2
「なんで、お前なんか。」
さっきと同じ台詞だが、今度のそれはもっと重かった。本気で腹の底から疑問に思っているのだと知れるくらいに。
「知らない。要さんに訊けば。」
犯せよ、と思った。俺はあんたに犯されるためだけに、あんなにやさしい人を散々傷つけてきたんだから。
それなのに兄貴は、捲っていたシャツの裾を離すと、そのまま部屋に引っ込んでいった。その表情は、しんと冷えた無表情だった。俺を犯すときの怒りに満ちた顔ではなかった。
真夏の夜だった。熱帯夜だった。頭の中が水蒸気で蒸されたみたいだった。
気がついたら、なんで、と喚きながら、俺は狂ったように兄貴の部屋のドアを叩いていた。ガチャガチャとドアノブを回すが、中から鍵がかかっている。
「なんで!? なんで俺のことヤんないの!?」
なんで、なんで、なんで、と、俺は兄貴の部屋のドアを叩き続ける。こんなことをしてなにになるのか、それこそ気違いじみた行動ではないか、と頭の中にはまともな思考が浮かんでいるのに、俺の手も口も動きを止めてくれない。
部屋の中からはこそりとも物音がしない。そのことに俺は余計に追い詰められる。それはもう、恐慌状態と言ってもいいくらいに。
兄貴もこの世の他の誰かと同じように、俺が目を離したときにはぼやぼやした幻になっているのかもしれない。だからこんなにも部屋の中は静かで人の気配がしないのではないかと。そうしたら俺は、本当にこの世に一人きりだ。
なんで、なんで、なんで、と、俺は一晩兄貴の部屋のドアを殴り続け、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。気が付くと一人で廊下に倒れていて、兄貴の部屋のドアは半開きになっていた。
一瞬手が躊躇ったのは、俺の中のまともな部分の最後のあがきだったのかもしれない。それでも結局、ヤリ部屋のドアを開け、中に入る。
兄貴はいない。愛用している革製のボストンバッグもない。作り付けのクローゼットを開けると、不自然な隙間が目立った。
逃げられた。
一瞬にして脳内にその言葉が弾きだされた。
兄貴は、狂った俺を捨てて逃げたのだ。
俺は、兄貴の電話番号もメールアドレスもラインのIDも知らない。連絡を取る術が思いつかない。それは母親に対しても同じだけれど。
どうしていいのか分からず、俺はヤリ部屋のベッドに座り込んでぼうっと虚空を見つめていた。
昨晩の自分のいかれ具合を思い出せば、逃げられて当然な気もした。それでも、昨晩の俺は止まれなかった。だから兄貴は逃げた。きっとそれは、正しい判断だ。
正しい判断、と、口に出して言ってみる。
昨日一晩泣き叫んでいたせいで、ぎすぎすに掠れた声しか出なかった。その喉の枯れ方も、俺のいかれ具合を証明している。
それきり俺は、一度も兄貴に会っていない。
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