第7話
ばあんっ!! と。
乱暴に玄関の扉を開いて、勇輝は家を飛び出した。
その口にはしっかりと食パンがくわえられていた、喜代が焼いてくれたのだ。
「行ってらっしゃい」
玄関から門までを、脇目も振らずに走って行く勇輝に、のんびりと声をかけてきたのは、庭で趣味の盆栽に鋏を入れていた祖父、相良正三(さがらしょうぞう)だ。
「ひっへひまふー」
パンをくわえたままで、勇輝はもごもごと言う。
正三は、少し呆れた様な……
それでも優しげな笑顔で、それを見送っていた。
「よう」
門を飛び出した勇輝の横から声がかかった。
勇輝は足を止めて、そちらを振り返る。
そこに立っていたのは、長身の男子中学生だ。
勇輝よりも頭一つ分背が高く、ガタイの良いがっちりとした体型が特徴的な男子生徒、顔立ちは整っており、女子達が放っておかないタイプだろうが、彼と女子生徒の浮いた話というものを、勇輝はついぞ一度も聞いた事は無かった。
「ひゃあ、ひんや」
勇輝はまだ、トーストを口に詰め込んだまま、もごもごと言う。
「……あのなあ」
男子生徒が呆れた口調で言う。
「口の中のものをきちんと飲み込んでから喋れよ」
「んむ……」
その言葉に、勇輝はトーストをくわえたまま、それでも目元に笑みを浮かべる、トーストが無ければ、口元にも笑みが浮かんでいただろう、そこに浮かぶのは苦笑いだ。
「ひんはひへ、ひょうははひれられへはっは」
勇輝はもごもごと言う。
「何言ってるか解んねーよ」
その男子生徒が言う。
勇輝は何も言わず、もぐもぐとトーストを口に押し込んで咀嚼し、やがてゴクン、と飲み込んだ。
「ああ……」
勇輝はゆっくりと息を吐き、改めて男子生徒に向き直る。
「おはよう、伸也(しんや)」
勇輝は、その男子生徒を見て言う。
「……ああ、おはよう」
伸也、と呼ばれた男子生徒は、微かに笑ったままで言う。
「……お前、また寝坊したのかよ? 勇輝」
伸也がのんびりと言う。
「……そういう君こそ」
勇輝は、伸也を見て言う。
「こんな時間にまだここにいるって事は、寝坊でもしたんだろ?」
勇輝がふん、と鼻を鳴らして言う。
だが伸也は、ふっ、と微かに笑う。
「お前と一緒にするなよな、俺は学校へ行くために色々と支度をしていただけさ」
伸也は言いながら、きちんと整えられた髪をさっ、とかき上げた。
その言葉に、勇輝はバカにした様に笑う。
「それで?」
勇輝は問いかける。
「今日はどの女子に声をかける気なんだい?」
その言葉に、伸也は軽く笑う。
「今日は三年生の……」
だがそこまで言った後、勇輝は軽く笑った。
「それじゃあ今日は、君が一分で断られる方に賭けようかなー? 今日で八連勝目だなー」
ヘラヘラしながら言う勇輝を、伸也はじろりっ、と睨み付ける。
「賭けるって何だよ? 賭けるって?」
「知らないのかい?」
勇輝はにやついたままで言う。
「クラスの男子達と、君がナンパ相手に何分で振られるか賭けてるのさ、因みに僕はここ最近連勝中だよ? また記録を伸ばせるな」
クスクスと笑う勇輝を、伸也は歯ぎしりしながら睨んだ。
だがすぐに表情を整えて言う。
「ふんっ、言ってろよ、今日こそ俺の魅力に気づく女子が現れてだな……」
伸也が言う。
「はいはい、それじゃあ早く学校へ行こうぜ」
勇輝は、ニヤニヤしながら言い、ゆっくり歩き出した。
「おい、ちょっと待て!! ちゃんと聞けよ!!」
伸也の怒った声を聞きながら、勇輝は微かに笑っていた。
高坂伸也(こうさかしんや)。
それがこの男子生徒の名前だ。
勇輝とは、今通っている中学に入学して始めて出会った。
空手部主将を務めており、その実力は確かなもので、全国大会にも出場経験がある。
後輩達の面倒見も良く、部活では良き先輩としてそれなりに慕われているらしい。
人当たりが良く明るい性格で、誰とでもすぐに仲良くなれる、あまり人付き合いが得意では無い勇輝が、今の中学でみんなと打ち解けられたのは、彼の存在があったからだ。
自宅は、勇輝の家から少し離れた場所にあるマンション、学校に行くのには勇輝の家の前を通る、という事もあって、いつしか一緒に登校する様になり、休日も何となくつるんで一緒に遊ぶようになった、今では一緒にいないと、クラスメイトや教師達から『今日は一緒じゃ無いの?』と聞かれる『親友』と言っても良い間柄だ。
勇輝自身も、彼の明るさや人当たりの良さには救われた、自分もこんな人間になりたい、と、密かに思っている部分もある、もっとも、そんな事を直接言えば、こいつはすぐに調子に乗るから黙っているけれど。
そんな憧れでもある『親友』である伸也だが、ただ一つ、勇輝には理解出来ない趣味があった。
それが、所謂『ナンパ』であった。
毎日の様に、学校や、街の中で見かけた可愛らしい女の子に声をかけているらしい、残念ながら、どの女子とも『友達』以上の関係にはなっていない様子だけれど、彼はめげる事無く、色々な女子と遊び歩いているらしい。
その都度、彼がいつフラれるのか、という予想をたてるのが、勇輝と、そしてクラスメイト達の間では恒例行事になっている、勇輝は予想を外した事はほとんど無く、現在八連勝中だ、十連勝したら、褒美にクラスメイト達か、あるいは伸也自身に、何か奢って貰おうか、と、勇輝は本気で思っている。
