第215話 ソウルダイブ

 淀みなく澄んでいた。ずっとここに居られたら、幸せなのだろう。


 穏やかな風が吹き抜ける草原に俺は立っていた。今まさに夕日が地平線の向こう側へ沈み込もうとしている。


 この陽の光によって淡く輝いている草の穂たちにも、等しく真っ暗な世界がやってきてしまう。

 ロキシーの世界が闇に閉ざされつつあった。


「いるんだろ、スノウ」


 俺の問いかけが、風に運ばれて遠くに流れていく。それに呼応するかのように、空間が歪んだ。


 そこから現れたのは、やはりスノウだった。しかし、違うのは大人の姿だ。


 これが本来の彼女なのだ。顔には聖刻の入れ墨が赤く染まっている。つまり、ロキシーの精神への干渉は彼女自身ではどうにもならないことを意味する。


「やっとちゃんと話せるね……フェイト」

「どうしても、ロキシーを解放できないのか?」

「無理。わかっているでしょ」


 スノウはそう言って自身の顔を指差した。真っ赤に染まった聖刻がより一層輝いた。


 彼女はおそらく聖刻に抗おうとした。しかし、それを抑え込められたように見えた。父さんも同じだった。


 そうなると方法は……。


「私を殺すしかない」

「やめてくれ。もううんざりなんだ。大切な人と戦うこと……殺し合うことに」

「それでも……大丈夫。私もすでに死んでいる。それに私は罪の報いを受けなければいけない。今のフェイトは、その理由を思い出したのでしょう?」

「……スノウ」


 お願いだから、父さんと同じことを言わないでくれ。


「みんな、なんで死にたがるんだ!? 一度死んでしまったら、そうなってしまうのか」


 スノウは微笑むばかりだった。


「暴食スキルで私を喰らって、さあ」


 父さんにしたことを繰り返したくはない。


 なぜだよ。メイソン様も……ミクリヤだって……母さんだって……。どうして、そのようなことを進んでしてしまうのか。わかっているさ。俺だって、ガリアでロキシーを守るために天竜と戦ったときの思いと一緒なのだろう。


 それでも、心が受け付けないんだ。どこか、スノウの声がずっと遠くから聞こえているかのように感じてしまう。


 ずっと近くに彼女がいるというのに……。


 スノウは目線を地平線へ向けて言う。


「先に進むためには必要なこともある。陽が沈みきってしまう前に」

「……こうするしかないのか。本当にこうしてしまうしかないのか?」

「ロキシーが帰ってこれなくなってしまう。私が彼女への干渉で動けないうちに」


 一歩一歩進んでスノウの前まで来て、彼女の顔を見つめる。思い出してしまった幼い頃の約束。


 この記憶は、もう一人の自分が俺から奪って持っていたものだ。あのときの俺は母さんがいなかったため、寂しかったのだろう。


 なんて、お願いをしていたのだろうか。それとも、本能的にスノウの聖獣人としての力を感じ取り、親近感のようなものを抱いてしまったのかもしれない。


「スノウ……」


 彼女の頬に触れる。ほんのりと温かく、紛れもなく生きていることを感じさせた。


「時間がない。早く」


 確かに彼女の言うとおりだ。喰らってしまえば、ロキシーから強制的に分離できる。早くしなければ、ロキシーの精神が持たない。それにライブラと一人で戦っているグリードも心配だ。


 しかし、すべてが救われるわけではない。スノウも父さんと同じように暴食スキルに永遠に閉じ込めてしまう。ロキシーもそれを望んでいるとは思えない。


 本当に方法はこれだけしかないのか?


 スノウのほっそりとした首に手をかける。後は力を込めるだけだった。

 彼女は無言で目をゆっくりと瞑る。


(……お前は……それでいいのか?)


 どこからか、俺を呼ぶ声がした。それは俺と瓜二つの声色で、重く響くものだった。


 聞いたことがある。こいつは、もう一人の自分だ。ミクリヤによって統合されたことで、聞き取りづらかった声が鮮明となっているようだった。


(その聖刻を俺が引き受けてやってもいい)


 今まで表に出てこなかったくせに今更、何を言う。どうせ、裏があるに決まっている。お前は信じられない。


 そう言い返すと、もう一人の自分はせせら笑う。


(力が必要だ。お前という枷を打ち破るほどの。聖獣人として力を発揮するために、あれは必須。俺は聖刻を得る。お前はスノウが解放される。悪い話ではない)


 お前は聖刻を得たら、俺を乗っ取ろうとするわけか?


(ずっとそうだ。暴食スキルの奥底にたった一人で封じられた苦しみをお前にも与えてやる)


 俺がその取り引きに乗ると思っているのか?


