第6話 生々しい情報の対価

「お宅どこまで知っているの?」


 水元は、全く知らない、けれども探るように会社から言われている、と伝えた。実際のところ、探るようにとの指示は受けていない。余計な一言だとすぐに後悔した。


 その答えに相手が納得したのかどうかは分からない。こんな若造が物事を把握しているものかという、半ば馬鹿にするような下目遣いで水元をみながら、野口は、日引に少しだけ席を外すように言った。


 二人になると、野口がやや小さな声で、囁くように言う。


「まあ、お宅の言う通り、やっぱり、いろんな人の恨みを買ったんじゃないの? 他言しないなら言うよ」


 水元は約束した。


「知っている人は僅かだし、これ言うとソースがばれちゃうから。まあ旧知の金融機関の関係者とだけ言っておこうか。彼がある日、電話を掛けてきて、ため息混じりに私に言ったんだ。とんでもない不祥事に巻き込まれたかもしれないって言ってね。『増資インサイダー』って言葉、聞いたことあるかい?」


 インターネットのニュースサイトで過去に取り上げられていたことを水元は思い出した。


「ある企業が増資すると公表する前に、情報を入手した人が、その会社の株を売買して利益を得ることですよね。でも塩津製造所は上場していないはずではないですか?」


「そう。塩津は非上場だけど、この件は別の上場企業の話だ。上場企業が公募増資をすると、新株を発行する訳だから、一般的に発行済み株式総数が増える。すると1株あたりの価値は減る。すでにその株を保有する投資家は損失を避けて売却に動くから、通常株価は下落する。経済学の授業で勉強したと思うけど、そうでしょう」


 英文科出身の水元は、こうした話題には明るくなかったが、ひとまず頷いておいた。需要と供給の関係で、喫茶店の需要が一定な中で、喫茶店の店舗数が増え、コーヒーの出荷量が増えれば供給過剰になり、コーヒー1杯の値段が下がるのと同じだ、と頭の中で置き換えて理解するよう努めた。


 野口は続けた。


「半年前に、東証1部に上場する自動車部品メーカーのC社が公募増資をすることを決めたんだ。普通は公募増資をやる前に、新たに発行した株式を、どの証券会社が主幹事となって市場でさばいてもらうか決めるでしょ。この時も大手証券会社が主幹事となり、株の売り出し方や時期など詳細を取りまとめたんだ。だがどうも周辺にいた人間がよくなかったようだ」

「どう、良くなかったんですか」


 不躾な質問に野口は表情を歪めた。


「聞いた後、忘れます」


 野口の頬には、やはり張力が働いている。


「その、証券会社の内部の人間がどういう訳か、増資の情報を大臣経験のある元有力議員に流していたのさ。野党のね。厳密に言うと元大臣の元私設秘書だけど、まさか『先生』が知らないわけないよね」


 水元には政治の知識も乏しい。


「S元経済産業相。経世党。この前の衆院選で落選してしまったけど、捲土重来を期して準備をしているようだ」

「実際にSさんは、売買をしたんですか?」

「いや。彼はしていない。足が残るようなことは決してしないさ。証券会社側も、昔は元大臣に色々と面倒を見てもらっていたんだろう。実際に売買に関わったのは、元私設秘書だよ。元秘書も自分の知人に売買をさせて、利ざやを現金で受取るという、極力証拠を残さないようにする手段をとったみたいだ」

「その知人が、もしかして塩津社長という?」

「そう」


 野口は身を乗り出して語気を強めた。


「Sの元私設秘書は、塩津社長の高校時代の同級生だったんだよ。演劇部で全国大会に出た仲間というからな。親友と言ってもいいだろう。塩津製造所が、なぜ名だたる自動車メーカーと取引を続けることができたのか。このご時勢、試作開発といっても、韓国とか中国とか、東南アジアとか、いくらでも競合メーカーがいるのにね。そういうコネクションも働いていたのでしょう。落選したとはいえ、塩津製造所にとってSとのコネクションは決して無意味なものではなかった訳だ。製造業を保護する政策を立案できる人間で自動車メーカーにも顔が利く」


