第11話 「捜査会議 その1」:早瀬志帆(3)

 事件は当然のごとく、大きくなり始めていた。


 町にばら撒かれていたバラバラ死体の首が発見され、同じ日に今度はまた別の死体。しかもどちらも首が切断され、顔が分からないようにされていた。まさに酸鼻極まる猟奇事件ということで、朝から晩までニュースに取り上げられていない時間はなかったし、新聞も雑誌もこぞってこれを伝えていた。ネットでは様々な場所で、あれこれと憶測合戦が始まろうとしていた。


 そして、被害者たちの身元も順次明らかになってきた。最初のバラバラ死体は稲生市在住の近藤裕也という二十代の大学生で、二番目もまたすぐ隣の市に住んでいた槙村真という、こちらも大学生で十九歳。二人とも稲生大生であることをメディアは伝えていた。


 そして犯人が犯行声明文を出し、そこで道化師、と名乗っているらしいことが間もなく明らかになってくると、殺人ピエロという言葉が、人々の間で――主にネットを介して膾炙していく。そのうち、お天気のあいさつの代わりに、道化師の話でもするようになるのかもしれないといった有様だった。


 「どうもあのアホ警部、俺たちの言ったことを信じていないらしいんだよ」


 そう言いながら矢津井はホットプレートの上で広げたお好み焼きの生地をひっくり返す。いささか力が入ったそれは半壊した。

「うがっ……くそ、あの警部のせいだ」

 いささか理不尽気味に主任警部を罵倒し、散り飛ばしたキャベツを寄せる。


 三人はホットプレートを囲み、昼食のお好み焼きを作っている最中だ。場所は要の家。志帆たちがバラバラ死体の首と、首切り死体を一挙に発見してから三日が経過していた。矢津井が紙谷から収集というか、漏洩された情報を共有、そして検討しようと集まることになったのだ。


「信じてないって、どのあたりを? 全部?」

 志帆はまあ、何のことかは分かってはいたが、あの警部へのむかつきを少し含めた間の手を入れる。


「特に現場が密室状況だったってことをだ。あと、扉一枚隔てて犯人が消えたっていうのも。結局、犯人はあの割れた窓から逃げたってことになったんだぜ。鍵は外に出た後、割れた穴に手を通してかけたっていうのが警部の主張で、捜査本部も大方はその見方だってよ」


 矢津井は憤懣やるかたない、といった様子でヘラで自分の生地を叩く。そんな様子を、要が横目で見つつ、

「まあ、当然というか、現実的な結論ではあるだろ。密室とか、消失だとかよりは。それより、僕らが犯人を逃がしたとかいう風に思われてないだけまだましだ」


 言い方はそっけないが、現場に直接居合わせたわけではない人間たちから見れば、確かにそちらの方がずっと合理的ではあるだろう。


「でも、窓から逃げたっていうなら、飛び降りざるを得ないし、そうすると矢津井君が言ったように、やっぱり大きな音がするとは思うんだけど」

 半壊した矢津井の二の舞はしないとばかりに、志帆は自分の生地を丁寧にひっくり返した。


「窓枠に手をかけて、いったんぶら下がるようにしてから下に着地すれば、そんなに音はしないっていうんだぜ。最悪普通に飛び降りたとしても、泡くってた俺たちなら音を聞き逃したとしても不思議はないってさ。それにドアを壊してた時と重なってたこともあるんだと」


 ……うーん。志帆は警部の主張について吟味してみる。自分たちが音を聞き洩らしたという〝落ち度〟については除外するとして、

「いったんぶら下がって着地すれば、確かにだいぶ音は小さくなるんだろうけども……」


「それでも結構な高さだし、なんにも音がしないってことはないと思うんだが。それに、ガラスが割れる音がしてからドアを破るまで、そんなに時間はかからなかっただろ。犯人が開けた穴から手を入れて鍵を掛けるにしても、穴と鍵は離れ気味でかけにくいし、掛けて窓枠にぶら下がり、着地する――そうする時間的余裕が無いとは言わないが、急がなきゃいけない状況における計画としては、どうも変な感じだとは思わないか? それに窓の外はドアを破ってすぐ空木と一緒に確認したし」


 なあ、と矢津井は要の方を見遣みやる。黙って頷く要は、半ば焦げたような感じの物体にマヨネーズだけを厚く塗りたくっていた。本人の弁は生焼けを警戒しているとのことだが、ただ下手なだけなんじゃないかと志帆は毎度思う。


