七、庇護少年

 それから二日。燈架と颯季は、詰所にある洋間造りの書斎に閉じ籠って過ごした。燈架は椅子に座り、机に凭れ、苛々と書類を捲る。一方、颯季は燈架が用意した妖に関する書物を、部屋の隅の長椅子の上でずっと読み耽っていた。

 妖の書物を希望したのは、颯季だった。妖のことが知りたいのだという。

 つくづく妙な奴だ、と燈架は思う。妖を引き寄せる霊力を宿しながら、彼は妖に対する術をほとんど知らなかった。少なくとも、燈架たちが必要最低限と括っている知識は持ち合わせていない。霊力を操る術を知らないし、身を守る術も心得がないようだ。これまでどう生きてきたのか、少々疑問が残る。妖に襲われることくらい、これまでもあっただろうに。


「……どうかしました?」


 本から顔を上げた颯季と目があった。思い悩んでいるうちに、いつの間にか当人をまじまじと見つめていたようである。

 なんでもない、と燈架は誤魔化して、


「ちょっと外に出て見ないか。机に向かってばかりで気が滅入る」


 しかし、少年は気が進まないようだった。書を開いた恰好のまま、曖昧な表情を浮かべる。


「息が詰まらないか」

「僕は……慣れていますので」


 困り顔でそう返し、しばらく俯いて思案した後、そっと書を置いて長椅子から立ち上がった。


「でも、燈架さんが行くと言うのなら、お付き合いします」


 明らかに気を遣ってくれている様子に、今度は燈架が困り果てた。


「良い。気が進まないのを無理に出掛ける必要はない。俺に気を遣っていないで、思うように過ごせ」


 しかし、気が滅入っていたのは事実なので、茶でも淹れることにした。

 颯季を置いて書斎を出、厨を覗いてみると、朱袴の短髪の女に出くわした。首元で切った髪に大きな瞳。身長もずいぶんと小さく、子供と見違えそうな女だが、これでも颯季よりは歳上だ。彼女もまた、朱門の妖祓いの一人である。

 彼女は、突然現れた燈架に驚いたのか、大きな目が零れ落ちてしまいそうなほどに目を見開いて固まっていた。


熾保しほか。丁度いい」

「は、はい。なんでしょう?」


 声を掛ければ、仔犬が吠えているような甲高い声で、返事をする。


「なんか良い菓子はないか。甘い物が食いたくなった」

「確か……お饅頭ならあった気が」


 熾保の目が一瞬棚の上を彷徨った。それから燈架に視線を戻し、


「すぐに探して持っていきます。お茶も一緒に」

「なら、頼む」


 はい、と返事した途端、きびきびと小動物のようにせわしなく動く。そんな熾保の背中に口元を綻ばせた後、手ぶらで書斎へと戻る。

 引き戸を開けると、颯季は先程まで燈架が座っていた机の前に立っていた。書類を取り上げ、広げている。燈架に気付き振り返った颯季は、ばつの悪そうな表情をしていた。


「……何を見ているんだ?」


 なるべく萎縮させないように気を遣いながら、気まずそうにしている颯季に近づき、彼の持つ書類を覗き込む。

 書かれていたのは、〈花守〉に関する情報だった。鵺、九尾の狐、酒呑童子……言い伝えられている妖の姿や、これまでの伝承が記載されている。


「一応、機密なんだがな」

「……すみません」


 机の端に立ったまま、縮こまる。


「なんだってまた、こんなものを」


 少年は項垂れた。だんまりでやり過ごそう、というよりは、言おうか言うまいか悩んでいるようである。別に叱ろうと言う訳ではないのだが、と燈架は思う。客人の前に書類を放置して出ていった自分も悪いのだから。


