思い出葬
@neu09
思い出葬
そこは白黒の世界。そこは誰かの思い出の中。今、観測者はそんな色をもたない世界の浜辺を観測していた。人気のない浜辺である。波の音だけが寂しく聞こえてくる。目先には濃霧の掛かる海と、黒装束の喪服を着込んで白に映る髪を下げた女性が何かを抱えて見える筈のない濃霧の先を見つめ立ち尽くしている。
観測者がその女性に歩み寄ろうとすると彼女の下げた髪が何かに煽られた。どうやら潮風が吹いたらしい。けれど観測者はそれを感じとることは出来なかった。
潮風など観測者には感じとることなどできる筈もないのだから。匂いも強さもその冷たさも何一つ理解することは叶わないのだ。観測者は誰かの記憶を見ているだけでしかない目に過ぎない。誰かの思い出など色も感触ももたない物なのだから。
それは音を介して繋がり、また音を介して誰かの記憶を紡ぐ。元来、語りとはそういうものである。
「ああ、貴方も来て下さったのですね」
それは彼女の声だろうか。いつの間にかこちらを向いて何処か無理に笑顔を繕って呼び掛けている。けれどきっとそれはあなたではない貴方へ向けたもの。観測者は意思だけの存在、誰かに気づかれることなど在ろうはずないのだから。その呼び掛けはきっとこの思い出の持ち主だったものへ向けられたものだろう。
観測者の視界は段々と彼女に寄って行く。
近づいて行くごとに彼女の容姿が鮮明になってゆく。それは二十代ごろの女だろうか、こちらに一礼する様子からとても慎ましい印象を受けた。しかし表情は真顔に戻っている。
「はい。今朝は濃霧が掛かっておりますので」
それは断片的な彼女との会話。恐らく記憶の持ち主との会話だろうそれは、ただ彼女の声だけが聞こえた。虫食いのように欠けていて、会話というには不完全で、独り言というには違和感が残る。
女はやつれた顔をしていた。泣き疲れ、どこか無理に吹っ切れたような、目を細めてただ悲しげに視線を落とした姿は哀愁の中に美しさが宿っていた。
「今からこの子の為に思い出送りをするのです。いえ、もしかしたら…」
彼女はそこまで話すとその続きを躊躇った。
思い出送り。この地に伝わる古い葬儀であるそれは、大切だった者との思い出を何よりも重んじ、それが呪いにならぬようにするための生者への儀式。成人一人が横たわれるような、小さな船に死者と思い出の品を載せて、海に濃霧の掛かる日、この浜よりその先へ送り出す。やがて船が辿り着いたその場所で別人となって新たな人生を歩むという。もう古い言い伝えだ。
女の後ろには小さな船があった。中には花束や木製の玩具、そして埋め尽くされたそれらからまだ幼い子供の顔が浮かび上がっていた。女はそんな子供の顔を横目で覗き込んでいた。その時の彼女の表情は一瞬だったが微笑んでいたしかし、暖かみのあったそれは正真正銘、母親がするものであった。
「この子は難病を患い、静かに逝ってしまったのです…」
彼女はそう言うと俯いてしまった。両の手で何かを大事そうに抱えながら、彼女の体は身震いを始め、嗚咽が時折、波の音にかき消されながらも聞こえてくる。
ああ、泣き出してしまったのだろうか。
「ああ、すみません…お見苦しいところを見せてしまいましたね」
少し甲高い彼女の声が嗚咽まじりに聞こえてくる。どれほど抱え込んできたのだろうか、女は触れてしまうだけで灰のようにほろほろと崩れて消えてしまいそうだった。きっと彼女はいつか、内から滅びていく。もう、どうしようもないことだ。
「私は我が子を愛していました。何よりも先んじて愛を注ぎ、愛を重んじておりました。けれどあの子は愛を知らぬまま逝ってしまいました」
「私は…私は知っていました。愛とは呪いで、与える側も受け入れる側も等しく呪われることを、知っていました。ですが、ここまでとは…」
女の声は酷く枯れてゆく。
「よかった、あの子が愛を知らぬまま死んでいって。呪われたのがこの私だけで本当によかった」
女は足から崩れて膝を着いてしまった。背を丸めて、先ほどより嗚咽が激しくなる。時折、そんな嗚咽の中から「ああっ」や、「ううぅ…」と魘されている。
