第76話 悠久の魔女の足跡 ⑨

「それでお願いとはなんですか、先生?」


 私がそう尋ねると、シアク様は今まで以上に優しい目つきで私のことを真っ直ぐに見つめてきた。


「本当に優しく、気高い魔女に育ちましたね。私もきっとあなたの師匠のメリーヌもあなたを誇りに思い、いつくしむべき我が子と同然に思っていますよ」


 きっとシアク様には私の苦悩も覚悟も見抜かれていたのだろう。シアク様は手で小さく近くにおいでと誘ってきたので、その通りに近づくと、シアク様は私の顔を優しく触り始めた。そのままシアク様の膝へと自然に促される。私はシアク様の膝に頭を預けたまま、床へと座り込んだ。それは親に甘える子供のようで。


「リィラ。あなたにこの大樹と空間を譲りたいと考えています。その責務に耐えられないというのであれば、捨てても構いません。空間の維持ができなくなったとしても、今のクワイアの幹部たちならきっと表舞台でも上手くやってくれるでしょう。そうなれば、長い時間をかけて魔法師もいずれは人間に戻り、また新たな循環の中で命をつむいでいくことになるでしょう。そうなっても誰もあなたを責めないだろうし、あなたの選択を尊重するように幹部には言い含めています。反発する者もいるかもしれませんが、あなたと戦えるような者は誰一人いないと断言できます。それに……あなたには私とメリーヌが刻んでしまった解けることのない呪いがあるのですから」


 シアク様はそこで言葉を区切り、自分の覚悟を確かめるかのように一つ深呼吸をした。


「だから、私はその罰も報いも受けるつもりです。ここに所蔵されている本だけが欲しいというのなら、どうぞ持って行ってください。八つ当たりで私を含めたここにいる魔法師を虐殺しようとも私は止めません。ですが、それでももしあなたが許してくれるのであれば――この里をみなを、魔法師の未来をあなたに託させていただけないでしょうか?」


 シアク様の願いを聞き届け、声の残響が空気に溶けて完全に消えてしまうまで待った。それほどまでに重たく、覚悟の込められた言葉の数々。


「先生のお願いに対する返答の前に、先ほど先生がおっしゃられたことに関して、尋ねたいことがあります」

「なんでしょうか?」


 シアク様の表情がやや険しくなった。


「私のこの死ねない体質は“呪い”だと、本当に思っていますか?」

「ええ。私がコアの制御空間の規模と計算を間違わなければ……それをあなたを助けるためとはいえ、とっさにメリーヌがあなたの中に封じなければ……あなたは普通の魔法師としての生涯を送れていたことでしょう」

「そうかもしれませんね。ですが、師匠のおかげで私は生きることを許され、こうして偉大な魔女であるあなたと言葉を交わすことができています。それに事故だったかもしれませんが、私の中にコアが定着したことで、尽きることのない膨大な魔力を手に入れることになって、そのおかげで私だけ以前と同じように魔法を使い、好き勝手に生きる唯一の権利を持っています。きっとこれはお二人が私にくださった“祝福”なのではないでしょうか? 最近はそう思えてならないのです」

「祝福……ですか。あなたは私たちを許してくれるのですか?」

「許すもなにも、恨んだこともないですよ。恨んだと言えば、そうですね……まだあの雑用の日々の方がいくらか師匠を恨むことが多かったと思います」


 そう師匠のことを懐かしみながら笑うと、シアク様も体を揺らしながら笑った。


「先生。私はこの大樹の立派な立ち姿が、ガーデンの色とりどりの花もその香りも、丘の上から見える長閑のどかな風景が好きですよ。先生が守りたいと思っているモノを私が同じように大事に思えないところはあると思いますが、大丈夫です」

「ありがとう、リィラ」


 シアク様は指の間を通る髪の感触を確かめるように優しく撫でてくれる。それが心地よくて、温かくて。


「それに先生。あのころのように――師匠と同じように遠慮なく、不躾ぶしつけに私におっしゃればいいのです」

「ほんと、あなたって子は」


 シアク様は肩を揺らしながら笑い、小さく咳ばらいをした。


「では、リィラ。後のことはあなたに任せますよ」

「分かりました、先生。では、ここの魔法師たちには私の手足になってもらって、魔導書や魔道具の収集なんかでコキを使ったりしてもよろしいですよね?」

「ええ、もちろんですよ。私の願いを受け入れてくれたお礼に、私から最後にあなたに渡したいものがあるのです」

「渡したいものですか?」

「ええ。その前にリィラ。あなた、魔力の強さとその扱いは上手くなったようですが、魔法の鍛錬自体はさほどしていませんね? 特に空間魔法は全くと言っていいほど進歩していませんよね? ストベリク市の図書館の魔法陣を見たときに分かりましたよ」