「とりあえずその時は目につくところに人影はなかったぜ。後ろのマンションのわきを通っていく、なんてのもなかったし。もちろん、事務所の下を通って通りに抜けて行った可能性はあるけど、やっぱり走り去るような足音とかは聞かなかった」


「私だって、あの警部に言ったけど、ドアから死体を見てすぐ反対側に走って、しばらく廊下の窓から首を出して見てたけど、やっぱり下の駐車スペースからは誰も通り抜けてこなかったよ」

 聴取の時も述べ立てた志帆の補足に矢津井は満足そうに頷いて、

「ここまで考えあわせてみて、犯人が窓から逃げて行ったとは考えづらいはず」


「とはいえ、警察としては犯人が窓から逃げた可能性が高いと判断した。まあ、そう考えるのも仕方ないだろうよ。密室とか消失だとかいうより、逃げる犯人に僕らが気がつかなかった、という方がやっぱり現実的だしね」

 要が、どこか諦めたような口調でマヨネーズべた塗のお好み焼きにかじりつく。顔を上げ、

「密室云々をとりあえず考慮に入れるとしても、窓の鍵を割れた穴から手を伸ばしてかけ、密室を演出しようとしたが、あまり効果が無かった――ということに落ち着くんじゃないの」


「でも事実じゃないだろ」矢津井は唸るように言う。


 そうはいっても、と志帆は要に同意を示す。

「第三者的にはカナの言ったようなことが納得しやすいだろうし。そもそも、あの現場の密室性って厳密なものじゃなくて、私たちの主観的な証言で成り立っているようなものでしょ」


 志帆の言葉に要が頷きながら、

「そうなんだよね。そう考えると、現場にいた人間にしか認識されない密室っていうのは結構珍しいかもな……なんだろ、いわば生モノな密室……」


 変な形で結んだが、要が言うように確かに珍しいというか、あやふやで、どうにも中途半端な密室に思える。


「珍しいとかは置いといてだな」

 矢津井が少々イライラしたように言う。

「せっかくの密室が無かったことにされているんだぜ。犯人のやつ、つくるんだったらもっとしっかりとした堅牢な密室をつくれっての。窓ガラスを割ったのは余計だろ」


 犯人に対して愚痴が噴出する。それに対し、あ、と志帆の中でひとつの考えがひらめく。

「もしかして、ガラスは必要があって割られたんじゃないのかな」


「部屋にいたっていうくどいアピールなんじゃねえの」

 気のない返事をしながら、お好み焼きをパクつく矢津井。


「そうじゃなくて――。ガラスを割ることによって、結果どうなった? 状況と合わせて窓から逃げたってことになったでしょ。私が言いたいのは、そう思わせること自体が犯人の狙いなんじゃないかってこと」


「あっ! なるほど、確かに。つまり、あえて解を与えることで別の解――真相を隠す、というわけか」

矢津井の眼が生き生きと光る。志帆は頷きながらさらに続けて、

「私たちはそういう風に犯人が警察を誘導するための駒にされたわけ。曖昧な密室なのも犯人の狡猾さが表れていると思う。捜査する側にそれと気づかせないなら、それほど安全なことはないでしょ」


 ……我ながらいろいろと筋が通っているような気がする。矢津井も志帆の考えに感心したようにうなずきながら、

「いいセンいってるんじゃないか。なあ、空木」

 そう感想を求める。要はマヨネーズべた塗りの物体を、やけに細かく切り分けながら、

「……うん、確かにその推論は興味深い。犯人は捜査側に対して密室じゃないことを装うことで、密室――そのトリックを根本的に捜査させないようにしている、か」


「だからこそ、ダシに使われた俺たちが、密室の謎を解く必要があるわけだ。現に現場が密室であったと認識しているのは俺達しかいないんだからな」


 矢津井はそう気炎を上げるが、要はどこか冷めたというか、どこか気乗りのしないような態度をのぞかせながら、

「ただ……やっぱり変だ。そもそもなんで密室なんか演出する必要がある? そのために僕らが来るまで居残ったりしてさ。かなり危険だ。さっさと現場から逃げるべきだろう……」


「そうまでしてトリックを仕掛けなきゃならない理由があったんだろ」

 矢津井はじれったそうに、要を遮って言うが、要はどうも歯切れが悪い返事しかしない。


「そういえばガラスはなにで割ったんだ。やっぱりあの落ちていたクラブでいいのか?」

 急な要の質問に、矢津井はじゃっかん戸惑ったようなそぶりだったが、すぐに質問への答えを述べる。


「……ああ、そうらしいって、拓人さんは言ってたな。隙間にガラスの破片が検出されたらしいし、間違いなさそうだってよ」


 要はそれにただふうん、と応えるだけで、あとはまたマヨネーズまみれの切片せっぺんに向き合うだけになる。そんな要に対する矢津井のイライラが分かりやすく目に見えてきたため、志帆は矢津井の気を紛らわせるように、新たな質問をすることにした。


