第2話 赤いドレスの女
斉木は【BARクロスロード】の扉を開けた。
「斉木様お久しぶりです」
六十台後半と思われるマスターが声をかけてきた。
俺は首肯で答え中へ進んだ。他に客はいなかった。
十席ほどのカウンターがあり一番奥に四人掛けのソファーとテーブルがある。照明はギリギリに落としてある。
カウンターの中央付近に斉木は腰を据えた。
磨かれたカウンターに肘を置く。
夜八時を回る時間帯。なんとなくフレッシュな空気感がある。
今日最初の客なのだろうか。
居心地がいい。
「ジャックダニエルズ。ロックで」
十席ほどのバーカウンターの中のマスターはバックバーから一本のボトルを取り出す。極々抑えられた音量でジャズが流れている。
斉木が大好きな雰囲気だった。
「今回もお仕事ですか」
マスターはグラスを斉木の目の前に置きながら声をかけた。
「いや、会社員は辞めることになった。」
「ほう、立ち入った事をお聞きしました。申し訳ありません」
「いや、いいんだ」
オールドファッションの大ぶりなグラスを手に取る。大きな氷がひとつ。 からりと音を立て、琥珀色のウイスキーを目と耳で楽しむ。
マスターが灰皿とナッツの入った小皿を出した。
「ありがとう」
マスターは静かに頷く。
グラスを傾けジャックダニエルズを一口、口に含んだ。
「うまい」と声にならない声を出した。
このバーの雰囲気の中で飲むウイスキーは格別だ。
斉木はポケットから煙草とライターを取り出した。
煙草はキャメルだ。これも迷うところ。候補はラッキーストライク、ゴロワーズ。ポールモールは今は販売していない。今時だったらアメリカンスピリットか?日本だったらハイライトか。などと考えつつ一本のキャメルを振り出し口に咥えた。
シルバーのジッポで煙草に火を点けた。
煙をくゆらしながら、またウイスキーを楽しむ。
「マスターの酒は最高だな」
「ありがとうございます」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
美枝子は会社を出て電車に乗っていた。
何故、今、斉木に夢中になっているのか分からない。
年齢的にも全く恋愛対象じゃないし、仕事上ではとても尊敬しているけど、強面の少し不細工だけどちょっと可愛いと思ったりするけど。
会社を出て一時間ほどで美枝子は渋谷の街中にいた。気付くと事務服で繁華街に立っている。恥ずかしい。こんな格好じゃバーに行けない。
多分だけど斉木は雰囲気や状況を大切にする男だ。
美枝子はあたりを見渡す。
デパートに入る。閉店時間はまだ大丈夫か?それぞれの階にある案内を見ながらエスカレーターを上っていく。フォーマルな服を扱う店舗がそろうフロア。飾られたマネキンを見ながら歩く。
ピンときた店に入り、「入口に飾っているような服と靴とバッグを揃えたいの。予算は三~四万円で」と言うと、店員は何点かおすすめの服を出してくる。
値段はなんとなく。上を見ればきりがないだろうし、美枝子自身の経済状況もある。
少し体のラインが出る赤いワンピースを着る。
普段は履かないヒールが高い靴。
片手で持てるクラッチバック。全身鏡で見る。まとめていた髪をほどく。ちょっとゆるふわになる。
「このまま着て行けます?」今まで着ていた事務服、と靴とショルダーバッグをまとめて大きな紙袋に入れてもらって店を出た。
エスカレーターで下に降り、化粧品売り場に行く。
美容部員が在中する化粧品ブランドのブースが並んでいて、その中の一つを選ぶ。
「口紅が欲しいんですけど」
美容部員はとても美しい三十台。いいにおいがする。こういう大人になりたい。
赤いドレスに合う紅い口紅を購入、ホタルノヒカリが流れる中、化粧も整えてもらった。
眼鏡も外し、手持ちの使い捨てコンタクトを入れた。
鏡をのぞくといい女がいた。ふふふ。
「とてもお似合いですよ、そうだ、これ使います?」
彼女は香水を取り出し自分の手首に付け、においをかがせる。「いいにおい。お姉さんの香りですね。すてき」
うなじと手首に付けてくれた。
お姉さんに教えてもらったコインロッカーに大きな紙袋を突っ込み、タクシーを拾う。
「ホテルブラックナイトまで」
運転手は場所を知らなかった。ナビゲーションを使うと場所が判明。ほんの少しの距離だったが乗せてもらう。こんな都会、地図を見ても道が全く分からない。
降ろされた場所は人通りが多かった。飲食店などが立ち並んでいる。
