第308話 小さな精神世界

 小さな精神世界へ俺たちは転送されたようだった。

 父さんの顔色は血色を取り戻しており、ほとんどなかった呼吸も今はしっかりとしている。グリードの見立てでは魂が回復しており、そのうちに目を覚ますのではないかということだ。


『一時はどうなるかと思ったが、九死に一生を得たな』

「父さんが母さんの名を呼んで、光が現れた。この場所は……」

『お前の母親が力を貸してくれたと考えるのが筋だろう』


 母さんが暴食スキルの世界で作り出した精神世界だと思われた。だが、当人の姿はどこにも見当たらなかった。過去にも暴食スキルの世界にやってきたが、母さんには会えなかった。


 それでもこうして力を貸してくれているのなら、母さんは暴食スキルの世界のどこかにいるはずだ。


『作り主は現れないが、ここが避難場であるのは確かだ。ゆっくりと休ませてもらおう』

「父さんには時間が必要だし、俺も魂を整えておくよ」


 また氷原へと舞い戻る可能性だってある。この時間を有効に使うべきだろう。

 俺は横たわる父さんの隣に腰を下ろす。そして、しばし目を瞑って気持ちを落ち着けた。


 精神世界では時間の流れがあやふやである。体感的には数日ほどこの世界にいる。それでも現実世界ではほんの僅かな時間だろう。

 昔は時間の流れの違いを利用して、グリードと精神世界でよく鍛錬したものだ。

 今はその場所にもう一人の俺が居座ってしまっている。


『この精神世界は温かみがあるな』

「俺のところとは違うな」

『俺様も一眠りさせてもらうぞ』

「武人たるもの休める時にしっかりと休めだな」

『そういうことだ。お前もハイエルフの魔都ルーンバッハから、まともに寝ていないだろ。魂の休息ってことだ』


 グリードはしばらくして何も言わなくなってしまった。

 俺も再び目を瞑って、ゆっくりと流れる時間に身を委ねた。頭の中を無にしていると、感覚が研ぎ澄まされていくのを感じる。


「ううっ……」


 俺は父さんの声で目を開けた。意識を取り戻したようだ。


「父さん!」


 父さんは俺の声に反応して、僅かに開いた目でこっちを見ていた。

 そして口を弱々しく動かしながら、


「……フェイトか」

「そうだよっ」

「また会えるとは思っても見なかった。これも神をお導きか……」


 父さんはまだ神を信仰しているようだった。聖刻を使って無理やり父さんを操って、彼の地への扉を開かせたのに……。

 しばらく深い呼吸を繰り返した父さんは身を起こした。そして、真っ白な空間を見ながら言う。


「カテリーナの力か……また無理をさせてしまったな」

「やっぱり母さんが! 今どこに!?」


 父さんは少し迷った顔をしていた。だが俺の顔をまっすぐ見て、頷いた。


「彼女は暴食スキルからお前を守るために魂を捧げた。今は暴食スキルの一部となっている」

「一部に?」

「そうだ。そんな中でも僅かに意識が残っている。こうして俺たちを守ってくれる」

「会うことはできないってこと?」

「カテリーナはこの世界……暴食スキルそのものだ。話すこともできない」

「俺は彼の地での戦いの後に、母さんの声を聞いた」

「なら、奇跡が起こったのだろう」


 父さんは嬉しそうだった。奇跡か……確かにそれ以来、母さんの声が聞こえなくなってしまった。

 それでも声がなくても、姿が見えなくても、母さんが俺たちを守ってくれたことは事実だった。


「ここにいれば、しばらくは安全だ」


 父さんはほっとした顔で俺を見ながら言う。俺はそんな父さんに聞くべきことがある。


「暴食スキルの世界で何があったの?」

「単刀直入だな。異変を感じてやってきたわけか」

「いや、人探しさ。アーロン・バルバトスっていう人を知っている?」

「聞いたことのない名前だな」


 父さんの言葉に俺は心底安心していた。


「なぜそのようなことを聞く? 喰らった相手をお前が知らないわけがないだろ?」


 不思議そうな顔をして父さんは聞いてきた。

 普通に考えれば、喰らった相手を調べに俺がここへ訪れるのはおかしな話だ。俺はなぜ暴食スキルの世界にやってくることになったのかを父さんに説明した。