「そういえば、被害者ってその、例の御堂司じゃなかったわけだけど、彼との関係とかって何かあったの?」


「それが、まだよくは分からないみたいだな」

 矢津井は気を取り直すようにして紙谷からの情報を語りだす。


「被害者は、ニュースとかで出てたが、槙村真――一九才の大学二年生。遺体のポケットにあった免許証や住んでいたアパートの指紋から本人だと確認が取れた。両親による確認もしたそうだ。どうも犯人は身元を隠すことに対して、特に頓着していないらしい。最初の被害者――近藤友也という二十才の大学生もすでに同じような形で確認はとれていたみたいだ。どちらも御堂との接点は不明。御堂も今のところ行方知れずのままだ」


「死亡推定時刻は?」と重ねる志帆。


「近藤の方は俺たちが工場跡地に行った前の日――つまり富田がピエロに遭遇した日の午後二時から六時の間、槙村は俺たちが発見した二時間前後――ということで一二時から発見された二時過ぎくらい、ということらしい。死因は不明だが、窒息死の可能性が高いらしい。おそらく絞殺ではないか、ということみたいだが」

 槙村の場合は現場にあったロープかもな、と矢津井はつけ加える。そういえば、現場に残されていたあのロープもよく分からない。1メートルはある結構長めのロープだったが。


「犯人は同一犯と考えていいんだよね?」一応、という風に志帆は確認する。


「まあ、それは明らかだろう。どちらにも同じ定規で当てられたみたいな書き方の犯行声明文があったわけだし。廃工場の事務所にあったやつも、俺が撮ったのを見ただろ?」


「うん、まあ……」

 確かに矢津井が携帯で撮ったものを後で見せてもらってはいた。

 赤いインクの、ひっかいたような直線で書かれた犯行声明文――。

「第一の被害者も、第二の被害者も頭部は切断され、おまけに火や薬品で焼かれていたわけだし、犯行の性質も共通している」


 相変わらずの犯人の残虐ぶりに志帆は眉を顰める。隣の要が表情を変えずにパクつく黒焦げの物体もまた、微妙に食欲を減退させていく。今更ながらにご飯を食べながら事件について話すということに後悔し始めていた。


「首……だけど、どうして切り取って、しかもその、燃やしたり焼いたりしたんだろうね」


「それだよなぁ。被害者の身元を隠す……ということには全然なってないからなぁ。いわゆる顔のない死体トリックを狙ってるとしたら完全に失敗してるし」

 矢津井は首をひねる。


「ただのサイコキラー的犯人の嗜好……とか」

 というか、犯人は頭がおかしいとしか志帆には思えないのだが。


「まあな、こういうあからさまな挑発行為とか、妙な装飾性とかはサイコキラー的なものがあるが、とはいえ単に狂った殺人鬼というよりは、何かの目的があって動いているような気がするけどな、俺は」


「矢津井君は、その……御堂司って人が何か事件に関わってるって思ってる?」


 いまだ行方不明のままである少年の名をおずおずと口にする。自分とは特に関係のない少年の名前は、ひどく空虚で、そして謎めいた感じがしている。


「さあ。あいつが事を起こしているとしても俺は驚かないけどな。まあ、あいつの子供っぽい思いつきをどっかの誰かが利用してる可能性も否定はできないが」


「まあ、その可能性もなくはない、ということだよね……」


「何はともあれ、謎だらけだ。犯人が何か一貫した計画のもとに犯行を進めているのかも不明。派手なパフォーマンスに、発見者以外に認識されなかった密室――すべてに意図があるのか、それとも気まぐれの結果か」

 矢津井は、独白するような言葉で続けていく。

「ほとんどが意味不明な謎ばかりで、犯人が誰にせよ頭がおかしいだけなのかもしれねえ。けど、密室を作っているってことは何らかのトリックを弄しているわけで、そのトリックの部分なら考える意味があるだろう? しかも、俺たちが考えないと誰も――警察だって考える気はないようだし」


