第1話 下
夢中で走って2分ほど。僕はなんとか我が家の庭までたどり着き、植え込みに隠れて呼吸を落ち着けていた。ここで何も聞こえないということは、屋根の上のきちがいはわが家にはいないのだろう。
僕は家族にバレないように忍び足で勝手口に向かった。早く家の中に入ってこの異常な空間と縁を切りたかった。
聞き耳を立てて勝手口の向こうに誰もいないのを確認すると、静かにドアノブを回し、空き巣のように家の中に入った。
「やっと、終わった……。」
僕は長い息を吐き、心の底から安堵した。釣り道具を丸ごと置いてきてしまったが、安いものだったので未練はなかった。必要なら後日取りに行けばいい。居間の時計は午後4時を指していた。そんなに釣りは長いことしていなかったと思うが、僕は出発時間が遅かったのだろうと無理やり思うことにした。
もうすぐ母が晩飯の準備をする頃だ。僕は静かに2階に上がり、晩飯を待つことにした。
午後6時、リビングに来て皆で食卓を囲んだ。柏手を1回打ち、いただきますを言って食べ始める。コモリヅメの日は毎食、おやつでさえ必ずそれをする。リビングにはカチャカチャという食器の音とつまらないバラエティー番組の音声が流れている。
すると祖母が、
「だれか、今日外に出たのかい。」
とポツリとつぶやいた。
僕は表情には出さなかったが、ぎょっとした。バレていたのか?いや、もしかして祖母には見ただけでわかるのか?様々な考えが頭の中で渦巻いた。
両親は知らないという風に首をかしげている。
「僕の部屋のカーテン……ちょっとだけ……開いちゃってたかも……。」
僕はボソッとこぼした。もちろんそんな心当たりはない。焦って咄嗟に作った嘘。違反はしていないが過失があったかもしれないという、故意ではないことをアピールするための恥ずかしい嘘である。
祖母が答える。
「そうかい……。それくらいならいいけど、気を付けるんだよ……。」
祖母は弱弱しく言った。
晩飯の時間はそれから誰も話すことなく終わった。僕は2階の自室に上がり、ベッドの上で祖母が聞いてきたことをぐるぐると考えていた。なぜ聞いてきたのか、僕が家を抜け出した日に限って聞くということは単なる偶然ではないように思えた。もしかして実はバレていて、あえて言ってこないのではないか。
宿題を片手間にこなしながらそんな考えを巡らせていると、時刻は深夜24時になろうとしていた。深夜24時にて、コモリヅメは終了となる。カーテンを開けてもよいし、外に出ても、柏手を打たずに物を食べてよい。僕は毎年この日の24時になると、カーテンを開けて朝日が入るようにしてから眠りにつくのを恒例としていた。
しかし、今日はそんな気が起こらない。カーテンを開けてしまうと、目の前にあのボロを着た化け物が立っているような気がしてならない。そして外に出る気も起きない。また、あの異質な空間に取り残されてしまうような気がするのである。
あの異質な空間で一つ印象に残ったのが、あの少女である。他の人間が屋根の上で泣き叫ぶ中、彼女だけは真夏であるにもかかわらず、ボロボロの着物を身に着け、灼熱の真っ白な地面に裸足で立ち、こちらをじっと見ていた。距離があってよく見えなかったはずなのだが、なぜか脳裏に強く印象付けられているのだった。
「まあそんなことも今日だけだ。何も心配はない。」
そんなことを考えているともう24時を回っていた。コモリヅメから解放されたのだ。僕は平静を装ってカーテンを勢いよく開けてみた。
大きい窓の向こうには何もいなかった。良かった、と思ったのも束の間。
ガラスに反射した僕の右肩に、十歳くらいの女の子の真っ白な顔が乗っかっていた。
「――ッ!!」
僕は一瞬呼吸が止まり、後ろに吹っ飛んで腰を抜かしてしまった。
一瞬しか見えなかったが、おんぶをしているかのように僕の肩に腕をぶらぶらさせて、もたれかかっているようだった。
僕は呼吸を取り戻すと、急いで布団に丸まった。窓ガラスや姿鏡を見て、再び確認することはできなかった。僕にはその女の子が、昼間見かけたそれにしか思えなかった。まさか、港からついてきてしまったのか?僕の背中にぴったりと貼りついて……。僕はうつぶせに体を丸め、ガクガクと震えながら時が過ぎるのを待った。
あれからどれくらい経っただろう。僕は蒸し暑さと大雨の音で目を覚ました。いつの間にか眠りに落ちていたらしい。
立ち上がって窓の外を見てみると、天気予報通りの雨が降っている。郵便のバイクや宅配のトラックが動き回っていて、コモリヅメが終わったんだなと実感させられる。恐る恐る姿鏡を見ても、何もおかしな点は無かった。
これは願望でもあるかもしれないが、僕は昨夜のことが、まさか夢だったのではないかと思い始めた。今思うと現実感がまるで無いし、非科学的だ。さらに言うなら、昼間の出来事だってそうだ。髪の毛が仕掛けにかかったり、瞬時にあんなに人が現れて泣き叫んでいたりなど、誰に言っても信じてもらえることではないだろう。
僕はこれらを一旦忘れることにし、朝食のため1階に下りてきた。リビングへ向かう途中、祖母がいる仏間の横を通り、軽く挨拶をした。
「おはよー。」
祖母がこちらを振り返り、口を開こうとした瞬間、彼女は目を大きく見開いたまま動かなくなった。僕が不思議そうに見ていると、彼女は驚きの表情のままカタカタと震え始めた。
「ばあちゃん!大丈夫?」
僕が近づいて肩をつかみ、体をゆすっても反応がない。やがて震えは小さくなっていき、祖母は意識を失っていった。
僕は両親を呼び、救急車を呼んでもらった。呼吸や心拍はあったのだが、原因不明の意識の消失に僕たちは困惑しながら祈ることしかできなかった。
数分後、救急隊が到着し、大雨の中を祖母は救急車で病院に運ばれていった。
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