第306話 凍った世界
赤雪が絶え間なく降り続けている。
しかし、それは積もることはない。足元の赤い氷に落ちると、吸い込まれるようにして消えてしまうからだ。
「吸収しているのか」
『赤雪を喰らっているように見える。暴食らしい世界じゃないか』
「静かだな」
以前訪れた時は亡者たちがひしめき合っていた。暴食スキルによって喰われた者たちが、救いを求めていた。または怨嗟の声を上げていた。
今は亡者の姿はどこにもない。ひたすらに赤雪が降っているだけだ。
あれだけ騒がしく耳を手で覆いたくなるほどだったのに、深々とした世界があるだけだった。
「この氷は滑らないな」
『精神世界の産物だ。現実世界とは違うさ』
触ってみれば、魂が凍えるほど冷たい。それなのに材質はクリスタルに近かった。
不思議な物質だ。精神世界の産物なら、何かが影響して生まれてきたのかもしれない。
俺は赤い氷原の世界を見渡した。どちらに進むべきか悩んでしまう。
どの方向も景観は同じだったからだ。
『ここは暴食の世界だ。保持者の勘が頼りだ』
「勘か……」
見境なく歩き回るよりいいだろう。精神世界では、現実世界のように気配や魔力、精霊力などは感じない。人捜しがとても難しい場所だ。
俺はすべての方向で鼻を嗅いでみた。旨そうな香りを探ってみたのだ。
この方法が暴食の世界らしい探し方に思えたからだ。
『フェイト犬よ。何か見つかりそうか?』
「集中しているんだ。静かにしろ」
人が真面目にやっていたら、すぐこれだ。
くんくんっと! 二度嗅いでみても同じだ。やはり一方向だけ美味しそうな匂いがする。
『何かわかったみたいだな』
「ああ、行ってみよう」
俺の鼻だけが頼りだった。同じ景色が続く世界では絶えず匂いを嗅いで、方角を確かめながら進まないと、たちまちに違う方向を歩いてしまう。
「出来損ないの神はこの環境でどこへ行ったんだろうな」
『あれは途方もない数の魂が集合したものでもある。今嗅いでいるものにそれを感じるか?』
「いや、出来損ないの神とは違う。あれはそういうレベルじゃなかった」
暴食スキルですら、食い物として見ていなかったほど、巨大な魂だった。
しかも一度喰らえば、すべてを平らげるまで終わることはない。もう食べれないのに喉に無理矢理食べ物を流し込まれるような感覚だ。
だからこそ、あれほど存在感の塊のような巨大な魂が見当たらないのは不自然に思えた。
「俺は深層に来たら、出来損ないの神で満たされていると思っていた」
『それが赤い氷原だけの不毛な地になっているとはな』
「暴食スキルに喰われたものは、ここに来るはずだ」
『当たり前だったことがそうではなくなったか。この現状を引き起こしているのは出来損ないの神かもしれんな』
俺の身の内で、とんでもないことが起ころうとしているのだろうか。嵐の前の静けさとでも言ったところか。
『到底喰えるはずもないものを取り込んだかな。何が起こってもおかしくはないな』
「出来損ないの神を喰らうときに、暴食スキルに取り込まれた人たちが力を貸してくれたんだ。その結果がこれじゃあ……」
報われないだろ。助けてくれた彼らもどこへ行ってしまったのか。
その答えは、俺が進んでいる方向の先にあるのかもしれない。
どこまでも平らな赤い氷が続いていたのに、わずかにごつごつした地面になってきた。それは水晶の結晶に似ていた。赤雪を取り込んで成長しているようだった。
それなら、他のところでも同じ現象が起きてもおかしくない。なぜ、この場所だけが結晶化しているのだろう。
先に進めば、目に見えて景観に変化があった。赤い結晶はどんどん大きくなっていき、俺の身長すらも優に超えるほどだ。
赤い結晶に触れると、やはり地面と同じように冷たかった。そして、俺の目の前に広がった光景に息を飲んだ。
「赤い結晶が樹木のようになっている」
『氷樹とでもいうべきか。まるで血を吸って育ったかのようだな』
赤い氷樹の林だ。見ているだけで凍えそうなほどの赤い冷気を放っていた。