 野口は窓の外に顔を向け、ため息をついた。その目の先には死んだ塩津がいたのだろうか。


「水元さん、僕はね、Sが塩津製造所に色々な便宜を供与する見返りに、証券会社から聞いたC社の増資情報を、元秘書を通じて塩津社長に伝え、塩津社長がそこで得た利ざやをキックバックするように、暗に圧力をかけていた、そうとしか思えないんだな。それを選挙資金にしようか、といった感じでね。そもそも塩津は中小企業で、票にはなり得ないのだけど、元秘書の親友がやっている会社だからね」


「でも実際に売買をしたら、それこそ塩津社長はインサイダーの罪に問われますよね」

「そうだよ。ただし、実際は、思惑通りにならなかった。実は、公募増資の前に、証券会社はPR会社を使って、C社の株価が上昇しそうな話題を新聞社にリークしようとしたんだ。電気自動車の開発成果に関する話題だったかな。仮に、C社株が1000円で、リーク後に1200円となったら、ここで空売りを出せば、公募増資後はどうせ株価が下がるので、タイミングをみれて買戻しを入れれば儲かることになる」


 水元は空売りの理論がよく分からない。


「空売りというのは、水元君はご存知ではないか。他人からC社株を借りて、例えば1株1200円の時にその株を売りに出すでしょう。実際に売れた時に、まずおカネが入ってくるじゃないか。でもさ、借りた株は一定の期間内で貸してくれた人に返さないといけない。そこで、1株600円までC社株が値下がりした時に、買い注文を入れて株式を調達し、貸し手に株式を返せば、利益が確定するでしょう。1万株の売買をしたのなら、1200×1万-600×1万で、600万円の黒字になる」


 野口はパンフレットに簡単なグラフと数式を書き入れながら説明した。


「逆に株価が1200円から1800円に上昇してしまったら、分かるよね。1200×1万-1800×1万だから、このケースでは600万円の赤字だ」

「よほどのことがない限り、塩津社長は儲けを出せると思うんですけど」

「そうだよね。実際に、塩津社長の同級生の元秘書は、アンダーグランドの世界で資金を調達して、ちょうど塩津社長に現金を渡そうとしていたところだった。塩津社長は現金を受け取って、自分の証券口座に入金し、株価が上がったところで空売りの注文を出せばいい。証券取引等監視委員会が目を付けたとしても、増資の情報を事前に知っていたと裏付ける証拠がなければ、立件は難しい。そもそも公募増資前に株価が上昇していて、空売り規制が入る前なら、利益を確定するための投資家の売りがかさんで値下がりするのを見越した空売りだった、と説明することもできる。普段からよく売買されていた銘柄だし、塩津社長が空売りを入れたとしても、他の投資家の売買に『かき消される』ので、株価のチャート上にも変な足跡は残らないでしょう」


 水元は株の売買の経験はなく、チャート上に変な足跡、とを聞いてもイメージができない。


「日頃から売買されていない銘柄に、一度に大量の注文が入って、売買が成立してしまうと、株価のグラフってね、こんな感じで上に下に大きく振れることが往々にしてあるんだ」


 野口はパンフレットの余白にチャートの例を書き足す。株価の動きについて説明する野口は、ロケットの部品について説明するときよりも生き生きしているようにみえる。


「思惑通りにいかなかったというのは、新聞社にリークした後だったんだ。記事が掲載される前日に、新聞記者がC社を訪れて、社長に取材をしたんだよ。PR会社は、予めプレスリリースを作ったり、社長と綿密に打ち合わせをしたりしたんだけれど、そもそも天才肌の社長でね。取材の時に、事業拡大に向けてこれから数百億円規模の設備投資をやるといったんだ。もっと不幸だったのは、訪れたのが経験は乏しいのに、やる気ばかりある記者でね。取材後にPR会社は設備投資の話はまだ生煮えの話だから、記事にしないで欲しいといったのだけれども、編集権はこちらにあるといって譲らなくて、翌日の紙面には設備投資の話が載ってしまった。部品メーカーだから、新聞社側の広告営業担当者の付き合いも、あまりなかったみたいでね」


 中村が記者を忌み嫌う理由も分からなくはない。彼はおそらくそのような経験を何度もしてきたのだろう、と水元は考えた。野口はさらに続けた。


「現預金が200億円レベルの企業が、数百億円規模の設備投資をするには、銀行から借入をするか、公募増資をするかのどちらかしかない。投資家は公募増資のリスクを嗅ぎ取って、報道を受けてC社株はストップ安となった。この騒動の過程で、主幹事の証券会社の社員寮で、当該の案件に携わった社員が、首を吊って自殺しているのが見つかってね。遺書にはS元大臣との関係が仄めかされていたというんだ」