(お前は乗る。大事なものを失うくらいなら)


 こいつ……もう一人の自分だけある。スノウの聖刻を得たら、こいつは全力で俺を乗っ取ろうとしてくる。

 やっと暴食スキルとの折り合いがついたのに、今度はもう一人の自分かよ。


(準備は整った。聖刻へ触れろ)


 父さんが、こいつに気をつけろって口にしていたのを思い出す。こうなることを予期していたのだろう。


 選択肢は他にない。俺はスノウの聖刻にそっと触れる。


 途端に輝きを増す聖刻。彼女は目を見開いて、俺に向けて何かを訴えようとしていた。

 聖刻が砕け散りながらスノウから失われいく。粒子となり舞い上がった聖刻が、水の流れのようにうねり始めた。


 それは触れていた右手の甲にめがけて流れ込んでくる。


「くっ」


 燃えるような痛みが刻まれていく。スノウの聖刻が完全に俺の右手の甲に収まる。何かを強制される変化があるかと思ったが、特になにもない。聖刻は啓示を受けて、真っ赤に染まっているにも関わらずだ。


 そのとき右腕が勝手に動き出し、俺の首を絞めようとしてきた。咄嗟に力を込めて右腕の進行をなんとか止められた。


 もう乗っ取ろうしてきたか。気の早いやつだ。


(まだ暴食スキルに邪魔されるか……少し足りない……残念だ。チャンスはこれからはいくらでもある……楽しみだ)


 暴食スキルによって、もう一人の自分が抑えられているようだ。もしかしたら、聖刻も同じように暴食スキルによって封じられているのかもしれない。まさか、暴食スキルの加護を受ける日が来るとは……思いもしなかった。


 長い間、頑張って付き合ってきた甲斐があった。


 一息ついてスノウに目を向ける。彼女は唖然とした様子で、俺を見ていた。


「なんて無茶なことを……」

「でも、なんとかなった」

「はぁ……そういうところは昔から変わらない。私がディーンの死のきっかけを作ったというのに……全部思い出したのでしょ?」

「父さんはスノウを非難しなかった。それに俺が……父さんを」


 母さんは俺を産んですぐに亡くなった。そして、父さんはひっそりと山奥の小さな村で俺を育てることにした。


 その時は俺(暴食スキル)ともう一人の人格(聖獣人)が共存しているとても不安定な状態だった。大きな都市では、何かあったときに取り返しがつかない被害を出してしまう可能性や、他の聖獣人の追手から身を隠すためでもあった。


「私はディーンの追手だった」


 スノウは遠くを見ながら、教えてくれた。

 今回のように彼女は聖刻に抗えずに戦うしかなかったのだろう。


「しかし、ディーンとの戦いに敗れてしまった。重症を負った私を助けてくれたのは、フェイトたちだった」


 幼い頃に育った村から離れた山奥。一人で遊んでいると、誰かの声が聞こえるような気がして、迷い込んでしまった。今思えば、もう一人の人格が感じ取ったのだろう。


 そのときの俺は、もう一人の自分とうまくやっていたような気がする。父さんは邪悪な存在だと思っていた。だが、俺にとっては兄弟のような存在だった。


 もう一人の俺はスノウを見つけると、忙しなく手当をしていた。父さん以外に初めて聖獣人……同族に会えたことが嬉しかったようだ。


 おそらく、あいつは孤独だったんだと思う。せっかく会えた同族を失いたくない一心で、父さんの目を盗んでは何かとスノウの面倒を見ていた。俺も一生懸命なあいつに、協力していた。


 しかし、それも長くは続かなかった。スノウが動けるほどの回復をしたときに、父さんに見つかってしまう。


 再び起こった聖獣人同士の戦闘。もう一人の俺は止めることもできずに、泣き崩れていた。そして次第に間近で繰り広げられる戦いに感化され、泣き止んだ頃には聖獣人として力に目覚めてしまっていた。


「私はとんでもない者を目覚めさせてしまった」


 それは俺が持つ暴食スキルの力も巻き込んで、途轍もない力だったいう。

 暴走した力はスノウの命を奪い、父さんにも襲いかかった。


「ディーンは自分の命を代償に、もう一人のあなたを暴食スキルに封印した」


 そして、俺は一人になった。父さんはずっと側にいてくれたけど、そう長くはなかった。


 俺はもう一人の人格と共に記憶の多くを失った。そのため、父さんは怪我が原因で無くなったと思い込んでしまった。


「もう一人の俺がスノウにお願いしたことを覚えている?」

「不思議なことを言われた。でも今ならわかる」


 一緒にいてほしい。この言葉ですべてがわかってしまう。


 先程の表に出てきたのも、ちゃんと理由があった。もう一人の俺にとっても、スノウは今も特別なのだろう。


 だから、彼女の心を束縛する聖刻を受け継いだ。俺を乗っ取るのは、そのついでなのだろう。

 スノウは陽の光が差し込み始めた世界に目を向ける。それは、優しく温かいものだった。


「ロキシーが目覚める」

「スノウ! 体が」

「聖刻を失った今、彼女の力添えは同じようにできない。でも、一つだけ方法はある」


 聖刻を受け継いだときに似ていた。スノウの体が砕け散りながら、光の粒子となっていくのだ。


「まさか……駄目だ。それだと結局スノウが……死んでしまう」


 スノウはにっこりと微笑む。それは俺の背中を押すような明るいものだった。


「ロキシーの魂と完全に同化する。大丈夫、彼女はなにも変わることはない。この力(ヴァルキュリー)を彼女だけで扱えるようにする」

「……ありがとう、スノウ」

「私の方こそ。気にすることはない。私は彼女の中で生き続ける」


 それは俺だけではなく、もう一人の人格にも言っているようだった。


 スノウは光の粒子となって、世界に広がっていく。青々とした草原は彼女の力を得て、次々と花を咲かせる。

 世界はより温かさを増して、安らぎの風が吹き抜けた。陽は上り切り、曇りなき世界へ。


 ロキシーの世界が帰ってきた。つまり、彼女は目覚めようとしている。


 俺も戻ろう……ライブラとの戦いが待っている。

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