林の中へ踏み込めば、今までと以上に寒さを感じる。氷樹から漏れ出ている冷気によるものだろう。
着ている服が少しずつ凍り付いていた。
『長居はできなさそうだな』
「この先に旨そうな匂いがする。進むしかない」
冷気をかき分けながら、氷樹の林を歩いて行く。
「ん?」
足に何かが引っかかって、つまずきそうになってしまった。冷気によって足元がよく見えないので、覗き込んでみる。
初めは地面から生まれた結晶だと思っていたが、
「人間の手だ」
『おいおい、地面から突き出ているぞ』
しかもその手は赤い結晶に覆われていた。取り込まれているようにも感じられる。
その手を辿って、地面の氷に目を向けると、人間がまるまる閉じ込められていた。
『フェイト、一人じゃないぞ』
「まさか……この林すべてに人が埋まっているのかっ」
氷樹一本に付き、一人の人間が苗床になっていた。
『氷樹は人間の魂を糧に成長しているようだな』
「一体……何のために」
『さあな。だが明らかに暴食スキルのためにとは思えない』
「これをやっているのは出来損ないの神というのか」
この世界は暴食スキルが喰らった魂の貯蔵庫のようなものだ。
その大事な魂である力の源を消費して、氷樹という違うものへと変化させるメリットは暴食スキルにない。
ならば、それをやっているのは他の存在だ。
出来損ないの神を喰らって、彼の地での戦いは終わったと思っていた。しかし、話はそう簡単ではないようだ。
俺たちの予想が当たっていたとすれば、あの戦いは始まりへのきっかけに過ぎないのかもしれない。その始まりとは、出来損ないの神が暴食スキルすらも取り込んで、この世界から出ようとしているように思えた。
「ライブラが俺に協力してくれている理由はこれなのか?」
『やつは神の使徒だ。お前の中にいる……暴食スキルの中にいる出来損ないの神を感じ取ったのかもしれない』
「俺の中に眠る出来損ないの神を呼び起こして、今度こそ魂の収穫をやり遂げようとしているのか」
『お前に甲斐甲斐しく世話を焼くのも納得だな。しかし、わかったところで今のところ為す術なしか』
考え方を変えれば、暴食スキルの中に出来損ないの神がいる限り、ライブラは味方にならざる得ない。問題は、俺がこの神を抑え込み続けられるかだ。
氷樹の林が生い茂る状況は、あまり芳しくないだろう。
『もう一人のお前に、出来損ないの神か。次から次へと厄介なことばかりだな』
「一つ一つ決着を付けていくしかないさ。今はアーロンを探そう」
「お前の父親、ディーンもな」
この場所は人間たちだけが集められていた。魔物の魔の字も見当たらなかった。
『魔物は他の場所に集められているのかもしれん』
「倒した数は人間よりも魔物の方が多いからな。林より樹海になっているかもしれないな」
俺が殺めた人間の数は、片手に収まる程度だ。それを威張って言えるようなことでは決してない。
それに比べて氷樹の林に埋まっている人間の数は数え切れないほどだった。
「この人たちはケイロスがやったのか?」
『そうだ。ガリアから独立するために戦った結果がこれだ。あいつは優しすぎた。お前以上に血塗られた道を歩むしかなかった』
「負の部分をすべて引き受けたわけか」
『誰もやりたくないことをケイロスは自ら進んで引き受けていた。その結果がこれだ』
氷樹の一本一本が亡くなった者たちの墓標に見えた。
俺は幾つもの氷樹の間を縫って進んでいく。冷気はどんどん濃くなっていき、手足の感覚はとっくに失われていた。吐く息もすぐに凍り付いてしまうほどだ。
そんな中で、微かに父さんの声が聞こえたような気がした。寒さによる幻聴ではない。
幼い頃に聞いた優しい声で俺の名を呼んでいる。俺はいつの間にか、氷樹の林の中を走っていた。次第に俺を呼ぶ声が大きくなっていく。
『どうした? フェイト』
グリードには聞こえていないようだった。
そして、俺はたどり着いた。氷の大樹に取り込まれるように、父さんが眠っていた。
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