第3話 ジントニック

一か月ぶりにその男が扉を開け、マスターは男を迎い入れた。


斉木という男で40台後半であろうサラリーマンだ。

170前後の身長。

短めの髪を整髪料で撫でつけている。狭い額。分厚い眉の下は極端に彫りが深く怒っているような目がある。

頬骨が少し張っていて、鼻筋は通っている。

唇は厚く大きい。その下には大きな顎が特徴的だ。

肌の色がやや浅黒い。

彫りが深いからといって外人に近いわけではなく、どう見ても日本人の顔だ。


今の年齢なら味がある顔と表現できるが、若いころなら不細工と言われていただろうと想像できる。


大体、月に一度程度でここに訪れている。

ポツリポツリと会話をし、二杯程度の酒でホテルの部屋へ帰っていく。


マスターはこの男を気に入っていた。

雰囲気を大切にする人間で、自分が大切にしたいことを分かっている人間だと思っていた。

会社員ではもったいないとも考えていた。それを口にするのは無粋な事だ。


そして、その斉木が会社を辞めたという。

マスターと斉木は静かにジャズが流れる空間で、男の話をするところだった。

だが、マスターの前の斉木の隣には赤いワンピースの女性が座っている。




☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆






「ふふ。私もあなたが煙草を吸うなんて初めて知ったわ。ジローさん」


 斉木ジローは驚愕し、女の顔を見つめた。

 自分を名前で呼ぶ人間はいない。実家に戻ればジローだけど。

 社会人になってから20年以上ジローと呼ばれた記憶がない。

 まじまじと女の顔を見る。知った顔に似ている。

 

「もしかして、鈴木美枝子か?」


「正解よ。斉木ジローさん」


「なんでここにいる。なんで俺がここにいるのが分かった」 


「あなたに聞いたのよ、【ホテルブラックナイト】と【BARクロスロード】をね。特徴的な名前だから憶えていたの。で、聞きたいことがあって、おそらくはここにいるんだろうと思ったのよ」


「お知合いですか」マスターは改めて入口を『CLOSE』とした。


 美枝子は自分で喋っていて改めて驚いている。ホテルとバーの名前は憶えていたけど本当にいるなんて奇跡じゃないだろうか。また、ワンピースドレスなんて格好でBARにいるのも自分で信じられない。

 なにより自分の口調も信じられない。衣装と雰囲気に引っ張られているのが分かる。少し気取った喋り方の方がこの場に馴染むのだ。

 そして、親と同年代の会社の上司に『ジローさん』呼び。斉木課長も普段は鈴木さんと呼ぶところ『美枝子か?』だって。

 美枝子はもう一口ジントニックを飲んだ。


「ジローさん。驚きましたよ。急に会社を辞めるなんて。あり得ません。説明してください。」


「ああ、まあマスターに紹介しよう。私の部下だった鈴木美枝子さんだ。」


「部下だった?過去形?まずは説明してもらわないと納得できないわ」


「鈴木様。【BARクロスロード】のマスターで御座います。斉木様には御贔屓にして頂いております。以後お見知りおきを」


「美枝子でいいわマスター。素敵な店だわ。お酒もおいしい。」

 美枝子はさらに一口飲む。

「有難うございます。美枝子様」


「美枝子にこの場所を教えたつもりはないんだが」


「いいえ、ちょうど一年前の今頃だったかしら。本社会議の翌日に嬉しそうに私に教えてくれましたよ・・・・俺好みのホテルを見つけた。最高だ。今の新しいホテルの感覚とはまるで違う。昔の良き時代の何というんだろう。場末感があって。いやいや悪い意味じゃないぞ場末って。金持ちのきらびやかな装飾って嫌じゃない?だからといって安い建材で出来てるわけじゃないんだよ。きっと。いいものを使っている。そして時間と共にいい味を出しているホテルなんだ。そんなホテルが渋谷にあって、値段も高くないんだよ。そして地下にはバーがあってね。落ち着いたバーでさ。カウンター席だけのバーでね、マスターがいかしているんだ。余計な会話はせず、だけど俺がね、ちょっと喋りたそうなときに静かに話を切り出し誘導してくれるんだ。ああ、酒もね、バックバーにはズラリとボトルが並んでいて、綺麗にしているカウンターもあれ多分一枚板で出来ていてね。あと照明もいいんだよ。暗い店内なの。でも夜寝る時の常夜灯よりは明るいの。わかる?丁度良いの。あと店内に流れている音楽。マスターの趣味なんだけどね、それは勝手な想像だけどね、くーっ良いのよ。静かにBGMが鳴ってるだけなんだけどこだわりのスピーカーが天井付近に配置されていて、アンプとCDプレイヤーもこだわりの品だと思うよ。流れるのがジャズ。俺は音楽分からん。だけど俺の好きな感じのやつが流れているんだ。あ、ブルースも。極々抑えた音で流していて、だけど静かな店だから音に集中するとすべてが聞こえて、そのいい雰囲気の中でマスターの酒を飲むんだよ。最高じゃない?・・・・って言っていたわ。そして渋谷のブラックナイト最高!クロスロード最高!って一日中聞かされたわ」


