尊い命
食事が終わり、西村さんはコーヒーを淹れてくれた。
「完食してくれて嬉しいわ」
「ご馳走様でした」
嬉しそうに皿を洗う西村さんに私たちは言った。
「いいのよ~。こうやって若い子に食べてもらうと、やりがいがあるわ」
「手伝います」
私はそう言って厨房に入ろうとした。
「あ~、いいのよ! ゆっくりしてて」
「いえ、手伝います」
失礼します、と私は厨房に入り西村さんの隣に立つ。
「じゃあ洗った皿、拭いてもらおうかしら」
西村さんは棚から新品の布巾を取って私に渡した。
「分かりました」
私は少し熱を持つ洗い終えた皿の水気を拭き取る。機嫌よく皿を洗う西村さんを盗み見て、幼いころに夢見た風景のようで鼻がツーンとした。
一つ一つの動作にビクビクしなくてよい環境はあるのだと、幼い頃の自分に教えてあげたい。
「嬉しいなぁ」
西村さんは微笑んで呟いた。
「まるで自分の娘と居るみたい」
西村さん以外の女性にそう言われても、私は嬉しいとは思わず、馴れ馴れしいと感じていただろう。でも西村さんに言われると、素直に喜びを感じてしまう。
「西村さんの娘なら、もう少し可愛らしく育ったんだろうな」
「十分瞳ちゃんは可愛いわよ」
きっと西村さんの思っている可愛いと私が思っている可愛いは、質量が違う。私は生き方の話をしているのだ。
「でもね。私時々思うの」
洗い物を終えて、西村さんはもう一つ布巾を取り出した。
「例えば、私の産んだ子が尊い命を落としてしまって、あの世に行ったとするじゃない?」
皿を一枚手に取り、西村さんは慣れた手つきで拭いている。私は手を止めて、西村さんの表情を見た。
「その時、私が自分の子に対して抱いた哀惜の想いを天まで届けたとしたら、私の子はそれを微笑んで受け取ってくれるかしら」
手放してしまった子が、自分の想いを受け入れてくれるだろうか。西村さんはそんな問いを私にしているのだろう。
「分からないです、私には」
普通の環境で育っていない私には、一般的な母親に対する考えが分からない。
「でも」
西村さんはジッと私を見つめ、私も西村さんを見た。
「私はあなたがお母さんだったら良かった。あなたに大切に想われている子が、羨ましい」
その言葉を聞いて私から目を逸らし、西村さんは目元を抑える。なんと答えれば良かったのかは分からない。けれど嘘をつくことは私にはできなかった。
「実の親にも大切に思われていない私には、羨ましいんです」
西村さんは涙を拭い、首を横に振った。
「そんなことないわ。瞳ちゃんのお母さんは確かに在り方を間違えているけれど、瞳ちゃんのことを大切に思っているはずだわ」
私の腰に西村さんは手を当てる。
「こんなにしっかり子供を育てるのは、なかなか出来ることではないの。あなたは愛された子なのよ」
私が愛された子、そんなはずはなかった。いつだって母は私に暴言を浴びせて、時には強く殴り私の存在を否定していた。そんな母が私に愛情なんて、持っていたはずはない。
思い出す母の姿。今度いつ帰って来るの、と尋ねる母の表情には確かに寂しさがあった。
「そう、なんですかね……」
でも私はやはり母が憎い。見殺しにだって容易にできるし、何度も消えてしまえばいいと思ったのだから。
「でもありがとう。瞳ちゃんの言葉で、私は救われた。今までしてきたことが無駄じゃなかったんだなって心から思えた」
西村さんの目は真っ赤で、私の涙腺も緩んだ。もらい泣きするような人間じゃないのに、と私は唇を噛んだ。
もし私が西村さんの子供だったら、西村さんが守ってくれた自分の命をもう少し大切にしようと思える。そんな事実はありえないけれど、そう思い込んで生きてみてもいいかもしれない。
「いいんです。本心を話しただけですから」
西村さんは微笑んで、また皿を拭き始める。鼻をすする音が店にこだました。
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