第9話

佐倉千景さくらちかげはとらえどころのない人だった。僕の覚えている限り、十歳から十八歳までの彼はあまり、いやあまりにも変化のないように見えた、博識で何もかも達観したようなあの冷静さ。

そんな彼を僕は生まれて最初に見たものを親と思うアヒルのように慕っていた。

実際、里帰り出産で生まれた僕は二歳になるまで父方の生まれ故郷である兵庫県の祖母宅で過ごしその過程で彼に抱かれたり、オシメを変えてもらったり、ミルクを飲ませてもらったりと世話をしてもらったところが大きい。

今、思考の中であったとしても、佐倉千景とフルネームや彼と称してしまうのは、あまりによそよそし過ぎる。

物心ついた時には親しみを込めて「ちーにいちゃん」と呼んでいた。昔のテレビドラマで有名な俳優が演じていたキャラクターの愛称と全くの一緒であった事に本人はかなり不満があったというか、恐れ多いようで「一緒にしてくれるな」と再三語っていた。

「ちなみにゆうておくと、モノマネ芸人がやるあの人のモノマネは、『チイ兄ちゃん』本人がチイ兄ちゃんをよんどるから、まちがいやで」と豆知識を足すところまでがセットだった。

記憶をちょっとでも掘り返すとそれが源泉となるように思い出があふれてくるのに、完全に「いとこ」という一言がなければ思い出せなかったように思う。

僕は薄情な人間なのだろうか。

その時々にしっかりと関係性を維持していなければ古いパソコンのように昔のものから順に一つずつ消してしまうのだろうか。

でもそれはきっと違う。

僕は記憶力のいいほうだと自負がある。自分で言うのには抵抗があるものの、古文や日本史、漢文などの記憶を主とする科目は軒並み得意であるし、(当たり前のように数学のように頭を使う科目は苦手だ、きっと頭はほかのことを考えることに忙しいのだ)雑学というか雑談でしか使えないような知識は無意識に覚えている。

そうやって言い訳をいくら積み上げたところで、こんな風に考えていたところで、忘れていた事実には変わりない。とはいえ、この原因の全てが僕のせいだというにはまだ自己弁護が足りない。この原因の一翼をちーにいちゃん本人が担っている部分もあるのだ。今頃はおおよそ大学を卒業してどこかで働いているはずなのに、大学を卒業したことも、就職が決まったことも、何の音沙汰もないのだから。アヒルのように慕った僕だが、ライオンのように崖から落とされるのは納得がいかない。

 最後に僕がちーにいちゃんに会ったのは、七年前、兄ちゃんが大学に入る直前だった。それまでは一年おきに兵庫の田舎に帰り、親戚ともども祖母の家に集まることが多かったが、この時以降めっきりそんな機会も無くなってしまった。理由はよく知らない。

 最後の思い出としての残っているのは

「寝て見た夢は人にゆわんほうがええって聞いたことあるやろ?俺それなんかあんま納得できへんねん。言霊があるさかい口に出してゆうてたほうがええと思うんよ。ほんでも一番の理由は将来の夢の方も前々からゆうてたほうが成功したときにぎょうさん自慢しやすいやろ」

と言って笑っていたのが印象的だ。

こんな話をしていたからそれに関係のある方向の心理学や脳科学など(夢などに関係する分野がこれら」かどうかはわからないけれど)に進むかと思っていたが、どの学部に在籍するなんてことは小学生の僕の興味の外だった。

 恒例となっていた里帰りも原因不明にぱたりと無くなったものの時々祖母に連絡を取っていたし、叔母はうちの母宛てに手紙を添えて高級菓子を何度か送ってくれ(そのほとんどを姉と僕とで平らげ)、それのお返しに母が同じように老舗の外郎を手配したりと義姉妹はうまくやっていた。

 きっと里帰りを急にしなくなったこととには理由があるだろうし、ちーにいちゃんの消息もしっていそうな祖母にこの際だからと久しぶりに(正確に言うと高校入学以来)軽い気持ちで電話することにした。

その行為の影響を事前に知ることはできないから。


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