忌まわしい母のような

「いらっしゃいませ」


 店主は私が来た時と変わらない笑顔で陸人を迎えた。私は立ち上がり自分の存在を陸人に伝えた。陸人は私を見つけると、店主に会釈して私の方へ近づいてきた。


「ごめんね、急に。あれ?」


 陸人は私の顔を見るなり、私の顔をまじまじと見た。


「泣いてたの?」


 きっと目が赤かったのだろう。


「ううん。花粉症なだけ」


 そう言って私は陸人から目を逸らした。


「そっか」


 陸人はそれ以上は追及せず、先ほどまで店主が座っていた私の目の前の椅子に腰かける。私も椅子に座り何も言えずうつむいた。店主は陸人にメニューを持ってきた。


「お腹減ってます? もしよかったらカレーならありますよ」


「あー。瞳はお腹すいてる?」


 私は首を横に振った。


「ならいいです。瞳と同じコーヒーください」


「分かりました。お待ちください」


 店主は可愛らしい笑顔を見せて、メニューを持ち帰り厨房へ向かった。


「いいお店だね。よく来てたの?」


 私はまた首を横に振った。


「ホテルからここが近くて、たまたま見つけたの」


「そっか」


 しばらくの沈黙が起こる。何から話せばよいのか分からず、陸人が何を話したかったのか問うこともできず重たい空気が流れる。店のBGMが静穏で良かった、なんて関係ないことまで考え始める始末だ。


「僕さ」


 そんな沈黙を破り、陸人は言葉を発し始めた。


「君に話さなきゃならないことがある」


 私も、と言葉が出ず私は陸人を上目遣いで見つめた。何を言われるのか不安で仕方ない。こんな時まで優しい表情をしている陸人は、卑怯だった。


「何?」


 もっと可愛らしい言葉が出せればいいのに、こんな端的で色のない声じゃ怒っているように聞こえてしまう。そう思っても不器用な私は、女らしいあざとさが作れなかった。


「一か月ぐらい前から君と距離を取ってた。それは君が一番分かってることだと思うけど」


 急に連絡を寄越さなくなり、会わなくなったのは当たり前に分かっている。しかし未だになぜそんなことをしているのかは、分からない。私のことを嫌いになったのかと思ったが、今の様子を見ている限り陸人は一か月前から何も変わっていなかった。


「知ってるよ。でもどうして距離を取り始めたのかは分からない」


 私はグッと手に力を入れる。


「実は、君が僕と付き合ってから成績が落ちてしまって、せっかく声がかかっていた昇進の話が流れてしまったって西城先輩から聞かされたんだ」


 え? と思い私は顔を上げて陸人を見る。


「僕に昇進の話を西城先輩は持ってきてくれけど、僕はもう一度君にチャンスを上げて欲しいってお願いした。そしたら西城先輩は君が昇進できるよう計らってくれるって言ったんだ。だから僕は一度君から身を引いて、仕事に集中してもらうことにしたんだ」


 突然のことに理解が追い付かない。私の成績が下がったことは本当だが、私に昇進の話が来たことは一度もない。


「その時、西城先輩が君に気があるとも告げられた。遠回しに君から身を引けと僕は言われてた。君が浮気するとは思えなかったし、浮気したとしても君が選ぶことならそれでいいと思った僕は、西城先輩に何も言わなかった」


 つまり西城は陸人に私と距離を取るよう嘘をつき、陸人が私と距離を取っているその間に私に陸人を東北支店に移動させると脅しをして私との体の関係を要求してきた、ということなの?


「でも今日西城先輩が君の昇進の話が嘘だったと僕に言った。僕は怒って西城先輩に掴みかかったけど、西城先輩は得意げな様子だったんだ。」


 すべて西城の思惑通りに事が進んでいた、というわけだ。私は自分の阿呆さを鼻で笑った。


「つまり、私が西城先輩に奪われても良かったってこと?」


 私の怒りの矛先は、無実の陸人の方へ向き始めていた。自分の彼女がほかの男に奪われそうになっても、彼女が選ぶことだからいい? いつから陸人はそんな余裕を持つ男になったんだ?


「いや、良かったとかそういうわけではなくて」


「じゃあ何? 私が昇進できないのが自分のせいだと思ったわけ? おこがましいにもほどがあるでしょ。何様のつもり?」


 こんなことを話したいわけじゃない。自分はあなたを裏切ってしまったと謝罪しなければいけないのに、あなたが守ってくれなかったから私は西城と関係を持つ羽目になったんだ、と逆恨みの情が湧いてしまう。


「違うんだよ、そんなつもりじゃないんだ」


「じゃあ一体あんたは何がしたいのよ!」


 まるで忌まわしい母のような怒鳴り声をあげ、私は陸人を思い切り睨んだ。


「瞳ちゃん、落ち着いて」


 店主が陸人の分のコーヒーを持ってきて、私に声をかける。


「なんで瞳ちゃんが怒っているのか、それでは彼に伝わらないでしょ?」


 私の肩を掴み、店主は優しくなだめる。


「ごめん、瞳。きっと瞳は西城先輩と――」


 陸人が言葉を言い終える前に、私は店主の手を振り払い、荷物を持って店を飛び出した。


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