「10年間の記憶を失っているか……全く思い出せないのか?」

「思い出そうとすると、酷い頭痛に襲われるんだ」

「なにかに邪魔をされているように思えるな。失った10年間で王国に反旗を翻して、義父であるアーロン・バルバトスを殺した可能性があると」

「……もしそうなら、アーロンはこの世界にいるはずなんだ」

「何度も言うが、その名は聞いたことがない。フェイトの話ではアーロンという男は勇猛果敢で思慮深いようだ。そのような者がここへ訪れたらな、名はすぐに轟くだろう」


 父さんの見解はこうだ。アーロンは暴食スキルの世界には来ていない。

 ほっとする俺に、父さんは笑顔で言う。


「フェイトの義父か……話を聞くだけでも素晴らしい人なのだろうな」

「そうさ。すごくおせっかいなところがあって、敵対していた者の面倒まで率先して見ているくらいさ」

「よかったな。手をかけていなくて」


 久しぶりに親子の会話らしいことができた。地獄のような暴食スキルの世界で、ほっこりできるとはな。父さんとは彼の地への扉を争ってばかりで、まともな会話もできないまま別れてしまった。それがずっと心残りだった。


 こうしてまた会えて話ができる場所として、暴食スキルの世界があるのなら、その点だけは感謝できる。

 少しの間だけ、俺と父さんは笑顔でいられた。ここから先の話は、同じでいられるのだろうか。


「さてと、暴食スキルの世界の異変についてだ」


 父さんから笑顔が消えていた。そして、どこから話していいのやらと迷っているようだった。


「フェイトが不完全な神……お前が言う出来損ないの神を喰らってから、暴食の世界は変わっていった」

「そんなに早くから……」

「灼熱だった世界に、赤い雪が降り始めた。やむことなく降り続ける赤い雪は氷原を作り出し、世界を凍らせてしまった」

「人間や魔物は、そのせいで凍ってしまった?」

「きっかけはそうだったのだろう。魔物たちは赤い雪に対する抵抗がまったくなかった。凍りつき砕けて、氷原へ吸収されてしまった。だが、人間はその寒さの中でも、魂を保つことができた」

「なら、なぜ氷樹へ取り込まれたの?」

「一人の男が現れたことで、状況は一変したからだ。白髪の壮年で鍛え上げられた力と並外れた魂を持っていた。人間たちはその者をエクセキューショナーと呼んで恐れた。エクセキューショナーが持つ剣で斬られると、たちまちに氷樹と化してしまうからだ」


 父さんは暴食スキルに喰われた人たちを守るために戦ったそうだ。それでも、彼の地での戦いで俺に力をたくさん与えたことで、本来の力を発揮できずに負けてしまったという。


「恥ずかしい話だ。この異常事態は、フェイトの身にも及ぶとわかっていながら、何もできなかった」

「そんなことはないって。こうして、暴食スキルの世界で起こったことを教えてくれているじゃないか」

「これではただのメッセンジャーだな。もう少し父親らしいことをしたかった」


 父さんはそう言いながら、立ち上がった。そして、虚空から黒槍ヴァニティを取り出した。


「これはカテリーナからの贈り物だ」


 父さんは大罪武器を持っていたのに、エクセキューショナーに敗れたというのか。その者は力だけではない。父さんの槍術の腕を考慮しても、かなりの剣術の達人のようだった。


 なぜこのタイミングで父さんは、黒槍を取り出したのだろう。


「噂をすれば、なんとやらだ」


 父さんが黒槍を構える。俺もそれに釣られて黒剣を鞘から引き抜いた。


「息子とやっとゆっくりと話せると思っていたのに」


 真っ白な空間が大きく揺れた。ところどころでひび割れが起きていた。

 さらに強い衝撃によって、真っ白な空間は砕け散る。そして、再び赤雪が降り続ける氷原の世界に舞い戻った。


 俺たちがいた真っ白な世界を壊した者へ、父さんは黒槍を向ける。


「エクセキューショナー! この代償は高くつくぞっ!」


 俺は聖剣を握る男の顔を見て、言葉に詰まった。

 白髪の壮年の男と父さんは言っていた。そのことにもっと早く気がつくべきだった。

 エクセキューショナーは、アーロン・バルバトスだったからだ。

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