第6話 片桐浩三

 片桐浩三かたぎりこうぞうは、人生八十とすれば峠はもう越えている。しかし定年や年金の支給が六十半ばなら彼は人生峠の一番急な登り坂に差し掛かっている。その道を余計に峻険な坂にしたのがかつての伴侶、別れた妻の優香だった。その優香がこの脱サラして五年前に始めた店へ顔を出すようになって心が複雑になった。

 最初は三千院の参拝帰りの道すがら偶然に見つけたらしい。最初の言葉が、いつ前の会社を辞めてこんな所に店を出したのと云われた。余計なお世話だと思いながらも、客だと思えば真面に対応できた。それがここに喫茶店を開業して三年目で、別れて十年目だった。

 ちょうど今頃だが、晴れていると思ったら急に雪雲に覆われて、案の定、雪が降ってきた。春にしては珍しいボタン雪だ。これでは参拝者は真っ直ぐ駐車場に行くから、今日はお客さんはないだろうと、カウンターの奥で雑誌を読んでいると、けたたましくカウベルが鳴った。

 首を伸ばせば中年の女性が勢いよく、頭や肩に降り積もった雪を払いながら、寒そうに近くのテーブル席に、こちらに背を向けて座った。片桐は彼女のテーブルに飲み水を置いて注文を聞いた。メニューを置きながら彼女がふと振り向いて顔を上げると、二人の視線が合った。刹那にどちらもエッ! と感嘆の声を挙げた。彼女は注がれたコップを持ったままカウンター席へ移って来た。そこで二人は積もる話をした。

 先ず息子の秀樹はどうしているか聞くと、大学受験に落ちて予備校に申し込んだそうだ。当然に娘は今年で二回生になる。放任主義のババアが育ててどうしてこの差なの、と優香は相当に落ち込んだようだ。お前の詰め込み主義が秀樹には合わなかったそれだけだと言って聞かせた。どう言う訳かそれから店に来るようになって今に至っている。

 テーブル席へ座ったのはあの日だけで、それ以後は必ずカウンター席に座って対面する。

 やって来ると、いつもあの日の再会いを思い出す。その度にあれは気まぐれな春の雪が優香を運んで来たと思っている。一度はそれを口に出してみると、優香はふくれっ面をする。だが本心は怒っていない。それが証拠に直ぐに笑って誤魔化されていた。


 今日またその優香がお客で来ている。どうやら公立を二度続けて落ちた秀樹の相談らしい。

「それは夕べ娘から聞いたよ」

 夕紀は公立の大学を諦めて私立か働くか、お母さんでなく自分でどっちかにしろと云ったらしい。要するに秀樹にもうそろそろ自立しろと促したのだ。それを息子から聞かされた優香は相当に落ち込んでここへやって来た。もちろん息子の前ではいつもの威勢を張ってるそうだ。

「それでお前はどうするんだ秀樹の本音を何処まで聞いたんだ」

「あんたのとこへ行きたいって」

「俺の実家で暮らすのか?」

 秀樹の部屋は俺が使っているが、来るのなら空けてここで寝泊まりしても良いと考える。だが何処まで本音なのか、優香は確かめていないようだ。曖昧な返事でそれが解った。

「本人から話を聞いてやるから一度ここへ秀樹を寄越せ」

 そうね、と優香はまた曖昧な返事を続けるから、迷ってるのはお前なのかと問い質すと、そうだと優香は白状した。そこへ賑やかにカウベルが鳴った。若い女の子の三人ずれで、三千院帰りの旅行者だ。

 久し振りに珈琲以外にクリームやフルーツのチョコパフェの注文を受けた。片桐は直ぐに奥で作業を始めた。優香はカウンター席から、片桐の手際よい手作業で出来上がる各種パフェを物珍しそうに眺めた。あいつにこれが務まるのなら、俺の一存で引き受けても良いぞと云った。それは母の芳恵には秀樹を納得させると云っているのだ。

「あの子、台所に立ったことがないのよねぇー」

 不安げに答える優香に「甘やかしすぎて何の役にも立たないのか、それでもまた三浪させるとは呆れる」と云う間に、出来た三つのパフェを丸い銀盤に載せてお客の居るテーブル席へ持って行った。

 優香はテープ席から戻って来るまで片桐の一連の流れを目で追っていた。奥の流しで手を拭き取るとまたカウンター席の前に立った。

「頭になんぼ詰め込んでもしゃあないやろうと思うのならここへ秀樹を寄越せ。その方があいつにはいい勉強になる」

 優香は考え込んだ。

 そこへ「マスターまた来ちゃった」とリピートの旅行者がやって来た。彼女は端のカウンター席に座ると、沈黙する優香を置いて、片桐もそっちへ移動した。

 彼女はカウンター席に座るなり、ひと月前に三千院で出会ったおばあちゃんに会いに来たらしい。何でもここから下にある駐車場の向こうの方に住んでいるらしいと彼女は聞かされた。そのおばあちゃんに書いてもらった住所と名前を見せられる。どれどれと注文の珈琲を出しながら受け取った。

「ウッ! これは、この人に、あんたいつ出会ったの?」

「マスター、その人どうかしたん」

「どうもこうもあらへん二週間前に亡くならはった」

「ハア? でもこの前は元気にピンピンしてはったけど」

「そうらしいがなあー」

 彼女は神戸からひと月前にここへやって来て、山下道子さんと出会って、三千院を親切に案内してもらった。今度来るときは向こう側の寂光院も案内したげる、と云われたそうだ。それを楽しみにして教えて貰った住所を探していたら、ここに迷い込んだらしい。

 片桐は慌ててその人の年格好を訊くと間違いなそうだ。片桐はひと月前の様子を詳しく教えて欲しいと彼女に頼んだ。優香にすれば一体何なの、片桐のこの慌てようわ、と不思議な顔で見守っていた。

 ひと月前に来た真冬の三千院は凄い雪でした。門前のあの石段は除雪されても直ぐに踏みしめられて、ペンギンのようにそろりそろりと登ったのですが、ペンギンのようにはいかず滑り落ちてしまいました。一番下まで落ちなかったのは直ぐ後ろで支えてくれた山下道子さんのお陰で、大した怪我もなく済みました。私は神戸から慣れない真冬の三千院には来て、この石段も手慣れた様子で受け止めてもらい、一緒に同行してもらえて心強かった。聞けば、山下さんは宸殿から往生極楽院が真正面に見える場所が好きで、彼女は三千院へ来ると、そこに暫く佇んで居ました。何でもそこに在る阿弥陀三尊坐像(阿弥陀如来像、観音菩薩像、勢至菩薩像)が安置されたお堂に向かって、そこで瞑想するそうです。何でもそれは極楽浄土に居て、人々を救う仏さんらしいです。山下さんはここへ来ると必ずお詣りするそうです。あたしも隣に座って一緒に瞑想させて貰いました。でもまだ七十二歳と聞いていますから、それに門前の石段を登られるときには、もっと若く感じられた人ですからとても信じられません。多分血圧が高かったせいでしょうか、急にそんな風に亡くなられるなんて、と彼女は珈琲をたしなむとそのまま帰られた。この時ばかりは出て行く彼女が開け閉めしたドアのカウベルが、仏壇のおりんの音色に響いた。それで店に居る全ての人が閉じたカウベルのドアを注視した。



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