第3話

雨粒とともに気分を落としてくる梅雨が始まった今日この頃、僕は病院に来ていた。考えてみると僕は人生で初めて病院に来たかもしれない。

僕の記憶が正しければ、僕は自宅出産で生まれたらしいので、(これは母から聞いた話であり、母の記憶が正しければ、とも言えるが、流石に腹を痛めて生んだ我が子を生んだ場所を忘れることはあるまい)それ以降の自分の歴史を遡っても病院に行ったおぼえがない。

とはいえ、感動はあまりない。いくら健康であろうとも病院の雰囲気なんてものは母の好みの俳優が出ていた医療ドラマで把握できるものだ。

でも、齢十七まで病院に一度も行ったことのない経験を持っている特殊性はなかなか無意識で得られるものではないし、もしかしたら僕は大雑把にその所有権を放棄してしまったのかもしれない。そこはかとなく勿体なさがあった。

「ちょっといいかしら」

「なんだい、姉貴」

「八つ年が離れているとはいえ、まひるの見かけとよるの見かけだと『姉貴』と呼ばれているとどこかの組の姉御と舎弟感がでちゃうからやめてよ」

現在二十五歳であるにもかかわらず、いまだに一人称が自身の下の名前である少し恥ずかしい女性、それが僕の姉まひるである。本人の言動からすると姉と僕はよっぽど人相が悪いか所謂ギャルみたいな恰好をしているように聞こえるが、いたって普通のユニクロで買った服しかもっていない人畜無害な小市民だ。それに今のご時世、どこかの組の所属の人だってそれらしい格好の時の方が少なそうなものだ。

「とはいえ姉御、今更呼び方をかえろっていうのも酷じゃありぁせんか」

「完全に悪化してるじゃない、呼び方。相も変わらず悪ふざけの時ばっかり元気がいいんだから」

すこしため息をつく姉。疲れているのだろうか。もう一つの命にくっつかれているのだから無理はないのかもしれない。

「いい?まあ、姉貴って呼ばれるのはずっと前からだしいいけれど、私たち、兄弟も離れて暮らしだしたのだし、関係性を変化させる過渡期に入っていると思うのよ」

急に熱の入ったように語る姉は少しずつ声の大きくなる特性がある。

「その一環としてまずは呼び方を変えてみるのがいいと思うのよ。ねえさ・・・・・・

「病院内ではお静かに」

「すみません・・・・・・」

借りてきた猫のように静かになった姿はこれまでもよく見た光景であれど変わらぬクオリティで面白かった。

笑った僕をにらんで声の大きさを調整しながら

「姉さんぐらいにしてみない?」

と提案するのだった。

「姉さんと姉貴では確かに他の人の立場から聞くと、姉さんのほうが丁寧で関係性が良好そうで適度な距離感を感じられるけれど、実際と比べると姉貴と呼ぶ距離感のほうが現実に即しているでしょ」

「だから、そこも含めてよ。私だってもう嫁入りしたのよ。人妻よ、人妻」

自分で言った「人妻」というワードにウフフ少し呆ける姉だったが、そういわれるとこちらにも言い分がある。

「そんなことを言い出すなら俺だって言わせてもらうけど、兄弟の距離感を見つめなおしたいなら、平日の学校の終わった頃に呼び出して、夫の愚痴をぶつけるのはやめてくれよ。はじめはしっかりとしたエピソードがあるのに、三個目四個目くらいから、作るのに失敗した綿菓子みたいに形のない漠然としたことが続き、最終的には甘い甘いのろけに着地するんだ。結局綿菓子を作るのをあきらめてザラメ渡してきちゃってるじゃん。近所の奥さんの一人や二人、友達作ってくれよ」

「ギャフン」

この擬音を口に出した人類を初めて観測したが、かなり図星のようだった。

ここでもう一押しだ。

「それに今日だって予定があったのに、それを無理言って、無茶を通してここにいるだから」

「いや、それは頼んでないわよ。わたしは一人で行けるって言ったのを昇吾が心配だからって、あなたを派遣したんじゃない」

かなり食い気味にカウンターを決められてしまった。墓穴を掘った形だ。

このまま黙っていてはまずい。

「それにしても、普段は頼みごとをしても腰の重い寄が来るなんて、ママが来るならまだしも、どういう風の吹きまわしかしら」

会話と言う名の戦いの状況が悪すぎて、二十五歳のママ発言に揚げ足すら取れない。

そう、今回僕がいつもよりフットワークを軽くして姉の付き添いに来たのには訳がある。それは義兄、昇吾さんからの御礼。

校則でアルバイトのできない僕にとっては願ってもない貴重な収入源。

この事実だけは姉にばれてはいけない。しかし、目の前に対峙するのは幼き頃より僕の嘘八百の内五百は軽く看破してきた女である。

「それは姉貴が母さんには『自立するから連絡は最小限にするわ』って言ったからといって、最小限の範囲を超える懐妊という重大事実と、かなり膨らんだお腹を昨日の昨日まで隠してたから母さんも心配に思ってるだろうから建て替えの利く用事の俺が代わりに来たんじゃないか」

「いいや、ママはああ見えて放任主義だし、あたしを信頼してくれているわ。ただ寄が来ることで寄自身に有益なことがあるだけでしょ」

「ギクッ」

「真実はそうね、きっと昇吾からお小遣いの一つや二つちらつかされたんでしょうねっ!」

完全に正解を言い当て、いい気になり語尾を強めた姉を、

「浅飛まひるさ~んっ!!」

と呼ぶ声が。

自分が再度犯したミスに気づき、恐る恐る「は、は~い・・・・・・」と返事をしたことにたいして

「こちらへどうぞ」と、にこやかに診察室に通す看護師さん。

今回の戦いは押されたものの、ドローらしい。



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