「確かに密室トリックを考えるほうがとっかかり易いとは思うけど……」


 よく分からないこの事件の中で、妙に巧妙な感じのする要素がこの密室だった。しかし、いざ考えてみるとそれはそれでまた困難なことに気がついてしまう。


 先ほど志帆が言ったように、窓に警察の注意を向けたということなら、焦点はドアの方に向かうが、それはそれで密室の堅牢性は高い……というか、より困難なものとなって立ちはだかる。


 犯人が窓から逃げて行かなかったと仮定すると、問題は二つのドアに向かう。一つはこじ開けたドアだが、鍵が掛かってた上にそもそも志帆たちが外にいたわけだし、考えられるとすればもう一つのドア――死体のあった部屋から隣の部屋に通じる――ほうが可能性として高い。突入した要たちをやり過ごすように、犯人がその部屋から廊下に出て……。


 志帆はそこまで考え、ようやく気づく。その廊下には当の自分がずっといたことに。

「ねえ……窓から犯人が逃げて行かないとなると、より面倒なことになるんじゃ」

 はっきり言って、密室の堅牢性はかなり高くなる。それを支えているのが自分たち自身というのがまた皮肉で、志帆としては容易に解けそうな気がしない。


「だからこそ、解きがいがあるってもんだろう。簡単に分かるようじゃあ、張り合いがないってもんだぜ」


 志帆はその能天気な放言に、少々呆れのようなものを感じつつも、とりあえず自分の考えを言葉にしていく。


「煙とかいった、どさくさに紛れるような要素もないし……においは結構すごかったけど、別にそれでどうこうなるわけじゃないし。問題はどこかに隠れて私たちをやり過ごすようなタイミングがあったのかどうかよね……」


 つながった二つの部屋、志帆を含めた人物の動き、そこへどのタイミングで犯人を代入するか……。しかし、どうも判然としない。やはり何か特殊なトリックがあるんだろうか。


「隠れる場所とか特になかったしなあ。まあ、ぶっちゃけ、早瀬が犯人の協力者とかだったらさっさと片付くといえば片付くよな、ははっ」


 密かに自分でも気がついていたこととはいえ、矢津井の無神経な言い方に志帆はジトっとした視線を向ける。


「いやまあ、それは安易かなあ……なんて。――まあ、とにかく……」

 矢津井はわざとらしく視線と話をそらしながら、

「犯人はあの部屋で槙村を殺してデスクに突っ伏し、首を切断したあと、硫酸で顔から首にかけて入念に焼いた。そして切断に使った鋸や包丁をトイレのある部屋の流しに持っていき、手袋もそこに捨てて持参したらしいペットボトルで内側を洗っている。指紋対策だな。そして、凶器と思われるロープを一斗缶の中で燃やした」

 一通り状況から犯行の手順を組み立てていく。


「ていうかさ、あんなところで首を焼いたってのも変じゃないの? 持ち帰ってから燃やしてまたどっかに捨てればよかったのに。なのにわざわざ薬品で焼いてたわけでしょ」

 志帆はあの忌まわしいにおいに顔をしかめながら疑問を呈す。


「うーん、やっぱりいくら人気ひとけが無いとはいえ、あんな白昼に首を持ち歩くってのは、リスクが高すぎるんじゃないのか? 捜査員が現場に向かって集まってきていることだし、逃げる途中で出くわすなんてことがあったら致命的だろう。」


「もしかして家が近かったりするのかな……まあ、それはともかく、犯人が首を焼いたことについては、何らかの積極性があるってことだよね。そこはやっとかないといけないポイントだった」


 とはいえ、そこまでして、顔をつぶす必要があったのか。一番考えられるのは身元を隠したかったということだが、結局、身元につながるものは残されていたわけで。結果としては何の意味のない行為にしか見えない。


 疑問はやたらと出てくるが、はっきりとした答えは形にならず、志帆と矢津井はそろって首をひねり、言葉少なにお好み焼きをほおばるばかりになる。


「そういえばさ、僕の原稿の続き――富田が道化師を目撃して以降に関するようなものは見つかったのか?」

 要が、矢津井に確認する。

「いや、今んところ何も聞いてないな」矢津井はそれに首を振る。

「一応、御堂の部屋を調べてはみたらしいが、ある種の計画書として御堂が続きを書いたそれらしいものは発見できなかったと拓人さんは言っていたけど」


 要は頬杖を突きながら、眉根を寄せる。いつもの気難しそうな顔が一層深刻そうな色を増す。ただ、けっきょく考えはまとまらなかったのか、首をひねってまた唐突に話を変えた。今度はなんだか世間話のような感じで、

