第4話 ハードボイルドで行こう
「マスター、色々とすまなかった」
「いえ、美枝子さんも中々面白いお嬢さんで」
「うん、こんな娘だとは思いもしなかったよ」
美枝子は今、バーの一番奥にあるソファーに寝かされている。
マスターが薄い毛布を掛けてくれた。気持ちよさそうに寝ている
先ほどまではちょっとやばかった。
「ジローさんが辞めるなら私も辞めるー」と泣きながら、マスターにカクテルのお替りを要求。マスターはその後アルコール抜きのカクテルを出している。
そして「マスターのお酒美味しいー」と言いながらカウンターに突っ伏してしまった。
「もし、次回があるなら・・」
「わかっております」
美枝子の許容量はカクテル一杯でリミットを超える事が判明した。以前の社内での飲み会で介抱した時は、社会人になって初めての飲み会で飲まされ、飲みすぎたんだろうと思っていたが、今考えると乾杯の一杯目で許容量を超えたんだろう。
そして今、斉木の前には本物のマティーニが置いてある。
マスターの渾身の一杯だ。
「斉木様、辞める経緯は伺ったのですが、あの松本専務さんも賛成しているのですか?何といいますか非常に優秀な方と思いますし、斉木様と仲が良いように見えましたもので」
以前、松本をこのバーに連れてきたことがある。上層部の中で唯一の埼玉工場出身者で非常に頭が切れる。
「専務は今出張中で今回の事は知らないだろう」
「ご相談なされないのですか」
「私が会社にしがみつくつもりなら勿論そうするが、・・知られたら知られたでどうなるか、逆に辞められなくなる可能性もある。事後報告を考えている」
「辞めることに積極的なのですね、分かりました。斉木様はこの後どのようになさるのでしょう。私の個人的な興味なのですが」
斉木は本日三本目のキャメルに火を点けた。
そして言った。
「私はこれから探偵になろうと思っている」
そして、簡単な生い立ちから語り始めた。
俺は中学の時、ボクシングをやっていた。
高校入学後すぐ地元で問題を起こした。俺は実家を出ることになった。
地元から電車で一時間の高校に転校することとなった。
親が地元では大きい会社を経営していて、力があり、事件は大事にならないような決着を付けて様々なコネを使っての転校だった。
アパートでの一人暮らしが始まった。
転校先の高校ではもちろん知人はおらず、入学からひと月ほどの出会いのタイミングを逃し、俺自身も社交的な人間ではなく、また顔自体もあまり良いモノとも言えず。一人で過ごすことが多くなった。
勉強は意外とよく出来た。友人が少ないため、授業は真面目に受けた。そのおかげだ。
授業以外の学校での時間は本を読んでいた。最初は様々なジャンルのものを読んでいたが、段々と自分の好きなものを見つけた。
ヘミングウェイ、チャンドラー、ミッキースピレイン、ダシールハメット、大藪晴彦、北方健三、平井和正、等々。
男らしい物語を読みふけった。
単純に男らしい男に憧れた。
生活費を親に全て頼るのはカッコ悪いと思ってアルバイトを始めた。
それからずっと、男らしく、ハードボイルドに生きようと思っていた。
俺が大学卒業したら、兄貴には実家の会社に入るように勧め、親父は戻ってくるなと言われた。
地元には戻らず普通に就職して、二十数年間、同じ会社に勤めた。地元には年に一度正月に実家に顔を出す程度。何かある時は兄貴の嫁である美紀が連絡をくれる。
美紀は中学の同級生で、俺を『クロマ』と呼ばなかった数少ない一人だ。クロマはクロマニヨン人の略だ。
美紀があだ名で呼ばなかったのは中学時代から俺の兄貴を狙っていたからだ。それで最終的には結婚まで持ち込んだんだから大したもんだ。と、少し脱線したかな。
斉木ジローはさらに語る。
「そんな訳で高校の頃から物語の探偵のようなハードボイルドな生き方が好きで憧れてはいたんだが実際になれるなんて現実的じゃないと思い込んでいたし、実際そんな気持ちも忘れていた」
「一年前に偶々このホテル【ブラックナイト】に泊まって、バー【クロスロード】に入って、その昔の高揚感が高まって行ったんだ」