「ああ、けれど、決して…決して思いたくはなかったのです…私が、あの子に注いできた全てが呪いだったなんて…」
呪い。人の心から生まれたそれは、意識し、誰かを思うことで形を成す。人間はこれを負のイメージで捉えやすいがそれが一番、形となって現れるのは愛である。愛し愛されるこの循環の中、それはひたすら死を残酷にし、残された者を苦しめるが、その時に流れる涙が一番美しいのは、美しく感じるのは人の性だろうか。彼女の哀愁の中にあった美しさは、そういうことなのだろう。
「いつまでもこうしている訳にはいきませんね…もう、送ってあげなくては…」
彼女はそう言って立ち上がった。もう別れを告げなければ、濃霧の晴れる前に儀式を終わらせなければならない。それがその子供の為だと信じて、抱擁した最後の思い出を手放す。
最後の思い出。それはくたびれた、古い絵本であった。特段、珍しいものではないが何度も読まれたそれは親子にとって特別な意味を見出したのだろう。きっと女はその本を幾夜も子供に読み聞かせたことだろう。
彼女は引き摺るように船に近づいた。潮風に揺れる喪服はひたすらに哀愁を漂わせて、視界の彼女の後ろ姿はもうすっかり小さく丸まって見える。
ゆっくり、ゆっくりと抱擁を緩めて嗚咽混じりだった呼吸も、やがて落ち着きを取り戻してさようならを言うのだろう。子供を抱くような優しい手つきで本を運び、別れを告げるが為に心を殺してそれを子供の胸に持たせるように置いた。もう、誰にもこの呪いが降り注がぬように祈りながらそれを海へ送る。
思い出送りにはもう一つ、古い言い伝えがあった。それは濃霧の先、死者を乗せた船は暗い海に沈み、呪いごとすべてを呑み込んでしまうのだという。もう誰も知らぬ忘却の一部だが、かつてはこの話にも意味があったのだろう。呪いとは生きる者にしか与えられず、死者が背負うには無用なものだ。
時代が移り変わるとともに葬儀は心を失ってきていた。弔いから伝統へ、だが、後世にそれを伝えるにはその変化は余儀なくされた。だからせめて、その葬儀に後悔と呪いだけを残すようにした。思い出送りとは、ただ別れた後もその者のことを思い続けさせるためにある儀式である。忘却の中では何者も生きてはゆけないのだから。それは秘匿の意味としてまだ静かに在るのだろう。
女は丸めた背を正して視線だけを落としていた。最後までもその子には触れず、言葉を掛けることはなかった。まだ、心の奥底で在りし日の我が子が揺らいでいるのだろうか今はもう懐かしいその唇さえもその子は動かせない。冬の夕暮れ、安楽椅子に一緒に座り、膝の上に乗せて本を読み聞かせたあの日、ああ、もう戻れないのだ。
「またね」
女は船を力強く押すとそれは波に乗り、誘われるかのように濃霧を目指してゆっくりと直進していた。女はいつの間にか脚を浸からせていた。
「あ……」
ばしゃばしゃ。二歩、足を進める。手を伸ばして霞む船を求めていた。吐きそうになる言葉を嚙み殺して、彼女は嗚咽もせず膝を折り祈る姿勢を取ると大粒の涙を流した。
葬儀は終わった。誰かのための儀式は悲しみに溢れていて、けれどどこか暖かいのだろう。悲しいだけが呪いではないのだから。別れの言葉はまたいつの日の為に。
だから、もう行かなくちゃ。
ここは誰かの思い出の中、ここに観測者の居場所はない。いるべきではないのだ。
観測者の視界は女へと近づき、やがて見えなくなった。目の前には巨大な白い靄が掛かっている。この先に、行かなくちゃ。それは観測者の魂だけが吸い込まれるようにじりじりと近づいて行く。それは拒絶出来ない運命のようなもの。けれどもう抗う気もない。
観測者は最後に振り返った。まだそこには祈っている彼女がいる。綺麗な顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら組んだ手に力を込めている。
だから最後に、別れの言葉を想って、観測者は思い出から消えた。それは誰にも知られることのない切なく暖かい、もう一つの物語があった。
思い出葬 @neu09
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