その中に目立たなく石造りの数段の階段、金属製で落ち着いた緑色のドア。真鍮製の縦に取り付けられているドアノブ。ガラスは黒く、中の様子は見えない。ドアの上の灰色の壁には【HOTEL BLACK NIGHT】とあった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
斉木は二杯目のウイスキーを注文した。
「バーボン、・・メーカーズマークをロックで」
マスターは少し目を見張る。斉木が二杯目のウイスキーを飲むのは珍しい。
ロックの後、ドライマティーニを頼み、それで終わりだった。
「かしこまりました」
「今日は自由になる記念の日だからな」
「成程」
マスターはいつもより時間をかけて新しいグラスを斉木の前に出す。グラスに入った氷はアイスピックで削られ大きな球上になっている。マスターの技術が伺える。
「これは、私から斉木様の自由へのお祝いです」
「ありがとう。美しいな」
「よろしかったら今晩はゆっくりしていって下さい。そう客が入る店ではありませんが、店を閉めますよ」
「マスター、付き合ってくれるかい」
「勿論です」
マスターがCLOSEの札を掛ける為、ドアの方へ移動しようとした時、ドアは開いた。来客だった。
マスターはチラリとこっちを見てすいませんと表情で現し、俺も、いや問題ないと軽く首を横に振った。
「いらっしゃいませ」
「一人なのだけど大丈夫かしら」
「もちろんです。お好きな席にどうぞ」
現れた客は二十代前半とおぼしき女性だった。
赤いノースリーブのワンピースを着ている。背は女性にしては高い方だ。高いヒールを履いているので更にだ。体のラインが出るドレスで綺麗なプロポーションがわかる。
細く白い腕が伸び、片手には小振りなバッグを手にしている。
髪は黒髪で肩より長く緩やかにウェーブして赤いドレスと白い肌に映える。
顔も整っていて赤いルージュがその容姿を引き締めていた。
女はカウンターの半ばまで歩き、隣よろしいかしら。と聞き、俺はどうぞと答えた。
女は俺の隣に座った。
良いにおいがかすかに斉木の鼻をかすめる。香水臭い女は勘弁だが、このかすかさは趣味が良いと思った。何故自分の隣に座るのか分からなかったが、あまりじろじろ見るのも斉木の美学に反する。意識を目の前のグラスに移す。
「何に致しましょう」
マスターはメニューを出しながら声をかけた。
「そうね、お酒を飲む機会あまりないもので、あまり強すぎないものを、だけど甘くてジュースみたいのはいやだわ。ちゃんとお酒っていうのを飲みたいわ」
「そうですか。承知しました。ジントニックなど如何でしょう。甘さもほどほどですし爽やかな風味です」
「おまかせするわ」
「かしこまりました」
マスターはバックバーからボンベイサファイアを出し、銀色に輝く冷蔵庫からトニックウォーターを取り出す。タンブラーに氷を入れ、ライムを刻む。
出来る女だ。若いのに。と斉木は思った。知ったかぶりをせず、卑屈にもならず、自分の飲みたいものをマスターに伝えているのだ。だけど酒をあまり飲まない女が一人、こんなバーに訪れるか?有名な店ではないぞ。自分は大好きな店だけど。カウンター席が埋まったところに出くわしたことがない。自身を含めて五人程度の客が入っていたのが記憶の中ではMAXだ。待ち合わせか?
「ジントニックです」女の前にグラスが差し出された。
「綺麗ね。ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ」
女はそのグラスを眺め、目で楽しんだ後、グラスを傾けて「あら、おいしい」と言った。
マスターは女の前にナッツの小皿と灰皿を置いた。
俺も次回来た時にジントニックを作ってもらおうと考えながらバーボンを楽しむ。そして二本目のキャメルを振り出した。
「ねえ、私にも一本いただけないかしら」
斉木は少し驚いたような顔をした。だが、振り出した煙草を差しだした。
女はありがとうと呟き、煙草を咥える。
斉木はジッポで火を点けるため女の顔の近くに手を近づけた。ジジと音がして煙草に火が点く。女が少し吸い込む様子をみせ、すぐにせき込んだ。
「やっぱり無理みたい。ごめんなさい。あなたが吸って」
斉木は女の手から火のついたキャメルを受け取る。吸い口には紅いルージュが付いている。迷ったが斉木はそれを口にし、吸い、煙を吐き出し皮肉を言った。
「お嬢様が背伸びをしているってところか?」
「ふふ。私もあなたが煙草を吸うなんて初めて知ったわ。斉木ジローさん」
斉木は驚愕し、女の顔を見つめた。
「もしかして、鈴木美枝子か?」
赤いドレスの女は斉木がよく知る人物、会社での直属の部下だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます