第10話

祖母は御年八十七歳を数える。しかしその年齢の人間にしては覇気のある高い声で受話器を取り、「最近どうや」だとか「元気か」だとか取り留めのないがお決まりとも思える世間話を始めた。一年も間隔が空くと、関西弁がよく耳に染みる。   

何度か会話のボールを投げあったところで僕が本題にはいった。

「ところでなんやけど、ちーにいちゃん元気?」

すると祖母は急に雰囲気を変えた。声のトーンも心なしか落ち、年齢通りの緊張感をおぼえた。

そしてゆっくりと

「死んだ」と。

いうのだ。

関西人特有の冗談だと思う余裕はなかった。

これまで一度も聞いたことのない祖母のその言い放つように紡いだ言葉と、電話越しにも伝わってくる感情に気落とされそうだった。

僕が反応できずに黙っていると祖母の口から

「死んだってゆうんは冗談やけど、」と聞こえ

たので、少しはにかんで「なんやばあちゃん、そんなけったいな冗談言わんといてや」と言おうとした、でも、

「ほんまは寄にとっての叔父さん、私にとっての息子は五年前によそへ行ってしもた。巧樹と仲直りしたらええと思って『謝ったらどうや』ゆうてみたらな、『お袋も兄貴の肩持つんかい。まあ、そりゃそうやわな、東京いって仰山稼いで頼れるしな』なんていいだして、気ついたらもうここら辺にはおらんかった。町内会の人らにも聞いたんやけど、だーれもなんにもしらんのんよ」

日頃はこうも長々と話すことがないからか、早口にならず己の間隔で滔々と語った。

「待って待って、新しい情報出すぎてわからへんわ。父ちゃんと叔父さんは喧嘩しとったんけ」 

僕は気が動転しているのを感じた。この感覚は他人が怒られているのを隣で見せられ、不浄な血液が渦を巻きながら脳天まで巡っているのとよく似ている。

何一つ知らない僕に対し、少し驚いた様子の祖母は「寄はまだ小さかったさかい、知らんくてもおかしないな」と言って、この七年間僕らの家が里帰りしない理由を話してくれた。

 七年前の最後の里帰りの折、酒の席で父と叔父さんが口論になったこと。口論の内容は祖母もしっかりと覚えているわけではないものの、つまらないことだったらしいが、それがヒートアップしてしまった。酒に含まれるアルコールのせいかもしれない。兄弟の間に生まれた火種は会っていない時間や大人になったからこそ言わないでいた不満を薪としてよく燃えた。キャンプファイヤーなんていいものじゃない。おそらく二人を分かつほどおおきな炎の影の形は契約完了を告げる悪魔にも見えただろう。僕は理由もなく怖くなった。

「千景もこのあたりに住んどった時はこの辺りでは一番ええとこのに通いおってやけど、祐樹についていくために学校も退学したらしい」

と、話を戻し自分の子供の我儘を止められなかったことよりもそれに孫を巻き込んでしまったということに責任を感じているように語った。

「せやから、祐樹は、私の息子は、死んでしもうた。もう戻ってはこうへん。ばあちゃんが余計なことゆうて、そんでもって止められへんかったから千景まで巻き込んでしまった」という祖母に

「ばあちゃんは悪くないで。叔父さんと親父に仲良くしてほしいっていうんは、母親やからこそやし、ちーにいかてなにか考えがあって叔父さんについていったと思うから。」

だから。

「だから、自分そんな責めんといて。いつか叔父さんとちーにい探し出してつれてくるさかい、それまで元気でいきといてな、情報ありがとう、ほなまた電話するわ」

と言って半ば強引に電話を切った。まだ聞き足りない話はたくさんあった。それでもここから逃げ出すことでしか自分を守れそうになかった。

いや、守り切れてもいない。もうとっくに致命傷だった。

僕はまだ子供だった。

多分僕みたいなまだ十年に毛の生えたくらいしか生きていない若造にわかったような口を利かれたくなかったはずだ。これまで捕手としての活躍からか、僕は同級生や先生、ご近所さんなどに「大人だね」と言われることが多い。

それで純粋に驕っていた。そんな美辞麗句は行間に(その年齢にしては)と書かれているはずなのに。そんなこと簡単に理解できるはずなのに。理解できる年齢なのに。

ただ相対的に他人より人を理解できているだけで、絶対的に間違えを起こさない訳ではない。分かっているように見せる演技が上手いだけなのに。

実際は人のことを忘れ、人の抱えている問題も知らないままでいる鈍感で魯鈍な人間なのに。

次に来るであろう祖母の自分の言葉に対する返答から逃げた。こんなことは宿題が終わっていないから仮病を使って学校を休む小学生と一緒だ。

模試の結果を見るのを先延ばしにしたくて答え合わせをしない中学生と一緒だ。

恰好悪い。

祖母が目の当たりにし、直面し、心を賽の目状に切り刻まれ後悔している中で、子供だからという理由だけで理解から離れていた罰が下った。

認識が甘かった。家族間の歪みに防具もつけずに触れてしまった。今思えば父の故郷を遠ざける様子は露骨だった。月一でかけていた祖母への定期連絡でさえ辞め、僕ら兄弟の里帰りの要望も「考えて置く」の手札一枚で対応していた。まったくもって想像力が足りなかった。この前の食事のときだって、僕が提示した叔父さんとの話で明らかに表情に陰りが、曇りが、雷雨が、見えていたのに。

祖母の気遣いで言ってくれた僕が知らなかったことに対するフォローも感情を排して僕にできた綻びを必要に責めた。

一つの物事が独立して成立しているほうが珍しい。

この世界は人と人とが、物事と物事とが、重なり合ってできている。

ただ昔懐かしい従兄の消息だけを知ろうだなんて虫が良すぎた。

 今日という日で僕は叔父さん一家が消息不明であるという小さな成果と、家族の軋轢と己の愚かさという大きな痛みを得た。

 自分の不十分さはこれまでの自分を壊すには十分だった。

だって僕にはその原因に心当たりがあったから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る