しながら自分を駆逐しようとする。肉体的にも精神的にも擦り減っていく。


 酒が一段と回ってくる。自分など所詮ちっぽけな人間なのだ。そう胸に言い聞かせながら、水元は再度グラスを傾けた。


 これまでの水元は、まるでぼんやりしていた。会社との新たな契約を弓子に伝える必要はあるのだろうか。弓子に伝えた時、彼女がどんな表情をするのか。思い浮かばない。浮かばないというよりも、これまで見たことのないような、仏のような表情でこちらの目を見て、別れを告げられそうで恐ろしかった。


 女性は男が思う以上に冷徹で、利己的な生き物と聞いたことがある。ラブドールに囲まれて生活する中年男性の気持ちが少し分かるような気もする。人形は自分を裏切らず、そこにあるだけで関係性が維持される。現状維持が、安心感をもたらす。


 自分が本当に恐れているのは、一人の女性を失うことに伴う、孤立、もっと言うと、不安定な状況なのかも知れない。


 この不安を克服できれば、初めて自由を得ることになるのではないだろうか。

 待て待て。やはり酒が回っているようだ。正常の判断はできそうにない。


 いずれにせよ野口の指示通りに動けば、月15万円の報酬が得られるのだ。なにせこれから不安定な立場になるのだから、有難い話ではある。何かトラブルがあれば、小沢部長を頼ればいいではないか。


 そう自分に言い聞かせた水元は、勘定を済ませて外に出た。


 石畳が敷かれた小路の飲食店街の所々で、スーツ姿の集団とすれ違う。歓送迎会の時期だ。普段より大きな声量で、表情を緩めながら互いの名前を呼び合い、道の真ん中でガハハと笑っている。笑っていやがる。


 改札口を抜け混雑する構内で人を掻き分けながら、立錐の余地のない、メタルカラーに橙色の線の入った中央線の通勤快速に乗った。爆弾でも運ぶかのようにゆっくりと電車は加速をし、一定の速度となる。暖房の強い車内にいると、徐々に息苦しさを強くなる。


 降車駅までの時間をできるだけ短く感じられるように、車内の人々の様子を眺め回していると、ドアの上のサイネージ・ディスプレイが彼の目に入った。ちょうど、通信社が配信するニュースに画面が切り替わったところだった。


◎インサイダー容疑で元秘書を家宅捜索へ=証券取引等監視委員会

証券取引等監視委員会は4日、神奈川工業の経営情報を公表前に把握しながら同社株の売買をしたインサイダーの疑いで、元衆院議員秘書の高山和利氏が経営するコンサルティング会社を家宅捜索する方針を固めた。同氏は09年秋まで島本信義元衆院議員(自民群馬x区、同年に落選)の秘書を務めていた。


 島本元衆院議員。S。元秘書。インサイダー。


 「ムッシュ・グッチ」の話に符合する部分があまりにも多い。


 神奈川工業は、自動車部品メーカーだ。


<あれから一切情報出てこないでしょう>


 出ているではないか。こんな報道が出れば、島本の復帰は難しくなる。


 ──いや、野口の話では、インサイダーは成立しなかったはずだ。あくまでも元秘書が抱えた金銭トラブルで、証券取引等監視委員会が動く理由はない。


 それに続報が出ていないのは、塩津社長の不審死の方である。


 そもそも塩津社長の不審死を巡る追加情報が出ないことについて、何かしらの圧力が掛かっていると、野口が明言したかと言うと、そうではない。


 野口の話は、どこまで本当なのか。あの白衣の男の背中には、ほの暗い世界がうごめいている。


 顧客情報を提供し続けるうちに、自分も闇に巻き込まれはしないだろうか。


 水元の酩酊感はすっかり消え去った。


           *


 武蔵小金井のアパートに戻り、シャワーを浴び終えると、チャイムが鳴った。


 弓子は合鍵を持っている。チャイムを押すことはまずない。


 そうはいっても、京都の実家に鍵を置いたままにし、扉を開けられないでいる可能性もある。水元は壁に掛かったドアモニターの画面を覗いた。


 扉の前には黒いスーツを身に纏った、中年男性の姿があった。髪は短く切りそろえられ、銀縁の眼鏡をしている。男が誰なのか記憶になかった。応答マイクで用件を尋ねた。


「山田産業の者ですが」


 甲高い声で男は名乗った。山田産業は弓子の勤務先だ。こんな夜に何の用事なのか、水元は不気味に思った。


「お話があって、ご迷惑を承知で伺ったんですけど、少々よろしいでしょうか」


 弓子は不在だと伝えると、水元さんですか、と男は聞いてきた。水元は自分の名前を相手が知っていることに、一層の違和感を覚えた。


 扉を開けると、玄関に敷いたドアマットに大柄な態度で腰をかけた男は、安っぽい合皮の鞄からクリアファイルを取り出した。


 中にある紙には〈示談合意書〉の文字が透けて見える。


 水元は何がなんだか分からず、どのような態度を取るべきか迷った。


「工具メーカーに勤めていらっしゃるんですよね」


 水元は、はい、と返事をした。


「うちの大切な社員なので、彼女の希望に沿おうと考えましてね」

「一体、何の話ですか?」


 男はファイルから紙を取り出し、水元に見せた。


「端的に言えば手切れ金です。会社でお支払いしますが、ご希望の額はいかほどでしょう。ペンはありますよ」


 金額の記載欄は空欄になっていた。静寂が水元を飲み込んだ。

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