第25話 行宗道子の過去

 広いロビーの窓側は見晴らしが良い。その一画にあるソファーにみんなが身を沈めると、先ず夕紀が写真を見せて、この人が妹さんの道子さんがどうか見て貰った。

 恵子さんは夕紀から手渡された写真を手に取るとじっくりと見詰めた。この時間はほんの一瞬だが、彼女を取り巻く者には実に長く感じられた。

「随分と古い写真なのね」

 と言いながらも、彼女はひと目見て直ぐに妹だと確信して、写真を夕紀に返しながらその消息を尋ねられた。

「今はその古い写真しか残っていないんです」

 過去形の言葉に気落ちした彼女は、それで悟ったらしい。

「そうなの、其れは残念ね、其れで妹は何処どこでいつ亡くなったの」

「京都でひと月前でしょうか」

 妹の死を確信すると彼女は少しは気を取り戻した。

「それであなたが最期を看取みとったの……。そんなことはないわよねまだ学生さんでしょう妹とはどう言う関係だったか知らないけれど……」

「あちらにいるのがあたしの母で後はみんな大学生です」

 父は三千院の近くで喫茶店をやっていて、観光客以外に近所の人が集まる憩いの場になっていました。そこへやはりご近所で良く店へ顔を出す大家さんが、店子の住人が孤独死して身寄りを捜してくれと頼まれたのです。私たちは大学のサークル活動の一環として引き受けて今日に至った経緯を説明した。

 そうなの其れは大変だったでしょうと労ってくれた。

 そこで桜木が、別に例のツーショットの写真を見せて、この相手の男性に心当たりがないか訊ねた。これには夕紀が驚いた。まだ唐突すぎて彼女の心証を損なう恐れが生じる可能性があるからだ。

 だが彼女は頬を緩めて、この人ね、と言いながら写真を桜木に返した。

「その写真の相手の男性は滝川盛治たきがわせいじさんと云いました。妹の初恋の人です」

 やはりそうか、と桜木は勘が的中して一息吐いた様だ。

 彼女は既に妹が亡くなったと知って、今は一つの想い出として、あっさりと話す気になったのかも知れない。

「あれは今から五十年ほど前かしら昭和四十年代に丁度あの唄が流行はやっていてそれに憧れて道子が二十歳の頃だと思うんですがここから京都の大原三千院へ旅行に行ったんです」

「お一人ですか?」

 と桜木が問う。

「そう、あの、恋に疲れた女が一人……と謂う唄の文句の有るとおり一人旅なの」

 別に道子は失恋した訳でもなかった。彼女は高校を卒業して地元の島根で就職してからこの唄に吊られて一人旅を計画した。京都へゆく夜行寝台列車に揺られて、朝に着くと駅前で軽い朝食を済ませて、真っ直ぐ三千院を目指して行きました。殆ど一番乗りであの山門を潜ったと大喜びしていました。そこで同じく一人旅の滝川さんと知り合いました。旅と言っても滝川さんは地元の人ですから、旅と言うより心を休めに訪れたんでしょう。向こうは正真正銘の恋に疲れた人ですから、もっとも片思いだったそうだ。

「ひょっとしてそれはあの宸殿から往生極楽院が正面に見えるあの場所だったのですか」

 夕紀は一瞬よぎった光景をそのまま訊ねる。

「あらッ、どうしてそれをよくご存じだなんて妹には会ったことがないんでしょう」

「神戸からいらした宇田川由香さんから道子さんが亡くなられる前にお目にかかっているんです。その人から道子さんが三千院で一番好きな場所だと伺いましたけれどあの場所にはそう謂う想い出があったんですか」

 そうだったの、ご存知でしたら丁度いいわね、と恵子さんは続けた。

「あの宸殿から往生極楽院への通り道になる階段の端に滝川はぼんやりと佇んでいたそうです。その余りにも漂う悲愴感が道子には堪えがたかったんでしょうね『どうされました』と一声掛けたのが始まりだそうです。その階段に二人が座り込んで話をしていたそうです。まあ観光客には目障りだったのにも関わらず結構長いこと座り込んで居たそうなの」

「何を話されたんですか」

「それは詳しくは云いませんでしたから。ただ二人ともあの唄に酔っていたそうですからそのあたりじゃないかしら」

 その辺りと言ってもここでその「女ひとり」の歌詞を知っているのは、この歌が下火になった頃のお母さんがギリギリの限界で、平成生まれのあたし達は誰も知らなかった。ただ夕紀だけは三千院の直ぐ側で喫茶店をやっていて、うろ覚えながら出だしは聴いていた。

 どんな唄ですかと夕紀のお母さんに聞いても、母もまだ小さいときだから、それもしょっちゅう掛かってる曲じゃないから、何となく聴いたような感じだ。それを聞いて行宗恵子さんは「誰も知らないなんて歳を取り過ぎてこれじゃあまるで浦島太郎ね」と言って笑った。

「あのー、そのー、滝川さんとはその後はどうなったんですか」

 ここでも桜木が好奇心に駆られて聞き続けている。

「妹は両親の反対を押し切ってまで一緒になろうとしたから勘当されました。それで京都まで押しかけて一緒に暮らしたようです。でも結局は滝川さんとはそのあと妹から連絡が来なくなってそれ以後は解らないのよ」

 だからなにも言ってこないから、今もその後の経過は解らずじまいらしい。

「そうですか、あの写真に写ってる車は当時としては最新の水冷式エンジン車ですね」

「あの車は自慢していたそうですよ、そうまだ中古車の空冷式が結構走ってましたからね水冷式って言うのは新車でもちょっとお値段もしたでしょうね」

「それを滝川さんは買われたのですか」

 空冷はエンジンをそのまま露出させて載せてあるが、水冷式エンジンは他に余分な冷却装置を載せて絶えず水を流して循環させるから空冷に比べてお金と手間が掛かる車だ。

「大企業で中年の役職者ならいざ知らず、あの人は若いのに結構お車にはお金を掛けてましたからね」

「二人が行き詰まったとすればそのへんですか」

「それもあるかも知れないけれどあたし達とは遠く離れて暮らしていたからハッキリしたことは分からなかったし、妹は殆ど連絡しないのよ、だから今まで亡くなった山下さんと住んで居たのも知らなかった次第ですから」

「じゃあ滝川さんについてもご存じないでしょうね」

 気落ちする桜木を励ますように彼女は答えてくれた。

「それでも滝川さんについては、道子の居場所を知らせて欲しいと謂う手紙を再三にわたって貰ってるから居場所は分かるけれど、最近では四、五年前で今は歳も八十に近いらしいからお元気かどうか解らないけれど……」

 と語尾は不安げに濁された。それで道子さんが住民登録を避けたのは、滝川さんに知られたくなかったのでは無いか、という疑問が新たに湧いて来た。

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