第6話 退職届
斉木が株式会社TOWA埼玉工場に着いたのは始業時間の一時間前だった。意外にも道路の交通量が少なかったためだ。
自分のアパートに寄ってもやることもないし、会社で退職届でも書こうと考えた。
社用車のライトバンを駐車場に止め、ボストンバッグを肩にかけ、ビジネスバッグを片手に持ち斉木は工場に入っていった。
工場は二十四時間稼働しているが、昼間と違い人は少ない。
誰もいないであろう製造部の扉を開き製造管理課の自分の席に向かうと、その横の席に美枝子が座っていた。
眼鏡をかけ、髪は後ろにまとめてある。唇も赤くない。服装も事務服だ。
仕事バージョンの鈴木美和子で斉木はホッとした。
「鈴木さん。おはよう。早いな、昨夜は無事帰れたか」
「おっ、おはようございます。斉木課長。昨日は、その、すいませんでした」
「お父さんお母さんに怒られなかったか」
「子供じゃありません!・・・怒られましたけど、あっ昨日のタクシーの代金お返しします。それとクロスロードの代金も」
「いや、それは大丈夫だよ、俺を心配してくれたお礼だよ。お釣りもいらない。次にルージュを買うときの足しにしてくれ」
「・・・はい。すいません」
斉木は席に着くとビジネスバッグから途中のコンビニで購入した便箋と封筒を取り出す。
隣から見られているのが気になるが無視して便箋を一枚はがし机に置いた。
「なにやってるんですか」
美枝子の声を無視した。これから斉木がやることに異を唱えようとしていると感じたからだ。
万年筆を取り出し、キャップを外した。退職願、退職届どちらだと少し悩むがこちらから願ってる訳じゃないから退職届かと考え万年筆を構えた。
「なにやってるんですかって聞いているんですよっ!」
美枝子は大きな声を上げた。
斉木は驚きとっさに周りに人がいないか見渡した後、美枝子に目を向けるとぼろぼろと涙を流している。
「いや、ごめん無視していたわけじゃなくて、その退職届を書くのにさ、その集中していて、なっ悪かった」
「ちがっちがう。ごめんなさい。今日はジロ、斉木課長に昨夜のことを謝りたくて、落ち着かなくて、いつもより早くに会社に来ちゃって、斉木課長も早いからびっくりして、私はちょっと動揺してて」
「大丈夫だよ」
「私は動揺してるのに斉木課長は落ち着いているし、あっさり辞めようとしているし、それ、退職届を書こうとしているし、なんか悔しくて」
「そうか、うん、落ち着こう。お茶でも飲もう。打合せ室にでも行こうか」
斉木は涙が止まらない美枝子を別室に誘った。
退職届を書く道具を手に席を立った。
美枝子の目の前には使い捨てカップのミルクティーがあり、それをゆっくり飲みようやく落ち着いた。その向かいには斉木が座っていてコーヒーを飲みながら退職届を書いている。何枚か書き損じ、便箋の数枚は丸められている。
美枝子は泣き出した自分に困惑した。
斉木があっさりと辞める決断をしたから?斉木が美枝子と呼ばず鈴木さんと呼ぶから?