「先生にはやはりバレてしまいましたか……しかし、空間魔法は失敗したり、使い方を間違うと後戻りできないこともありますので、使える魔法の練度を高めるしかなかったのです」

「それは正しい判断ではあります。私も私が師事した空間魔法を使う魔法師に教えてもらい、それをメリーヌに伝えましたからね。メリーヌが全てを伝えきることができなかったということなのでしょうね。だから、私があなたにできることは、あなたに私の知識を残してあげること」


 シアク様はそう言うと、人が出入りできるくらいの空間魔法の入り口を近くに出現させた。シアク様は中を見えるように空間を透過させるので、顔を上げて覗き込んだ。そこには一組の机と椅子と大量の本が陳列されている本棚が見えた。


「ここは私しか入れない書庫になっています。私の知る魔法の知識を本にして書き溜めていたのです。空間魔法のことも魔道具の作り方も、いつかあなたのためにと書き残しました」

「そんな貴重なものを私が譲り受けてもいいのですか?」

「ええ。これからあなたには私の無茶なお願いのために苦労をかけるでしょうし、そのことに対するせめてものお詫びですよ」


 シアク様は柔らかな笑顔を浮かべて見せる。そして、すぐに真面目で神妙な顔つきになり、


「では、リィラ。いえ、シェリア・ラグレート。あなたに私の持つ魔法の権限を譲渡します。私の手を取ってくれますか?」


 そう言いながら、手を上向きにして伸ばした。私は覚悟を決め、シアク様の手に自分の手を重ねる。その瞬間、シアク様から魔力や魔法を行使している時の独特の負荷が体に掛かってきた。しかし、私には尽きることのない膨大な魔力があるため、すぐにその重さに体が慣れる。


「ありがとう、リィラ。ああ……これが魔力を失うということなのね。普通の人間にとってはこれが普通で、老いて死んでいくとはこういう感覚なのですね。心残りと満足感、人生という長い旅路を終えた充足感……素晴らしいわ」


 シアク様は本当に満足げな表情を浮かべていた。それが羨ましくて、同時に深い安堵もしていた。そして、寂しさと悲しさが胸に満ちてきた。


「先生……ずるいですわ。みんな私を置いていくのですもの……それだけが寂しくて、辛くて」


 私の声は今にも泣きだしそうなほど震えていた。そんな私の頭をシアク様を優しくあやすように撫でてくれた。


「ごめんなさい、リィラ。だけど、私は先に逝っても死後の世界というものがあるのならば、あなたをいつも見守っていますよ。それはメリーヌも同じでしょうから、これからは二人であなたの生きる姿を見届けるとしましょう。そして、いつかあなたが来るのを待っています」

「そんな日は永遠に訪れないかもしれませんよ?」

「それでもですよ。かわいい私たちの子であるリィラをいつまでも見守っていますし、待っています」

「そんなことを言われたら、私は先生や師匠に胸を張れるような生涯を送らないといけないじゃないですか。怠惰な生活ができなくなってしまいます」

「そこは好きにするといいのですよ。どんなことをしても私とメリーヌだけはあなたの味方だということは忘れないでください」

「……はい」


 私の返事を聞くとシアク様の身体から力が抜けたのか、さっきまで私のことを撫でていた手がだらりと落ちた。


「先生?」


 顔を上げるとシアク様は深い眠りについたようだった。しかし、浅いけれど呼吸はまだしていた。もう言葉を交わすことはないだろうと直感しつつも、シアク様をベッドに運ぶために背中におぶった。軽すぎるその身体の重さを忘れないようにゆっくりと大事に運び、ベッドに寝かせた。

 それからシアク様との最後の時間を邪魔されたくなくて、誰も部屋に入れないように空間を断絶させ、シアク様の眠るベッド脇に子供のように膝を抱え、シアク様に与えられた最後の贈り物である本を読みふけった。

 それから、一週間後にはシアク様はそのまま眠るように息を引き取った。亡くなったシアク様の身体は大樹と――星と同化するように光の粒となって空間に霧散むさんしていった。

 その人間とも魔法師の最期とも違うその光景を見届け、追悼の意味を込めて大樹の上の方で樹と同化しかけている、かつてはストベリク市の図書館の鐘楼にあった鐘の音を里に響かせた――。

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