「……〈花守〉を捜しているんですか?」

「神隠しの犯人だと考えてられているからな」

「先日の花の話なら、迷信ですよ。〈花守〉が花を穢す行いをするはずがありません」


 ずいぶんと確信的な物言いをする。

 こうして書類を見る傍らで颯季と話すのは、書物の所為か妖に関することばかりだった。これといって大した話はしていないが、時折颯季が妙に妖について確信めいたことを言うのを燈架は気にしていた。妖と花の迷信然り、妖の習性や妖力の扱い方にも、詳しいようだった。妖祓いですらほとんど知らないようなことを、いったい何処から仕入れてくるのか。


「何を気にしている?」

「いいえ、その、僕はいつまでこうしているんだろう、と思って」


 燈架は目を眇めた。答えになっていない、ように思える。〈花守〉の件と、颯季の件。別の話のはずだ。

 だが、思えば颯季は、〈花守〉に関連があると思われる神隠しの妖から狙われているのだった。そこに気がついてしまうと、この頼りなげな少年に重大な秘密が隠されているような気がしてならない。


「惟織殿は、数日だけと言っていたぞ。もうそろそろじゃないのか」

「そう、なのかな……」


 少年の黒い目が、不安げに揺れる。まるで置いていかれた仔犬のようだ。それほどまでに主を慕っている彼を、何故惟織は他人に預けるのだろう。無闇に迷惑を掛けるような人間ではなかろうに。


「お前の主人は、毎度毎度何処に出掛けているんだ?」

「知り合いの住み処に、とだけしか。明都に来たので挨拶回りに、だそうです」

「どういう知り合いだ?」


 颯季が何事かを答えかけたところで、引き戸の外から声を掛けられた。顔を出してみれば、熾保だった。緑茶と菓子を運んできてくれたらしい。


「お饅頭もあったんですけれど、うぐいす餅を見つけたんですよ」


 よく通る高い声ではきはきと喋りながら、書斎の隅にある小さな卓の上に、熾保は湯呑と小皿を並べた。白い陶器の皿に、春の野辺を思わせる鶯粉が映える。


「どうせならこっちの方が良いかなって」

「お前、これ、勝手に食べて良いようなものなのか?」

「良いじゃないですか。せっかく颯季くんが居るんですし。大事に取っておいても、長く保つわけじゃないんですから」


 固くなる前に食べてしまったって、罰は当たりません。

 お盆を抱えて澄まして言う熾保に、燈架の喉から笑い声が漏れた。要するに、熾保はこの可愛らしい客を甘やかしたいらしい。

 突然この詰所に転がり込んだ颯季だが、一門の者にはずいぶんと気に入られているらしい。冷淡な志炯ですら、颯季を気にかけていた。思わず面倒を見たくなる何かが、この少年にはあるようだ。


「だ、そうだ」

「なんか申し訳ないです……」


 燈架は今度こそ遠慮なく笑う。こういうところが、つい構いたくなるのだろう。


「そういえば、菓子一つで始まった縁だったな」


 熾保が辞し、遠慮しながら菓子を食べる颯季を見て、燈架は数日前のことを思い返す。天覧堂で桜を見ながら、菓子を奢ったのだった。ただ酔いに任せた気まぐれの行為が、このようになるとは思わなかった。

 桜も満開になってから日が経つ。そろそろ散ってしまうだろう。その前にもう一度あの店に行きたかったが、どうにも叶わなそうだ。燈架はこのようにのんびりしているが、詰所内は実は張り詰めている。


 煌利が日規の屋敷を訪問したときのことを、燈架は聴いている。燈架が妖を退治したことを咎められたくらいだ、今後、朱門の妖祓いは、元凶となる妖を捕らえることを第一に動くことになるだろう。御上の命令である以上、たとえ自分の命が危ぶまれても、おいそれと殺すことなどできはしない。十分な動きができないとなると、妖との戦いはやりにくいものとなる。それは非常に煩わしいし、損害が出ることを思うと気が重くなる。

 とても、酒を呑みに行く算段を立てる余裕などなかった。


 颯季ではないが、いつまで続くのだろう、と燈架は思った。早いところ気楽に過ごせるようになればいい。しかし、そのために自ら動くことのできないこの状況は、ひどくもどかしかった。

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