第226話 聖地の使徒

 今日はいろいろとあった。だからか、なんだか疲れてしまった。

 グレートウォールからセシリア家に戻ったときには、日暮れになっていた。


「ああぁぁぁ、生き返るっ」


 湯船に顔をゆっくりと沈めながら、子供のようにぶくぶくと息を吐く。


(聖地からの使徒に……世界の変革!? 俺はそんな大層なものではない)


 大事な記憶を失い、帰り道もわからない。ただの迷子だ。

 以前のような力も失って、グリードも眠ったままだ。


(どうしろっていうんだよ……)


 今だに湯船の中でぶくぶくと呟いていると、浴室の扉の向こうから声が聞こえた。


「湯加減はどう?」


 セシリアだ。彼女は俺に気を使ってくれ、風呂に入って疲れを流してくればと勧めてくれたのだ。

 帰りの道中、俺たちは無言だった。

 俺は何を彼女に言っていいのか迷っていた。セシリアも何も言わない俺にどうしていいのかをわからないようだった。

 少しだけ、気まずかったのを覚えている。


「丁度いいよ。いい香りもするし」

「よかった。それはね……自家製の香草を入れてみたのよ。小さな布袋があるでしょ。そこに乾燥させた香草が入っているのよ」

「これかっ」


 なんだろうなって思っていたんだよ。

 手にとって、匂いを嗅ぐと……スッとした爽やかな香りがした。


「疲れを取るには、これが一番だからね」

「ありがとう。落ち着くよ」

「そう、よかった」


 安堵する声がドア越しに聞こえてきた。

 それを聞いて俺は思う。風呂から上がるまで、待てずにここまで来てしまったのだろう。

 案の定、セシリアは話を切り出してきた。


「決めてくれた?」

「ここに留まること?」

「そう……」


 彼女はそれっきり何も言わない。

 俺の返事を待っている。わかりきったことなのにさ。

 そう思うと笑っていた。


「なんで笑うのよっ」

「だってさ」

「だって?」

「留まらないなら、一緒に帰ったりしないし。今、風呂に入ったりしてないし」

「わかっている。だけど、きちんとあなたの言葉で聞きたいのっ」


 不謹慎だった。

 彼女は真剣だったのに。

 俺は謝罪して、セシリアに言う。


「しばらく、お世話になるよ。だけど……」

「兄さんね。それは私の方でどうにかするから」

「仲はあまり良さそうに見えなかったけど?」


 俺には本当の兄妹というものが、よくわからない。メミルは一応妹だけど、本当の妹ではないし。


「あの人は、生まれ持って目が見えないことで、親から疎まれていたから。そのせいで精霊にも恵まれなかった。私はその逆だったから」

「ゲオルクは君を羨んでいる? 君の代わりに転生の儀ができて嬉しそうだったけど」

「あれは私への当てつけよ。私が一番嫌がっているから、それを楽しくやるの」

「なんか……複雑だな」


 本当にセシリアはゲオルクをどうにかできるのだろうか。

 一抹の不安がよぎる。


「フェイトには兄妹はいるの?」

「いるよ。血は繋がっていないけど、成り行きで兄妹になったかな」

「仲はいいの?」

「ん~……そこそこかな」

「歯切れが悪いわね。どうしてなの?」

「それは……」


 真実を話すか、それとも嘘をつくか、それともはぐらかすか……。

 聡明そうなセシリアのことだ。俺のような不器用な男の嘘など瞬く間に見破ってしまうだろう。


「俺が彼女の本当の兄を二人……殺しているから」

「なにっそれ!」


 思わずセシリアが浴室のドアを開けようとしてきた。

 慌てて、俺は言う。


「待って、理由を順を追って説明するから! 入ってくるなっ」

「なら、これで体を拭いて出てきなさい。すぐにっ!」


 投げ込まれたバスタオルはふんわりとして、柔らかった。

 彼女がいなくなった脱衣場に出て、体を拭く。知らない花の香りがバスタオルからした。

 どこか落ち着かせる香りが、これからセシリアにどこから説明したものやらと、悩んでいる俺に安らぎを与えてくれる。脱衣場だって、がさつな俺に不釣り合いなくらい整然としていたのだった。

 このバスタオルとよく似ているな。


「……ちゃんと話すべきだよな」


 それでセシリアが俺を拒絶したら、今度こそ出ていこう。


「よしっ」


 言葉だけで分かり合うことは難しい。だけど、話さなければお互いのことを知り合うことすらできない。

 折れた黒剣を見る。お前は凄いやつだよ。言葉の力を一番信じているのは彼かもしれない。

 今だに沈黙を続けるグリードは、こんなとき俺にどんな言葉を投げかけてくるだろうか。

 どうせ、小姑めいたものだな。思わず、小さく微笑んでしまう。


 だけど、それがいつも俺の背中を押してくれていた。


「いつまで、眠っているつもりだ」


 俺の声は届いているのだろうか?