 水元は黙った。


「結果的に、新たに株式を発行しても狙った額の資金が調達できない状況になり、公募増資は延期せざるを得なくなった。普通なら、残念だったね、となって、ほとぼりが冷めるのを待つことになるんだろうけど、一方で元秘書の手元には結構な規模の、それも法外に金利の高い借金が残ったんだよ」

「元秘書の借金だったら、塩津社長が責任を負う必要はないんじゃないですか」

「二人は同級生だからね。塩津社長がその借金の一部を肩代わりしていてもおかしくはないよ。個人間のやり取りで、口約束みたいなのがあったのかもしれない。それにね」


 野口は水元の目を見た。


「警察は塩津社長の死因を公表していないけど、なんでだろうね。亡くなった雑居ビルのエレベーターには当然、防犯カメラが付いているだろうし、誰が出入りしていたのかすぐに分かるはずなのに。スナックのオーナーとかね。一切情報が出てこないでしょう」

「誰かが圧力を掛けている、ということですかね」


 野口はニヤリとした。


「通常、そこまでの話が野口さんの耳にまで入っているなら、週刊誌あたりが記事として取り上げても変ではないと思うんですけど」


 あご髭を指で擦り、窓の外をみながら、出来の悪い学生を相手にする教師のように野口は答えた。


「彼らだって頭を使っているさ、S元大臣の所属派閥の有力議員には、法務大臣経験者とかもいるでしょう」

「彼ら?」


 ふふっ、と野口は鼻で笑った。


「高崎銀行の支店長の話だってそうだよ。ああやって行方不明になったと報じられたけど、実際は今回の顛末で当局の捜査が及ぶのを恐れて、Sの知己がカネを積んで海外で彼の世話をしているみたいだよ。彼も仕事上、色々知りすぎてしまったからね。メガバンクが高崎銀行の筆頭株主に入っているし、Sの力があれば何とでもできるでしょう。元私設秘書もそう。彼の行方はどうなんだろうね」


 水元は少し寒気を覚えた。


「そこまで詳しい話、どうして知っているんですか」

「まあ、ソースがいるんだよ」

「ソースがいるなら、野口さんもインサイダーができますね」


 野口は表情を変えることなく、私の目を見て言った。


「そういう人間に見えますか?」


 室内に沈黙の空気が流れた。水元は再び余計な一言を口にしたことを悔やんだ。


「すみません。失礼なことを」


 頭を下げる水元の姿を見て、野口は表情を緩めた


「いえいえ。私は決してそんな人間じゃありませんよ。でも水元さん、初対面にしては、物怖じされない方なんですね。最近の若い人には珍しい」


 自分は決してそんな人間ではなく、人と接するのが煩わしい中で、仮面をかぶっているだけだ、と水元は思いながら、野口に言った。


「どうしてこんな生々しい話をされるんですか」

「言っておいたほうが今後のためにいいかな、と思ったんです」

「こちらは売掛金を回収するために来ただけですけど」

「小沢部長、ヨーロッパに行くんだって?」


 野口の発言に、水元は不意を付かれた。


「彼とはすごく親しくさせてもらっていたんだ。あるセミナーで知り合ったんだけど、高校の後輩でね。いつもお客さんの話を聞かせてもらっていたんだ。ちょっといいかな」


 野口は白衣のポケットからスマートフォンを取り出し、登録された連絡先の一つに電話をした。


「あ、小沢くん、今話せる? あ、そう。いつからだっけ、ドイツ行くの、そう」


 甲高い声が、白い壁に囲まれた会議室に響いた。


「でね、例の件だけど、君のところのお坊ちゃんがちょうど今、目の前にいるんだけどね、この前言った通り、彼にお願いしてもいいかな。大阪なんて若い人が行かせるところじゃないでしょうが。うん、でも君がベルリン行ったら、できないでしょう。やれるの、あなた? そうでしょうが。時期は迫っているんだし、いいかね? じゃあこちらで伝えておくから、いいね。うん。また電話するよ、はい」


