第5話 ハードボイルド・エッグ



 AM4:30


 セットしていたアラームが鳴り斉木は目を覚ました。

 カーテンを開けると空は明るくなり始めている。

 ホテル備え付けのナイトウェアを脱ぎ、ボストンバッグからトレーニングウエアとランニングシューズを出し、身に着ける。

 洗面台で軽く顔を洗い、コップで水を一杯飲む。

 昨夜はいつもより飲んだが、すっかりアルコールは抜けている。

 ホテルを出て、すでに明るい早朝の渋谷の朝。昨夜の人通りの多さが噓のような街を走っていた。

 時折りシャドーボクシングも取り入れながら軽快に走る。


 日課となっているランニングは一年ほど前から始めた。

 初めて【ホテルブラックナイト】に泊まってから・・・、


 斉木は一年前を思い出す。




 当時、斉木ジローは何も考えずに生活をしていた。だらだらと生きていたと言ってもいい。

 怠けているわけではないが、惰性で生活をしていた。

 そんな中、本社の会議に出席していた。

 その日の会議は毎度のことだが浅野が騒いでいた。

 アメリカの自動車メーカーとの価格交渉がうまく行かなかった。それは技術担当として出張に同行した斉木に問題があった、と。


 浅野は自分では英語はペラペラだと言っているが実際は全く実用にならない。

先日アメリカでの商談において技術的な説明が必要だとし、斉木を引っ張り出した。

 二泊三日の海外出張だ。

 実際には技術的な説明が必要な商談ではなかった。

 斉木はただ浅野の通訳をし、出張を終えた。


「斉木君、どうなんだ」

 常務が説明を求めてきた。


「斉木君は先ほどから何度も説明しているでしょう。提出した資料もあるじゃないですか。常務、これがすべてだ」

斉木が口を開く前に、専務の松本が口をはさんだ。常務は社長と浅野の顔を交互に見て助けを求める。


 数か月前に社長が代替わりしてから会社は面倒になった。

 社長は情熱的な人間で素直な性格をしているのだが、データを読もうとしない、あるいは読めない。熱く大きく声を上げる者を好み信じる。

 声を大にし、アピールをする浅野は社長に気に入られている。淡々と仕事の内容を語る斉木のこ事は好みではないようだ。

 そのころ斉木が部長から課長に降格させられているし、浅野は部長に昇進している。

常務は社長に追随しているだけ。

 まともなのは専務の松本だけだ。


 会議が終わったのは19:00を回っていた。

斉木が松本の方へ顔を向けると眉間にしわを寄せ疲れた表情をしている。ふと目が合うと、互いに苦笑いを交わした。


 斉木は工場へ直帰すると連絡を入れて、電車に乗り込んだ。

 そして、いつもは立ち寄らない渋谷駅で下車した。

何か衝動的に。会議での精神的な疲れもあり、決まりきった毎日のリセットをしたかったのかもしれない。新しい刺激が欲しかった。


 斉木はスクランブル交差点を渡り、道玄坂を進む。人が多い。

 人の波で、それだけで酔いそうだ。頭の中がフワフワする。

 飲食店やパチンコ屋、大型量販店。様々な建物が雑多に立ち並ぶ。

 雑踏の中を斉木が入れそうな店を探しながら歩いていく。


 ふと目立たない小さな看板が目に入った。

【BARクロスロード】

 直感でここだ。と感じた。


 斉木は吸い込まれるように地下への階段を下りて行った。

これが【BARクロスロード】とマスターとの出会いだった。

そしてこの上に【ホテルブラックナイト】を知ったのだ。


 斉木の中で忘れかけていた何かがよみがえる気がした。


 それから朝のランニングを始めた。

身に付いた贅肉を落とすために。戦える体を手に入れるために。

心の中の何かを取り戻すために。

 

 AM5:30

 

 ホテルの部屋に戻り、トレーニングウエアを脱ぎシャワーを浴びて汗を流す。

 

 自前のメルクールの両刃のカミソリ、シェービングカップ、ブラシ。

備え付けの石鹸をお湯に浸したシェービングブラシで泡立てる。

泡立ったところでカップに移しブラシの先の泡がふわっとしたクリームのようになるまで時間をかけた。

斉木の毎朝の儀式のようなものだ。

 泡立てたクリームを顔に塗り付けた後、両刃の剃刀を頬に沿わせて行く。

 丁寧にひげをそっていく。

 それが終わるともう一度顔を洗い、鏡にうつる自分を見つめる。

 一年前と比べればかなり引き締まったとは思う。

「これから新しい事が始まる。いや、忘れていたものを取り返す」

 斉木は鏡に向けて拳を突き出した。

 

AM6:30

 

 身支度を整えた斉木はボストンバッグを手に、エレベーターでフロントのある1Fへと降りた。

 フロントの脇に喫茶店と言った方がしっくりくる小さなレストランがあり斉木はそこへ足を運んだ。


 ウエイトレスに勧められた席に腰を下ろした。

 間もなくモーニングのセットが出される。

 コーヒーにトースト。ソーセージに堅ゆで卵。

 トーストとバター、コーヒーはお替り自由だ。


 斉木はトーストは二枚貰い、たっぷりとバターを塗り付けかじりつく。

 ソーセージもトーストに合う。

 コーヒーを飲みながら朝食を楽しむ。

最後にゆで卵の殻をむき、塩をふりかけ、ふた口で食べる。

しっかりと『ハードボイルド』だ。

 

 食後にコーヒーをお替りし、ゆっくりと飲み干し、斉木は【ホテルブラックナイト】を後にした。

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