昨夜の赤いワンピースの自分に引っ張られている。
斉木はようやく納得のいくものが出来たらしく、バッグから印鑑を出し、退職届に押印し、三つ折りにした。
封筒にやや大きめに退職届と書き、便箋を入れ封をした。
間もなく始業時間になる。
斉木は立ち上がり、打合せ室にある内線電話を使い部署に連絡を入れて指示を出した。
「他に問題は?工場長からの仕事の指示があった?・・・ああ、その通りに進めてくれ。それと今、鈴木さんと打ち合わせをしているから、そう、じゃあ頼んだ」
斉木は受話器を置くと退職届を手に美枝子を見た。
「鈴木さんはもう少しここでゆっくりしていてくれ。俺は工場長と話がある」
「私も行きます」
「は?」
「私も行きます。私も関係あります」
美枝子の目にはまた涙がにじんでいた。
それを見た斉木は「分かった」と言った。
工場長室の前まで行くと怒鳴り声が聞こえた。
「浅野お前ふざけてるのか、もう一度言ってみろ。・・・・だから言えって言ってんだろ!言えよ、もう一回聞きたいんだよ。・・・すいませんじゃねえ!大体昔から気に入らなかったんだよてめーがよ。とりあえず今からこっちにこい。・・・今からって言ってんだろうが。」
斉木はノックをせずに扉を開いた。
工場長はすごい剣幕で受話器にまくし立てている。
「何でってお前をぶっ飛ばすからな。・・忙しいって?ふざけんじゃねえ。ああ分かった俺が今からそっちに行けばいいんだな、おう今から行くから待ってろよ逃げんじゃねえぞ」
浅野に怒鳴りつけている。斉木の事を思ってだ。
工場長が入ってきた二人の姿を見た。そして少し落ち着いたようだ。
「浅野、俺の言いたいことは分かったか、今日は行かねえけどよ・・・うちの工場に来るときは気を付けろよ、ちょっと待て」
そう言い受話器を手で押さえ。
「おはよう、斉木君。美枝子ちゃんもおはよう」
二人は「何やってるんですか」と、声がそろった。
「いや、社長も常務もつかまらなくてな、つかまったのは浅野君だけだ。ちょっと待ってて」
と、工場長は再び電話に戻った。
「斉木の件でのお前の意見は分かった。俺が言いたいことは分ったな。・・・ところでだ昨日の夕方の営業からの依頼はなんだ」
「アセンブリ品を500、三日で用意しろと来ているんだ。・・・知らないわけないだろ!お前のハンコが押されてこっちに回ってきているんだ。出来ると思うか。・・・言い訳を聞いているんじゃない、出来ると思うのかって聞いているんだ。・・・だよな、出来ないよな。何故そんな案件が回ってくるんだ?」
「知らないじゃない。下の人間のせいにするな。何の為のハンコだ。何のための上司だ。部下にハンコを預けることもあるだろう。だけどそれはお前が責任を持ってやることだ。責任を持てないならお前はいらないよな。・・・いらないよな。私はいらない人間ですって言ってみろ。ほら、言えって」
「それでな、先方に確認したら発注をかけたのは先週って言っていたぞ」
「で、お前が出来ませんって言ったこの件はどうするんだ」
「俺に謝って済む話か馬鹿野郎・・どうしたらいいか分からない?・・教えて欲しいのか?・・・・今から先方に行って謝罪してこい・・・・ああっ?当たり前だろ!今すぐ行け。今だよ今。土下座してこい。そして最終納期を確認してこい・・・馬鹿、お前が行くんだ。今行くんだ」
「今から行けば午前中に済むな。結果を十二時までに俺に報告しろ。その結果で工場の動きを決める。いいか、客先で人のせいにするなよ、絶対だ。確認するからな」
「・・・ああそうだ、今すぐ行け。報告は忘れるなよ。俺に報告しなかったり、また変な言い訳をしたら俺がどうするか想像しろ。・・・ああ報告を待っている」
工場長は受話器を置き、二人に向き直り「うるさくしてごめんね。まあ座ろうか」と言った。
工場長室のソファーセットに三人は腰を下ろした。
「工場長、申し訳ありません。いまのは昨日、私が持ってきたの発注書の件ですよね。私、気が動転して、会社を飛び出して、なんてことを」
美枝子はまた涙を流し頭を下げた。
「ごめんね、怒鳴り声を聞かせちゃって。美枝子ちゃんは何も悪くないよ。こんな事はいいんだ。最終納期は確認してあるよ。今回は外注に出さなくても大丈夫。工場にはもう回したから安心して」
「昨日、斉木課長に工場長の事を聞きました。すごく仕事が出来る人だって。だけど私はずっと、斉木課長に全部やらせて自分では何もしてない人って思い込んでいたんです、ごめんなさい」
「ハハハっ、ほんとの事だろう、仕事は全部、斉木君に任しているからなあ」
「いえ、今なら分かります。本当にすいませんでした」
美枝子は再度、今度は深々と頭を下げた。
「斉木君、まだ社長、常務には連絡つかないんだが大丈夫。謝罪もちゃんとさせるからな」
工場長は斉木に話を向けた。
「いや、謝罪では済まさない。代替わりして一年様子を見てたけど、あの若造まだ社長の器じゃない。とことん追求してやる。先代にも話をするか、とにかく斉木君は安心して仕事をしてくれていいから」
「工場長。あまり無茶しないでください。奥さんと子供のことを考えてください」
と、斉木ジローは言った。
そして書きたての退職願を工場長のデスクに置いた。
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