第11話 宇田川由香が来る

 三千院はずれ道の喫茶店は早朝にはろくな客が来る。カウベルでその特徴を掴んでしまうほどドアの開け方がいつも決まっていた。片桐浩三は入り口を見なくても、カウベルの鳴り方で優香の来店を耳で解るようになった。今日もそのせわしないベルが鳴り終わらぬうちにいつものカウンター席に着いている。

「今日は何の用だ」

 珈琲の味は申し分ないけれどいつもながら愛想のない人なのね、と優香は云う。その傍らで離婚をしたのは、家庭を顧みない昔の夫に愛想が尽きたからだと思いながら、今の浩三の変貌ぶりに優香は複雑な気持ちだ。

「秀樹が三浪は嫌だと言い出したのよ」

 ホウー、あいつもやっと自己主張し始めたか。

「良いことだ、いつまでも親離れ出来ずに自分の殻に閉じこもって親のスネかじりする、いや今はなんかニートと云うらしいが中身はたいして変わらねぇが、しかしお前から自立しょうなんてやっぱり育て方を間違ったか」

「間違ってはいやしないわよ今まで良い子にしてたのに夕紀が入れ知恵してハッパを掛けるからよ」

「矢っ張りお前の育て方は世間から見れば間違ってる俺の育て方が良かったんだ」

「何言ってんのあんたはあれからも家庭をほっぽり出して居たそうじゃないの結局はあの婆さん任せでよく言うわね」

「お袋の事をよくそん風に云えるなあ今から思えばお前は芳恵とそりが合わなかったのが最大の理由じゃないのか」

 これには優香は答えず、話を振り出しの秀樹に戻した。どうやら愛想を尽かしたのは俺じゃないと短い沈黙が語っているようだ。

「お前の話を聞いていてもらちがあかん秀樹をここへ呼べ、いや、行くように、いや、待て、お前がハッキリ言えばへそを曲げるから自主的に行かすように仕向けろ。言っとくが強要するな、もっと婉曲表現をしろ。あいつは今曲がり角に立ってる。一つ間違えばとんでもないことをしでかす時期だ。手に負えぬと思えば諦めろ深追いするな」

「じゃあどうすればいいのよ」

「お前が育てた息子だ、少しは俺より息子の気持ちは解るだろう」

 浩三は言葉以上の物が酌み取れるはずだと優香の目をしっかり捉えた。

「ダメなら夕紀に任せる」

「そうか夕紀も春休みだから十分に時間があるのね、今は家に居るの?」

 もう直ぐここへ待ち合わせしている人が来るから今、二階で友達と待って居ると云うと、優香は丁度カウンター席の手前まで吹き抜けのようになった天井を見上げる。少し反った太い原木をそのまま剥き出しにした梁が、屋根を支えるように途中まで張り巡らしていた。その先は丁度カウンター席の上に張り出すように、二階を仕切る壁板に成っている。二階には泊まり込める部屋があった。

 優香は、じっくりと屋内を見回すと静かにカウベルが来客を告げる。優香は、まっすぐカウンター席の向こうに居る片桐に向かってやって来る女を注視した。彼女は片桐に会うなり夕紀の名前を出し、片桐が勧める珈琲をやんわりと断り待機した。片桐の呼び掛けに応じて二階から夕紀が、カウンター席を抜けて対面すると一緒に居る美紀を紹介した。

 宇田川由香うだがわゆかは直ぐに行きましょうと踵を返して歩き出すと、二人も後を追って店を出た。優香にすれば突然の出来事にすべもなく見送ってしまった。

「何なのあの女はそれに夕紀も夕紀でしょう側にいるあたしには目もくれずに行っちゃうなんてあなたどう言う教育をしてるのッ」

「ご覧の通りお前に挨拶する時間もないぐらい今はいそがしいんだ」

「春休みなのに」

「そう春休みだから」


 二人は喫茶店の屋根裏部屋のような所で待機して、宇田川由香さんの対応策として。この際はハッキリと山下道子さんの遺された遺産の相続人を捜して居ると伝えて協力して貰うことで一致した。そう決めた以上はサッサと出会った現場で、一刻も話を訊くべきだと母の前を素通りして店を出た。

 わざわざ神戸から来て頂いて恐縮です、と店を出るなりねぎらいの言葉を掛けた。宇田川さんは大袈裟過ぎるあたしはあなたの誘いに応じたので無く、三千院に観光に来ただけですから、と云われ至って気さくに対応されて身構えていたものが崩れて、一つ肩の荷が下りた。

 春は急にやって来るものですね、と宇田川さんから言われた。ひと月前までは雪に囲まれてここへ来るのは大変で、今はあの日が遠くに感じられた。今は回り舞台のように躍動的に季節が入れ替わり、春風があの日を想い出させた。と語るように気持ちを落ち着かれた宇田川さんに、二月の三千院にやって来た理由をそれとなく訊ねた。

 三十を過ぎた彼女は一度目の結婚に懲りて、金輪際結婚はしないと心に誓っても、それを覆せる人が現れれば女はもろい物だと知った。そんな思いが断ち切れるほどの雪が降り出しスッカリ三千院が気に入った。でもそんな心を見透かすように、都会装備の彼女に雪の参道は容赦なくめげさせる。流石は名だたる天台宗の寺院だけ有って悟りきれない人間を拒むように、軽いパンプスだけの足元に容赦なく降り積もる。やっと到達した時に、難関な歩幅の短い急な階段で足を取られた。流石に無事では済まされないと覚悟した。その覚悟を優しく受け取ってくれる人が間近に居た。その時はこの世界も捨てたもんじゃないと思わせたのに、その人が今はこの世に居ない侘しさを感じた。それほど宇田川由香さんは道子さんに心を寄せてしまったのだ。

 小さな川沿いの小径から小橋を渡るとあの山門が見えてきた。門前に立って見上げると、何処かのお城の城門のように見えるほど、その石段と門を囲む石垣に圧倒される。ここがひと月前の深い雪に閉ざされていれば「お前はこの山門を潜れる者なのか」と問われている錯覚さえ抱いてしまいそうだ。

 三人は石段を登り切った所で立ち止まり振り返って足元を見た。

「いま見れば普通の石段だけれど他の寺院に比べて数が多いわねぇ。丁度あの辺りの石段で滑って真っ逆さまに下まで落ちる恐怖を救って下さったのが山下道子さんでした。あの人は足元の覚束ないあたしを見て倒れても受け止められるように直ぐ真後ろに居たらしいのですよ」

「でも七十歳の人が若い宇田川さんを受け止めるなんて凄いしっかりした人なんですね」

「ええ腰もスラット伸びて髪はグレーでしたけれど染めていればもう十歳は若く見えたでしょうね」

 参拝者たちは門前の三人を遠巻きにして次々と門を潜って行く。中には「寺院の門って大概は距離の短い石段の上にあるけどここのはちょっと長くて角度がきついわねぇ」と云いながら行き過ぎる人も居た。それを聴いて三人はクスッと笑って門を潜った。

 

 

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