 通話を終えて、スマートフォンをポケットにしまいこんでから、野口は水元を見た。その瞳が意外に澄んでおり、水元は驚いた。


「詳しくは小沢くんから話がいくだろうけど、実は頼みごとがあるんです」

「何ですか」

「端的に言えばね、お宅の会社が工具を納めている会社の情報を、伝えて欲しいということなんだ。もちろんタダとは言わない。提示してもらえればそれなりの手当てはします」


 水元の表情がひきつった。生殺与奪の権を持つ小沢が関わる話ならば、無視はできない。


 しかし会社の規定として、〈法的根拠などで合理的な説明ができる場合を除き、第三者に顧客情報を提供する〉訳にはいかない。ましてや便宜供与を受けるなど論外だ。違反が発覚した場合、懲戒解雇は免れない。


 小沢はそれでも、野口に顧客情報を渡していたというのか。


「先ほどの名刺に投資組合の肩書きがあるでしょ。お宅のような高性能な工具を、新しく入れる会社というのは、私らから見れば、まさに成長株なんだ。喉から手が出るほど欲しい情報といっても言い過ぎではない。というのは、分かってくれますかな」

 でも、という言葉が口を出ない。それを察するかのように、野口が言葉を続けた。

「まあ、それが会社としてどうかという、案じるあなたの気持ちも分からなくはないけどね。最悪クビは免れない。だがね、君は逃げられないよ。何せ小沢くんが、このことを君が知っていると知ってしまったから。それとね」


 咳払いをしてから野口はなおも言った。


「さっきのS先生にまつわる話、情報屋に流せば結構な額になる話なんだよ。立派なスキャンダルじゃないか。つまり、どういうことか分かるよね。知ると言うことがどういうことなのか。別に言う必要はなかったんだけど、君が聞きたそうだったからね。ギブアンドテイクですよ」


 地雷を踏んだことに気付くのが、あまりにも遅かった。


 野口の具体的な要求は、G社のイントラネットで定期的に配られる営業月報のデータをその都度、彼にFAXで転送することだった。1回につき情報提供料15万円を現金で支払うという。水元にとっては大金だ。


 躊躇する水元の背中を後押しするかのように、野口が笑顔を見せる。


「おっしゃる通り社内に知られたら、クビになりますが、大丈夫ですよ。小沢君だってやれたんだ。会社の規則には反しているかもしれないけど、彼は私以外には流していないから。もし明るみに出たら、私だって立場が危うくなりますよ、世間的にね」


 相手の方が一枚も二枚も上手だった。野口は水元が会社の中で後ろ支えのない孤立した存在であり、かつ業績に全く貢献しない問題社員として、大阪に近く飛ばされるということまで、小沢を通して把握した上で、適切なタイミングを待っていたのかもしれない。


 水元は降参するより他はなかった。書面のない契約が交わされた瞬間に、野口は満足そうな表情を見せて、内線電話をかけた。


 会議室に日引が戻ってくると、懸案の売掛金について話し合いが始まった。野口はその間、席を外した。塩津の資産・負債を響工業が継承した以上、債務は響工業にあった。支払い方法の確認などテクニカルな問題を解決するだけで話は終わった。


 水元が礼を述べて席を立とうとすると、日引は内線電話を掛けて再び野口を呼び出した。できるだけ早く社屋を出たいと思ったが、間に合わなかった。野口はすぐに会議室に現れ、小沢くんから話がいくと思うのでよろしく、と言葉を添えながら、白い封筒を手渡してきた。


「展示会の招待状だけど、響工業の展示コーナーもあるので、ぜひおいでよ」


 その薄さに違和感を覚えた。チケットやフロアマップなどが同封された通常の展示会の招待状であれば、もう少し厚みがあるはずだ。


 玄関先まで笑顔で送りだす野口と日引に水元は頭を下げて事業所を後にする。


 幹線道路沿いにあるコンビニエンスストアに立ち寄って缶コーヒーを買い、中の飲食スペースの座席に腰をかけてから、封筒を開封した。


 三つ折にされたA4サイズの紙を広げると、あろうことか、私の小金井市内のアパートの住所と弓子の勤務先の企業名、住所が無機質に印字されていた。


 さらに下段には、こう記してあった。


(下手に動かないように)


 野口の甲高い笑い声が聞こえたような気がした。

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