第1話 上

「今日は家にいるのよ。わかった?」


 母親がこう言うと、夏休みも終わりなんだなと感じる。


「はいはい~。」


 僕は高校の宿題の表紙を眺めながら、わかってますよと言わんばかりの適当な受け答えをした。


 毎年夏休みの終わりのこの時期になると、外に出てはいけないという日がやってくる。コモリヅメというらしいが、どうやらこの辺りだけの風習のようなものらしい。そしてこれも毎年言い聞かされるのだが、窓から外を見るのもやめた方がいいらしい。我が家はこの日になると、皆家に閉じこもり、カーテンをすべて締め切った状態で、1日限りの引きこもり生活を行う。この令和の時代にそんな縛りを皆律儀に守っているなんておかしな話だ。


 高校生である僕にとって、たとえしきたりであっても貴重な夏休みを1日でも他者の都合でつぶされるのは、とてもじゃないがおもしろい気持ちではなかった。


 僕は2階の自室から1階に下りて家族の様子を伺ってみた。居間では父親が外に出られないのをいいことに昼から缶ビールを飲みながらゴルフの専門番組を見ている。仏間には祖母がいて本を読んでおり、台所では母親が昼飯の準備をしているらしかった。皆、外に出られない日を受け入れ、生活に組み込んでいるのだが、僕にはそれが暇そうに感じられた。


 カーテンの向こうにはぎらついた真夏の陽光が光をたたえており、僕はこんな日に外に出ないのももったいないよな、と外に出たい気持ちがぐんぐん湧き上がってきた。


 よし決めた。今日、外に出てみよう。


 僕の趣味は海釣りなのだが、最近は台風の影響で晴れの日が少なく、コモリヅメの日でなくても外に出られなかったので、僕はフラストレーションが溜まっていた。さらに、今日を逃すとまた1週間も雨が降るのだ。実質、自由に外で釣りができる夏休みというのは今日だけとも言える。


 決行は昼飯の後だ。僕は作戦を考えながら疑似餌と釣り竿の用意だけ行い、昼飯を待つことにした。


 正午、母親はカレーうどんをリビングに用意した。伝統的なしきたりがあるこの日でも、料理の種類には縛りは無いらしい。


 ただ、通常時と違ってコモリヅメの日はやるべきことがある。それは何かを食べる前に行うのだが、必ず柏手を1回行うというものだ。神社のお参りに2礼2拍手1礼というのがあると思うが、あの時にやるような手をたたく行為を1回やってから、ものを食べなければならない。


 家族がリビングにそろうと、皆一斉に、ぱん!と柏手を打った後、いただきますを言い、カレーうどんを食し始めた。


 奇妙に思うかもしれないが、うちではこれが年に一回の行事として、普通に行われているのである。読者の方々が知っているような、恵方巻を恵方を向いて食べるとか、抜けた歯を屋根の上に投げるという風な行為と何ら変わりはない、行動を伴ったしきたりなのだ。唯一の違いは、”必ずやらなければいけない”ということだけ。


 幼いころ、祖母にいろいろと聞いてみた記憶がある。なんで外に出たらいけないの?なんで手をたたくの?と。子供のころはなんでも気になったことは聞いてしまうものだ。祖母は、


「安全に暮らして、大きくなるためだよ。」


 と、笑って答えてくれたのを覚えている。その時の僕は単純にそのままの意味に解釈し、納得してしまっていた。


 また、小学生も高学年の時に、少しの反抗心から柏手を打たずにおやつの柿ピーを食べようとしたことがあった。封を開けて口に入れる寸前で父親がどこからともなく現れ、「やめろ!」の怒号とともに顔面を殴られた時があった。柿ピーが一つも口に入らず、リビングでバラバラに散らかったそれを父親が掃除していたのが印象的で、なぜかその映像を鮮明に覚えている。普段温厚な父親が鬼のように怒っていたのを見て、これはただ事ではないんだなということが、トラウマにも似た思い出と共に子供心に刻み込まれた。


 そんな教訓を、この日の僕は忘れていたのかもしれない。


 僕はカレーうどんを早めに食べ終わると、用意にていた釣り具一式を持って、リビングから死角になっている仏間の縁側の方からこそこそと抜け出した。もちろん抜け出した痕跡を残さぬよう戸締りはしっかりとして、まるで2階に上がったかのような足音も立てておいた。


 ちょうど今くらいから出発して、2時間くらい港で釣りをしてから帰ってくると15時になるので、家の勝手口から入ればだれにも気づかれることなく帰還できるだろうという作戦だった。釣った魚は写真を撮ってリリースする予定だし、釣り具を持って家に入ると目立つので、庭にでも隠しておけば見つかることはないだろうという算段だ。


 自転車を使うと音でバレると思ったので、歩いて近所の港へと向かった。


 港へは集落を西に向かって5分ほど歩き、そこから200メートルほどくねくねした漁師町の道を下っていく。集落から港はほとんどコンクリート舗装のため、こんな夏の快晴な日には光の反射でほどんど町を真っ白に染めあげ、ぎらつく太陽に呼応して地面自体が光っているように感じられる。