「ぐぬぬ」

ジローさん、ぐぬぬと言ったわ。

「ジロー様、ありがとうございます」

マスターがジローと言ったわ。

 美枝子はちょっと勝利した気分。


「マスターすまない。初めてここを見つけた時、嬉しすぎて彼女に語っていたようだ。なんとなく嬉しく浮かれていた記憶がある」


「いえ、嬉しいお言葉を聞かせて頂きました。お二人とも有難うございます。あの、なんでしたら私は少し席を外しましょうか?」


「マスターに話そうと思っていた事だ。良かったら聞いてほしい」





 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 斉木ジローは辞めることになった経緯を簡単に話す。

 会議中に営業部長の浅野に辞めてくれと言われた事、同席している社長、常務をはじめ各部署の長がそれをよしとした事。


「それで、まあ良いかなと思っただけだよ」

 斉木ジローはグラスをカラリと鳴らし、ウイスキーを煽った。


「まあ良いかな、って何ですか。私たち工場はどうするんですか。ジローさんが居なくなったらまとまりません。工場長も頼りにならないし、ハンコを押してくれないし、受注の動き、現場の動きを把握していないし、会議もジローさんに押し付けるし」


「工場長は出来る男だよ。細かい仕事はその下の仕事だ。月一の会議も俺が適任だ」


「でも、でも」


「美枝子君、私たちの埼玉工場に何人の従業員がいるか分かるかい」


 さっきは美枝子って呼んだけど今度は美枝子君だ。どちらがしっくり来るか探っているのね、と美枝子は考える。

 ちなみに会社では鈴木さんだった。


「埼玉工場には千人を超える人間が働いている」


 斉木は説明をする。

「工場には各部署がありそれぞれが独自の業務を行っている。総務部、経理部、人事部、製造部、技術部、品質管理部がありそれぞれが専門の業務を行っている。その各部署をまとめているのが工場長だ。わかるな。その人に一つの受注の案件を持っていくのがおかしい」


「たしかに、そうね、私はなんで、そうね製造部製造管理課の課長がいなければ部長に話をすべきよね。でも部長って、誰?」


「工場長の人柄だ。相談すれば親身になってくれる。そして工場の人事は基本工場長がやっている。工場長は人を見る目があるのさ。そういう意味では、ここのマスターと同じタイプかな」


 斉木はルージュのついたキャメルを灰皿でもみ消した。


「ただ、工場長がどんなに頑張っても阻止できない人事がある。もちろん本社の人事もそうだが本社からの出向人事はどうしようもない。製造部部長も出向者だ。組織図には在籍しているがほぼ本社にいる。俺もめったに見ない。営業との技術すり合わせとかなんかが建前だまあ、社会ってのはこういうものだ。どこ行こうが起きることだ。おそらく従業員が二、三人の会社であっても同じで不平等で理不尽なものだ。ただうちには工場長がいる。本社からの圧力、仕事が出来ない人間の押し付け、それを最善を尽くして調整している。だから私たちは目の前の仕事だけをこなす事に集中させて貰っているんだ」


 斉木はゆっくりと話し続ける。


「その中で私たちの製造部、製造管理課は非常に重要な場所だ。優秀な人間を工場長は厳選している。君もその一人だ」


「ううっ。工場長はそんな人だったのね。私、私、心の中で無能なチビハゲ。なんて考えてしまっていたの。ごめんなざい」


 美枝子は泣き始めていた。目の前のグラスはいつの間にか空になっていた。


「仕事をしないでパソコンで風俗サイトを眺めているって思っていたんです。私の勝手な思い込みで~」


「マズダーおがわりぃー」


「いやっマスター彼女に酒はやめてくれ、美枝子、酒はもうやめておけ」

「だってマスターのお酒おいしいんだもん~」


 斉木は去年の歓迎会時の美枝子の酒での醜態を思い出した。

 その時はかなり飲まされたのかなと思ったに過ぎなかったが、たった一杯で酔いつぶれる体質だった。

 

 



 美枝子は、また美枝子って言った。と思った。


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