女好きの軽薄な性格、それでも明るくて優しい人柄の『親友』。
それが、勇輝にとっての高坂伸也(こうさかしんや)、という人間だった。
「それで?」
物思いに耽る勇輝の耳に、伸也の声が届いた。
「ん?」
勇輝は伸也の顔を見る。
「お前は、何で今日寝坊したんだよ? またゲームでもしてたのか?」
伸也が問いかける。
「うん……」
勇輝は頷く。
「まあ、そんなところさ」
勇輝は言う。
嘘では無い、勇輝はこの伸也と一緒に遊んだり話したりするのと同じくらい、ゲームも大好きで、最新のゲームなどを買った時には授業も上の空でゲームの事ばかりを考えて、担任に怒られた事だって一度や二度じゃない。
そしてもちろん、ゲームを夜遅くまでプレイして寝坊したことだってある。
「ふーん……」
伸也は、じっと勇輝の顔を見る。
勇輝は、何も言わずに視線を逸らした。
しばしの沈黙。
「まあ、本当はどんなサイトを見ていたのかは聞かないでやるよ」
「どうも」
伸也の言っている事は、勇輝には理解出来なかったけれど、とりあえず勇輝は言う。
そう。
確かに、ゲームで寝坊をした事はある。
だけど……昨日は違う。
そして。
勇輝は、本当の事を伸也に言う事は出来なかった。
否。
伸也だけでは無い。
祖母である喜代。
祖父である正三。
誰にも、本当の事は言えない。
言う訳にはいかないのだ。
昨夜……
深夜に家を抜け出して、人を……
人を、殺しに行っていたなんて。
相良勇輝(さがらゆうき)。
中学三年生。
成績は、残念ながら決して良いとは言えない。
運動神経も、クラスの中ではかなり低い方だろう。
同年代の男子どころか、女子の誰と比べても背が低く、か細い身体付きに白い肌、実年齢よりも年下に見られる事もあるくらいだ。
これにくわえて、かつては他人に心を開けず、友達も多くは無かった。
伸也や、優しい祖父母のおかげで、最近はようやく明るくなる事が出来た、だからこそ、伸也や祖父母には、幾ら感謝してもし足りない、そもそも祖父母がいなければ、自分はきっと、行く当ても無いまま何処かで餓死していただろう。
勇輝は、目を閉じる。
ぼんやりと、瞼の裏に浮かんで来る風景……
勇輝が、一人ぼっちになった時の事。
そして。
人を、殺した時の事。
相良勇輝には、両親がいない。
否。
無論、かつてはいた、優しい母と、厳しいながらも、強く、そはして大きな存在であった父。勇輝は二人の事を、今だって忘れた事が無い。
だけど……両親はもういない。
いなくなって、しまった。
殺されたのだ。
その時の事を、勇輝ははっきりと覚えている。
ジャーナリストであった父は、とある政治家の汚職事件を追っていた、警察も、マスコミも、弁護士でさえもその政治家の持つ『権力(ちから)』を恐れ、何もしなかったのに、父だけは、懸命にその政治家を追い続けていたのだ。
そしてどうやら、父はその政治家の汚職の証拠を掴める一歩手前まで迫ったらしい。
だが……その直後に父は殺された。
殺したのは……その政治家が雇った『殺し屋』であった。
もともと身体の弱かった母は、父が亡くなったショックで体調を崩し、そのまま帰らぬ人になってしまった。
そうして、勇輝は一人ぼっちになった。
その時の勇輝の心の中にあったのは……
怒り。
憎しみ。
そして……
圧倒的なまでの『殺意』。
許さない。
殺してやる。
必ず、貴様らを……
殺してやる!!
そうして勇輝は、街を彷徨った、父を殺した『殺し屋』、そいつを雇った政治家。
そいつらが何処にいるのか、どうすれば会えるのか、それを知る為に。
だけど……まだ十代の半ばの勇輝に、そんな情報を掴めるはずが無かった、結局、勇輝は絶望感に嘖まれ、何処かの路地裏で倒れてしまった。
そんな時……勇輝の前に、一人の『殺し屋』が現れた。
この機を逃せば、もう復讐の機会は無い。
勇輝はその『殺し屋』に、懸命に頼み込んだ、自分を……
自分を、『殺し屋』にしてくれ、と。
それから一年後。
勇輝は、復讐を遂げた。
そして……
その時、勇輝の頭に浮かんだのは……
『これで終わりでは無い』。
その感情だった。
そうだ。
この世の中には、まだ……
まだ、父を殺した『殺し屋』の様に、金の為に弱い人間を平然と殺す『殺し屋』がいる。
そして。
自分の犯した悪事を暴かれる事を恐れ、『殺し屋』を雇って人を殺させる者がいる。
そればかりじゃ無い。
自分の欲望のために、平然と人を死に追いやる者。
そいつらに雇われ、人を傷つけ、殺める者。
そして……
かつての勇輝の様に、そうした者達によって『大切なもの』を傷つけられ、奪われ、殺されてしまった人々。
そうだ。
殺す。
自分が……
全ての……
全ての『悪』を。
殺す!!
そうして。
あどけない微笑みを浮かべながら、他人を苦しめる『悪』を苦しめ、追い詰め、絶望を味わわせながら殺害する『殺し屋』。
その武器は、殺された者達の遺体の状況から、恐らくは日本刀であると言われている。
殺しの『仕事』は完璧で、決して痕跡は残さない。
そして。
私利私欲の為の殺しは一切しない。
依頼人からの『依頼』が正当なものであった場合にのみ引き受け、『悪』を殺害する。
ジャスティスは、誕生した。
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