 それとも……。


「……なあ、グリード。もう少しだけ遠くに行ってみるよ」


 帰り道もわからないくせに、どこへ行くつもりだ? という皮肉った声が聞こえたような気がした。

 セシリアの手を握って、戻ること決めてしまった。

 いつものように、俺の出来ることを頑張るだけだな。


 髪を乾かして、エルフ御用達の服を着る。見た目以上に軽く、温かみがあった。

 サイズもピッタリだな。着替えのない俺を見かねて、セシリアが用意してくれたものだ。

 測ったわけでもないのに、凄い洞察力だな。


「さてと……」


 これ以上、彼女を待たせるわけにはいかない。

 脱衣場を出て、彼女がいるだろうリビングに向かう。

 小さな家だ。すぐにテーブル席に座っているセシリアの後ろ姿が見えた。


「おまたせ」

「温まれた?」

「それを聞くのかよ」

「あえてね。じゃぁ、聞かせてよ。フェイトの話を」


 向かい合うように席について、セシリアの顔をまっすぐに見る。

 エルフ特有の長い耳が上下にピクピクと動いていた。これは一体……どういうときに起こる仕草なのだろうか?


「義妹の兄2人の命を奪うに至った経緯からね」

「わかったよ。じゃあ、セシリアのことも教えてくれよ」

「それはフェイトの話次第ってところかな」

「こういうの……苦手なんだよな。でも、まあ頑張ってみるさ」


 俺はハドとの因縁、ラーファルとの王都セイファートでの戦いについて、少しずつ ……セシリアの質問に答えながら話していった。


 まずはレベル? ステータス? スキル? アーツ? 何それ状態だった。

 エルフの世界と、俺がいた世界は、根本の概念が違う。

 エルフは、精霊の世界に生きている。しかし、人間はスキルの世界に生きていた。


「へぇ、私たちの精霊が、人間ではスキルのようなものに似ているのかな」

「俺から見ると、精霊の方が万能そうだけど?」

「どうかな。精霊は私たちを同じように意志を持って生きているのよ。普段は目に見えないけどね。彼らからうまく力を借りるのはけっこう大変なのよ。それに比べてスキルは簡単そうに感じたわ」


 精霊は意志があるのか……もしかしたら、俺たちの側を漂って話を聞いているのかもしれないな。俺の目には見えないので、幽霊のように思えてしまう。


「なあ、ハドとラーファルのことはいいのかよ」


 どちらかというと、俺がいた世界の話のほうに興味が向いている節がある。


「あなたの言葉を信じるなら……フェイトの状況ではそうするしかなかったと思う。それによって救われた人もいるんでしょ?」

「……そうかもしれない」

「ありがとう。ちゃんと話してくれて……でもごめんなさい」

「なんで謝るんだよ」

「だって、あのときにああすればよかった。こうすればよかった。なんて悔やみ続けていたら、心が苦しくなって前に進めなくなってしまうでしょ。あなたなりの清算もしてきたのに、また思い出させてごめんなさいってこと」


 俺は口を開けたまま、声が出なくなってしまった。

 この言葉によく似たことを前にも言われたからだった。

 ロキシーの笑顔が頭の中をよぎった。途端に、どうしようもない寂しさがこみ上げてきた。


「気にしなくていいよ」


 そう言った俺の顔をセシリアはずっと見つめていた。テーブルの真ん中に置かれたランプの炎が揺らめいて、滲んでいく。


「本当にごめんなさい」

「なんでそんなに謝るのさ?」

「気がついていないの? だって、あなた……今泣いているのよ」


 ハッ!? 俺が泣いている。

 不意に下を向いたとき、瞳に溜め込んでいたらしい涙がテーブルにこぼれ落ちていった。

 自分の意志とは無関係に、テーブルの上で丸くなった涙の数が増えいく。

 セシリアの顔すら見えなくなっている。見かねた彼女がテーブルのランプを手に取った。


「今日はこのくらいにしましょう。いろいろあり過ぎたのに私の配慮が足りなかったわ。もう休んだほうがいい」

「そうさせてもらうよ」


 小さな客室に案内されて、ベッドに飛び込んだ。

 明日は何をしようか……なんて考える暇もなく。柔らかなベッドに包まれて、俺の意識は遠退いていく。


「おやすみなさい、フェイト……」


 そのセシリアの声を最後に、俺の意識はそこで途切れてしまった。

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