第17話 唯一の遺品

 さっそく朱肉を付けて近くの紙に押しつけてみた。みんなの注目は桜木の手に集中する。桜木が静かにそ〜と印鑑を持ち上げたその下の紙には「行宗」と言う苗字が鮮やかに蘇った。

「ねえ、これって山下さんの旧姓かしら? で、これ、なんて読むの?」

 美紀が桜木に訊ねた。

 桜木はその幼い質問に仮定だが、多分おそらく「ゆきむね」または「いくむね」のどちらかだと思うが後は本人に聞かんと解らんと答える。美紀に対する桜木のぶっきら棒さに、夕紀はそんな言い方がありますかと嗜める。これに米田も同調すると、桜木は八方塞がりになりかねないが、そこは美紀が「あんまり聴かない苗字ね」と何事もなかったように桜木に話し掛けると夕紀もやり過ごす。

「そうだなあレアな苗字だと思うけどそれで間違いないだろう」

「じゃあこの苗字から身内に辿り着けるかしら?」

「そうだそれよりこの家には随分と古い電話帳が沢山あるわね、それで宇田川由香さんの連絡先が解ったように行宗さんも解るかも知れんね」

 と夕紀が言い出すと、善は急げとみんなは一階に下りて埃のかぶった電話帳を押し入れから取り出して調べだした。しかし今時こんなアナログな方式で調べるなんて昭和の人の苦労が身に染みる、と平成生まれのみんなは肝に銘じた。

「おいおい、まだこの名前が山下さんの旧姓だと決め付けるな」

 と米田は早合点し過ぎる別人かも知れんと水を差す。嫌な視線を浴びた米田は直ぐに「まあそれでも少し遠回りになるが辿り着けそうだ」と重い電話帳と格闘するみんなを励ました。

 調べると全国で百五十人しか登録していなかった。特に広島県に多く居るようだ。

「それでも大変ね」

 と美紀が言い出すと桜木は、古い家や立派な家には家系図があるからそれで道子さんの名前を辿って調べれば三分の一ぐらいには減る。そこから、不明なのは多くて二、三十で上手くヒットしていけば、一ケタに減るからと楽観論をった。

「まあ二十人に落ち着けば後はあの写真が頼りになるわね」

 家系図から漏れた行宗家には、あの写真の人が家族か身内にいないか聴けばいい。するとこの先、僅かだが光明が見えるとみんなは安堵する。

 とうとうこの家では印鑑と写真以外は本人をハッキリと証明する物は何ひとつ見つからなかった。見つけた本人に関する遺品は、四枚のしかもかなり昔の色褪せた写真と、これも矢張りかなり古い印鑑の二種類しか見つけ出せなかった。公式な身分証明書が一切なければ、これは一番貴重な物を遺してくれたと感謝するしかない。

 そこでみんなは家の戸締まりをして、美味い珈琲の匂いに誘われて、三千院はずれ道の喫茶店へ自然と足が向いた。二回にわたる遺品調査を終えて足取りは重いが気持ちは軽くなった。

 あの写真だけなら、どこから手を付けて良いか解らずに、途方に暮れていた処だった。それだけに苦みの中に酸味と調和したあの店の珈琲ほど、この場に相応しい物はない、とみんなは今更ながら夕紀に感謝した。

 店に着くと前もって夕紀が連絡していて、テーブル席に四人が着くと、直ぐにあの珈琲が四人の前に並べられた。

「お父さんご近所の年配の人たちはまだ来ないのね」

「春休みになって観光客が増えたせいでちょっとは遠慮してるんちゃうか」

 そうか、まあごゆっくり、と親子の短い会話で戻るマスターの後ろ姿を見ながら四人は珈琲に一口添えた。

「処で夕紀よ、一つ妙案が出来たのだが大家さんから役所で全国の役所に行宗道子で戸籍に記載されていないか調べて貰えば楽なんだがなあ」

 と苦労を惜しむ米田らしい提案だ。

「まあこの個人情報保護法が施行されて厳しいこのご時世ではどうでしょう」

「でもよ、これは役所からの依頼やん、なら役所同士の横の繋がりはどうなってんだろう」

「でも役所と云う処は問題が出ると責任を取るのを嫌がるからなあ」

 何事もなく定年まで勤め上げれば、民間の数倍の退職金と恩給に役職者で有れば天下り先のポストまで用意してくれる。それを棒に振る役人がどこに居る、火中の栗を拾う役人がどこに居る、と桜木は当てにはならんと米田につれない態度で返した。

 まあ地道にやっていくしかないやん、と美紀も桜木に同調する。これには米田はムッとして、すまし顔の美紀を牽制するように見た。美紀の云う朝のバスの雰囲気とはこう言うことかと夕紀は納得した。

 そこで桜木はあの家の本は市役所前で行われる次の市民フリーマーケットヘ出す。その選定を次回の予定に組み入れた。残った家具の運び出しは米田から石田と北山に伺うように依頼した。残った私物は段ボール箱に詰めて暫く置いておくが、この家は借家だからいつまでも置いておけない。大家さんも、早う次の家賃収入を期待しているだろうから、その予定で早う遺産相続人を捜し出す。

「でもこの山下道子さんの青春時代ってどうだったんだろう」

 と桜木はふと口にする。

「五十年ほど前か」

 と遺品整理で見つかった四枚の写真を四人はしみじみと眺める。丁度カラー写真が普及した頃らしいが、色褪せたその写真からは当時の鮮やかさは伺い知れない。

「しかしこの写真と印鑑だけでどうやって探せるんだ」

 桜木はこれだけでも奥の手があると、さっき詮索したぶ厚い電話帳を出した。

「何だそれはあの家で調べたじゃあないか」

 ともう用済みだと云わんばかりに米田は訊ねる。鈍い奴だと思いながらも電話帳にある住所を当たる。その方法はグーグルのストリートビューを使って家の門構えから系図が保管されているか見当を付けて手紙を出して行宗道子さんを調べるらしい。

「門構えだけで分かるのかッ」

 と米田は相変わらず懐疑的だ。ただ虱潰しらみつぶしに見るのではなく、集中して偏って存在する所に、ある程度ポイントを絞る。例えば広島県は六十ほど有るが、十軒ほど家系図が見つかれば、それを芋づる式に辿れば大体は掴めて、広島での不明は二、三人になるだろうと桜木は、ここでもかなり楽観的に考えているようだ。

「本当に芋づる式に繋がればいいけれど寸断されていれば最悪ね」

 夕紀と美紀はお互いに顔を見合わせて、桜木に大丈夫かと不安そうに伺う。

 取りあえず三人で分散すれば一人五十人に成る。そこで珍しく米田も協力を申し出る。提案した桜木は大丈夫かと確認を取った。米田には三十人分を割り当てて、残りを四十人分ずつ三人が担当すれば、百二十人で米田の分を加えて百五十人分だから二、三日で第一段階は終わり絞り込んでゆける。それぞれに割り当てた家の住所録は、今晩中に各自のパソコンにメールで知らせるから、着信が有り次第着手する事で意見が一致した。ただし集合住宅は省いても大丈夫だと付け加えた。 

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