 カンカン照りの町は、いつも虫取りの子供たちや小魚を乾かす主婦などが騒がしくしているのだが、今日はコモリヅメのため誰一人いない。人がいないせいで静かなのだろうと思っていたが、今思えばセミや風の音さえもあの空間では聞こえなかったのではないかと思うほどあの町が如何に異質さを持っていたか、僕の持つ語彙では表現に及ぶことができない。ひたすらに暑く、眩しく、停滞していて、静かだったのだ。


 僕はそんな独特な夏の景色に一種の趣を感じながら港へとたどり着いた。


 港は沖に向かって伸びた堤防によって小さな湾状の形をしていた。沿岸の元の地形が弧状なので、漁師小屋や民家が反対側まで延びていた。陸地のそこかしこから漁船を繋いでおくための係船ロープが海中へと伸びている。僕は坂を下りてすぐの、弧になった漁師町の海に向いて左側の位置にいた。


 これから釣りをするのだが、僕の仕掛けというのはいたって簡単なものだ。軽めの天秤に、五目釣り用の安い仕掛けを付け、針に疑似餌を差し込んで完成となる。これをできるだけ遠くに投げて、たまに動かすくらいで糸を張っておけば、適当な底魚が釣れるのだ。他所で通用するかはわからないが、この日のように準備も十分にできないときなんかは、ここではこんなものでも十分に楽しめるのである。


 僕は仕掛けを慣れた手つきで取り付けると、思いっきり港の湾になっている中心部めがけて竿を振り投げた。無音の海岸にリールが高速回転する音が鳴り、ポチョン……と鏡のような水面の中心に穴をあけた。同心円の波が全く減衰の様子を見せずに海面を走っている。


 僕は、自分が出す音以外の全くが聞こえない環境に、あたかもこの世界でたった一人になってしまったように思えた。それは寂しさを感じるものではなく、世界中を支配しているかのような万能感にも近いものだった。時間が止まった世界で自分だけが動く権利を有しているかのような、そのようなイメージさえ持つのだった。


 そんな調子で水面の糸を操りながら周囲を眺めていると、ある不思議な光景を見かけた。


 弧になっている港の反対側の民家の屋根に、なにかいるのである。よく観察してみると、それは人間のようだった。僕は目が良いほうだと自負しているのだが、さすがに距離があって顔は分からない。おおよその服の色から察するに、タンクトップに下に作業着を着ているような、ガリガリの爺さんであることが伺えた。


 僕は一瞬驚いてしまった。


 読者の方には理解しうるかは分からないが、小さいころからの教えというのは破るのに多少の罪悪感を抱くものである。今回の自身の脱出は家の中である程度決心をつけてきたのだが、他人がこの掟を破っているとなると、驚きと心配が真っ先に前に出てしまう。


 僕は冷静になりつつ、リールの糸を巻きながらこう言った。


「なんだ、やっぱり守ってない奴もいるじゃないか。」


 自分以外にもコモリヅメのしきたりを反故にする人間がいた。ただそれだけである。そもそもこの令和のハイスピードな世の中に、こんな風習はそぐわないのだ。


 僕は常々抱いていたこの掟への多少の不信を確かなものにしようとしていた。しかし、一つ気になることがあった。


 屋根の爺さんが先ほどからなにか叫んでいる。別にこっちに向かって叫んでいるのではない。よく観察すると身振り手振りで空や地面に向かって物乞いをするような振る舞いをしながら、必死に叫んでいるのである。


 僕はそれを理解して初めてその爺さんを不気味に思った。


 あんなに狂ったように叫んでいてはとても正気に思えない。屋根の上に上ってやっているからか、この世のものとは思えない異質な狂気を感じた。


 屋根の爺さんを後目に糸を巻いていると、水面に仕掛けが上がってきた。何も魚はかかっていない。


「今日は何も釣れる気がしないな……。」


 そう呟きながら一旦仕掛けを海から出し、また屋根の爺さんに目をやると、僕は背筋が固まった。


 爺さんはぴたりと騒ぐのをやめ、まっすぐこちらを向いて直立していた。


 確実にこちらを見ている。そう確信した。出歩いているのがバレるという恐怖もあったが、わけのわからない狂った存在に認識されたことがまずいと思った。


 僕は熊にでも見つかった時のように息を殺し、爺さんの方を向いたままゆっくりと釣り具を片付けようと、仕掛けに指をやった。

 

 仕掛けに絡まる海藻を取り除こうとすると、なにやら感触がざらざらしている。海藻を顔に近づけ横目で確認してみると、それはドロドロの髪の毛の塊であった。


「うわっ!」


 僕はパニックになり、それを放り投げると、持ってきた吊り具を持てるだけ持ち走りだそうとした。しかし、あまりにも焦っていたおかげで一歩目でつまづいてしまい、熱されたコンクリートの地面に転んでしまった。


 起き上がろうとすると、周囲の様子が先ほどまでと違っていることに気が付いた。叫び声、うめき声が町の様々な場所から聞こえてくるのである。起き上がって少し視線を上に向けると、僕は周りの様子に戦慄した。町のほとんどの家の屋根にボロを着た大人がいて、皆先ほどまでの爺さんのように何かを乞い、泣き叫んでいるのである。


 僕は持っているものを投げ出し、一目散に家の方向へ走り出した。通り過ぎる家々の屋根には彼らがおり、泣き叫ぶものもこちらをじっと見ているものもいた。


 坂を上り切った後にふと振り返ると、釣りをしていた場所にボロを着た女の子らしき影がこちらを向いて立っていた。

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