「あとさ、道化師の噂って、実際に事件が起きる前からあったわけだけど、あれっていつごろから出てきたんだったっけ?」


 そういえばいつだっけ……と志帆が窮しているうちに、矢津井が先に答えた。

「確か、あの集団自殺事件――あれに対するバッシングが沈静化しだしたころ、だったか? 報道の自粛もあって世間での関心がかなり一気にしぼんでったろ。多分そのしばらく後……だから五月の終りぐらい、だったと思うが」


 あくまで確認だったらしく、矢津井の回答を聞くと「うん、それぐらいだったよね」と頷きながら要は言い、

「あの変な張り紙も同じぐらいだったか。いや、噂が広がるちょっと前だったか――だったよね?」


 同じように確認してくる要に志帆も矢津井もそろって頷く。

「あの張り紙、ホントあちこち張ってあったよね」と志帆。

「俺は電柱に貼ってあったのを見たな」

「僕が見たのは道路標識に貼ってあった」


 志帆の場合は、どこかの家のブロック塀に貼ってあったのを覚えている。気味の悪い道化師のイラストがプリントされた紙はよく目についた。当時、三人の間や学校の友達の間でも話題になったことを思い出す。


「一応、地元テレビのニュースになるぐらいだったからね。すぐ忘れられたけど、今じゃ道化師事件の前振りだったってことでもちきりだもんね」


「しかし、あの時のあれがこの事件の予告だとはなあ」


 矢津井が感慨深げに振り返っている。志帆としては、その時期から犯人が今回の事件を計画していたということを思うと、うすら寒くなる。あの何気なく見ていた張り紙の裏側で、犯人はニタニタとした笑いを浮かべていたのだろうか。そう考えると、やはりこの犯人はどこか凶器を帯びているにせよ、なにかじっとりとした一つの意志を持っているように思えてくる。それは、よけい恐ろしい気がした。


「ていうかさ、貼り紙とか噂とかで気がつかなかったの。カナ、自分の小説の内容忘れ過ぎでしょ」

 志帆はあきれたように要に言う。要はどこか不機嫌そうに、

「書いたことすら忘れてたんだよ。だいたい書く気もなくなってたし。とりあえず書いたとこまで出せって言われたから送っただけだ。あとは知らん」

「結局お前落したんだよな」

 口をはさむ矢津井に要は口の端を曲げる。

「読書レビューはのっけたわ。最後の機関誌だったし」


「で、そのカナの書きかけの内容を現実に起こした挙句、続きみたいになっている以上、やはり御堂司って人が犯人か、そうでないにせよ発端にはなってることは確かなんじゃないの」

 志帆の指摘に二人はまあ……と目を合わせる。事件が思いのほか自分たちの近いところにあるらしいことを改めて突きつけられ、いまだ戸惑いがあるようだった。

「そのうち、あいつらにも話を聞きにいかないといけないかもな」

 矢津井が言うのは、元文芸倶楽部のメンバーということだろう。要も黙って頷いた。どことなく微妙な空気が流れる。


「そういえばさ、現場に――えっと、死体があった部屋の部屋側のドアノブにさ、赤いビニールテープが貼り付けてあったって言ってたじゃない。アレって何かの手掛かりにならないのかな?」


 現場で要が発見したというのを聞いた時から結構気になっていたことを志帆は持ち出す。


「ああ、あれか。確かにめっちゃ怪しい感じではあるんだが……」

 矢津井も同じく、それについてはかなり気にしているようではあったが、

「とはいえ、具体的にどういうトリックに使われたかどうかとなると、どうもな。要が言ったみたいに、あからさますぎて怪しいといえばそうだし」


「まあねえ……。」

 とはいえ、手掛かりらしきものの一つではある。確かに、何らかのトリックを使うにせよ、トリックに使ったものをあからさまに残しておく、というのはあまり考えづらいのかもしれないが、あえてやっているという可能性だってある……。

「警察はどう考えてるわけ」


「基本は無視というか、タダの目くらましくらいの受け止められ方みたいだとさ」

 矢津井はどこか馬鹿にしたように答える。とはいえ、密室にこだわる矢津井も、何かこれといった具体的な解法が浮かんでいるわけでもなく、結局は腕を組んだまま沈黙してしまっているし、要は半ば諦めているような雰囲気だ。意外とこの密室からの消失、厄介なのかもしれない。


 結局、事件自体についてそれ以上の意見や感想が出ることはなく、やたらと散らばる謎への具体的な形を見いだせぬまま、やがてダラダラとした雑談に流れて行き、そのまま〝事件の情報提供とその検討会〟はお開きになったのだった。

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