第5話

 ぼと、と。

 弧を描きながら落ちていた白い手首が……

 床の上に……

 組長の男の、すぐ目の前に落ちる。

 そして……

 じわり……

 じわり……

 と。

 床の上に、赤い円が広がっていく。

「……」

 組長の男は、それを……

 それを、黙って……

 黙って、見ていた。


 沈黙だけが、室内に訪れる。

 だが……

「……っ」

 それが……

 今、組長の男のすぐ目の前に落ちている『それ』が。

 一体、誰の『もの』であるのか。

 その事を、理解した瞬間。

「……あ……」

 男の口から、微かな呻き声が漏れる。

 そう。

 それは……

 それは……

「……俺、の……」

 組長の男が呟く。

 がた、がた、がた、と。

 身体が震え始める。

 全身が、まるで冷凍庫の中にでも放り込まれたように急に寒くなる。

「あ……ああ……」

 組長の男は、微かに呻いた。

「あああああ……あああああ……」

 その声は、徐々に大きく、そして、はっきりとした声になっていく。

 そして。

「うあああああああああああああぁあーっ!!」

 組長の男は、大きく口を開け。

 その場で、叫んでいた。


「五月蠅いです」

 ぐっ、と。

 革靴の爪先が、目の前にある組長の手首を踏みつける。

「っ!!」

 その声に、組長の男は口を噤んだ、頭は混乱しているし、身体中が寒い、それでも声を止めたのは、恐怖からだ。

 この声の主。

 つまりは今、目の前にいるあの少年。

 彼に逆らってはならない。

 それを、組長の男ははっきりと感じ取っていた。

「たかが手首の一つで大袈裟に騒がないで下さい、貴方が部下に命令して殺させた人達は、みんなもっと酷い目に遭ったんですから」

 少年が言う。

「っ」

 その言葉に、男は息を呑む。

「……例えばそう、貴方が先日、息のかかったお店で開いた『パーティー』」

「……」

 男は何も言わない。

「貴方の部下の人から、『栄養剤』だとか言われて買わされたお薬、そのお薬の代金が欲しくて、その『パーティー』でダンスを披露しろと言われて言ってみれば、そこで待っていたのは……」

 少年が言う。

 男は、まだ黙ったままだ。

「ああ、因みに、彼女とその『パーティー』の席で、『愉しんだ』方々は、既に誰もこの世にいません」

 少年が、楽しそうに笑って言う。

「……」

 組長の男は、まだ黙っていた。

 少年の顔を、もう一度見る。

 にこやかな笑み。

 手にした長い日本刀。

 そして……

 躊躇い無く人を殺せる残忍さ。

 そして何よりも……

 こんな小柄で弱々しい外見なのにも関わらず、あっという間にビルの中にいた組員全員を殺した実力。

 まさか……

 酷い怪我をしているはずなのに、組長の男の頭は、驚くほどに冷静に状況を判断し、この少年の正体について分析を始めていた。

「残るは、彼女が買ったお薬を、街にまき散らして利益を得、薬でボロボロになった人達を、同じ様な『パーティー』に参加させている人達、つまりは……」

 少年は、にっこりと笑って組長の男を見る。

「貴方方、という事です」

 少年は言う。


「お お前……」

 その言葉を聞きながら、組長の男は少年に向かって言う。

 思い出した。

 

 ここ最近、自分達の様な『裏』の世界で噂になっている『殺し屋』。

 その『殺し屋』は、私利私欲の為の『依頼』は一切引き受けない。

 そいつが受ける『依頼』は、ただ一つ。

 警察でも法律でも裁く事が出来ない巨大な『悪』。

 それによって、様々な『もの』を奪われた人々からの『依頼』のみを引き受け、それが本当に正当なものであった場合にのみ、『依頼者』に代わって『悪』を裁く。

 その『殺し屋』の名前は……


「お前……」

 組長の男は、ぎりり、と歯ぎしりする。

「お前、『ジャスティス』か!?」

 組長の男が、叫ぶ様に問いかける。

 少年はその言葉に、何も言わない。

 だけど……

 少年は笑顔のままで、日本刀をゆっくりと振り上げた。

「……ま 待て、待ってくれ……」

 組長の男が言う。

「た 頼む、待ってくれ、み 見逃してくれよ……か 金……金をやるから!!」

 組長の男は、叫ぶように言う。だけど……

 少年の顔に浮かんだ笑みは、消え無い。

「僕の名前を知っているなら……」

 少年。

 否。

 『殺し屋』ジャスティス が、笑顔と共に言う。

「そんな言葉に何の意味も無い事も、ご存じでしょう?」

 ジャスティスは、にこにこしながら言う。

「貴方が『薬漬け』にして挙げ句に、『パーティー』で部下達に慰みものにさせた挙げ句に殺した彼女の恋人は、僕に言いましたよ」

 ジャスティスは、まだ笑顔のままで言う。

「彼女を狂わせた者達に、目一杯の恐怖と絶望を与え、そして……」

「……」

 組長の男は、何も言わない。

 逃げないと、本能がそう叫んでいた。だけど……

 だけど、足が動かない。

 何処に行っても、逃げられない。

 逃げたい、と本能が叫んでいるのに、頭がそう判断して、両足を動かなくさせてしまったみたいだ。

「殺して下さい、ってね」

 そして。

 ジャスティスは、一際楽しそうな笑顔を浮かべた。

「それじゃあ」

 ぶんっ、と。

 銀色の光の煌めきと共に、刀が振り下ろされる。

 その光と。

 まだ十代半ばの少年の、あどけない笑顔。

 それが……

 組長の男の目に映った、最期の光景だった。

「さようなら」


 ジャスティス。

 『正義』という意味の名を持つ殺し屋がいた。

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