マスターは静かに頷いた。
探偵にあこがれていた。ハードボイルドな探偵にあこがれた。今では、過去に斉木があこがれた時代とは変化している。だがなるべく自分が好きな探偵になる。
「まだ会社を辞める事になったばかりなので今後のはっきりした予定はこれからだけど」
斉木は続ける。
「まずは住むところを決めなければならない。現在は埼玉県の工場近くの会社所有のアパートに住んでいる。実家には戻りたくないんで早々にどこかを決めなければならない。そして、修行に出る。期間は一年くらい?これから調べていくが例えばフランスの外人部隊に入隊するとか、だけどフランス語は話せないから英語圏で傭兵学校みたいなのを探すか。そうすると住むところは慌てなくてもいいのかもしれない。荷物は処分すれば」
「修行が済んだら事務所を構える。事務所に寝泊まりがベストなのだが、場所も考えないと。まあ日本へ帰ってきてからになる。あと犬か猫を飼うべきだろうか、どう思うマスター?」
斉木の話は暫く続いた。
「斉木ジロー様。貴重なお話をありがとうございます。もし何かありましたら私も協力させて頂きます」
「その時は頼むよ」
「海外に行かれるのでしたら、その間の拠点をこのホテルにしては如何でしょう。どのみち日本での住所は必要でしょうから」
「へっ?どういう事」と斉木は変な言葉を出してしまう。
「私はこの【BARクロスロード】と【ホテルブラックナイト】のオーナーです。趣味でやっているんですよ」
と、微笑んだ。
マスターは元々いくつものホテルを経営していたが、息子に経営を譲り、ここのホテルだけを自分で好きなように経営しているとのことだった。
「マスターもハードボイルドだね。成程、いざというときは相談させて欲しい」
「是非是非。さて、美枝子様はどういたしましょうか。」
「うん、まいったな。電車で帰れる時間ではあるけれど、駅まで走ってギリギリか、いや間に合わないな」
店の奥にあるアンティークな時計は間もなく二十三時になろうとしていて、美枝子は相変わらず気持ちよさそうに寝息を立てている。
「斉木様の隣の部屋をお取りできますが」
「いや、タクシーで帰すよ。こいつはまだ短大出て社会人になって二年目の子供なんだ。こいつの両親にも心配をかけたくない」
「承知しました。タクシーをお呼びしましょうか」
「ああ、頼むよ。俺はこいつを起こしてみる」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「やってしまった」
美枝子は小さく呟いた。
美枝子を乗せたタクシーは地元へ向かって走っている。
斉木に起こされた後、マスターに水を貰い呼んだタクシーに乗せられた。
斉木から「心配かけて済まなかったな、ありがとう」との言葉とともに十分なタクシー代を渡されてしまった。二万円、おつりがくる筈。
荷物があるのを思い出し、慌ててコインロッカーに寄ってもらった。
「ぐぬぬ」
美枝子は再びつぶやく。ああ明日どんな顔をして斉木ジローと会えばいいんだろう。
ああ、自分でぐぬぬって言ってしまった。
やがて、タクシーは川口市の自宅の住宅街に入っていく。
「そこの角を右折してもらって四件目の、自動販売機の隣です。そう、ここですありがとうございます」
二万円を渡し、お釣りを貰う。
携帯で時間を見ると十二時を過ぎたところだ。 夜になり冷え込みノースリーブのワンピースでは肌寒い。
自宅の玄関の電気は点いている。リビングも。
美枝子の帰りを両親も起きているらしい。
「わたしもう二十二歳になるのに」
二階を見上げると弟の部屋も点いている。これはいつもか。
自分の格好を見下ろしてみる。
赤いワンピースドレスは体のラインが出ている。さらにはいつもと違う化粧をして、赤いルージュを塗って。
こんな格好で帰ったらお父さんお母さんなんて言うだろうと美枝子は考えたが、仕方がない「ただいま」と玄関を開けた。
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