5
「すみませんでした。」
辛うじて、その台詞だけしぼり出した。
あの日、コーヒーハウスで、あなたから逃げてすみませんでした。あなたは、二人になれる場所に行こうと言ってくれたのに。あなたは、俺の話を聞こうとしてくれたのに。あなたは、いつだって俺の話を聞こうとしてくれたのに。それなのに、俺は、あなたの手を振り払った。駅前の、窓の大きなコーヒーハウス。人目も気にせずに、俺を落ち着かせようとしてくれた手を。
すみません、の後に続かなくてはならない言葉たちは、頭の中でもつれて上手く言葉にならない。
もどかしくて、膝の上で軽く握られた要さんの手に触れた。
とにかくあの日、あなたに触れられたくなくて逃げたのではないと、それだけでも伝えたくて。
要さんは困ったように微笑んだまま、彼に触れる俺の手をじっと見下ろしていた。
そしてちらりと目を上げ、あずちゃん、と囁いた。
「え?」
「あずちゃん、多分そろそろ部屋から出てきて、今日は友達んち泊まってくるねーって言って出かけてくから。だから、それから少し話そう。」
その、話そう、の言い方は俺が求めているものではなかった。
また彼は、ただ俺の話を聞く気でいた。こんなに痩せて、顔色も悪くなって、それでも。
もどかしかった。俺の情けなさが。彼にこんな役回りばかり強いている、どうしようもない情けなさが。
背後でガチャリとドアの開く音がして、俺は要さんの手を離して振り返る。
そこには、制服からジーンズとTシャツの軽装に着替えた梓ちゃんが、大きめのリュックを背負って立っていた。男の子みたいにそっけない格好だけれど、制服のときより彼女のスタイルの良さや顔立ちのきれいさが際立っている。
「今日は友達んち泊まってくるねー。」
完全に、要さんの予想と同じ発言だった。
俺はこんな状況でも、それが可笑しいというか微笑ましくて、ちょっと笑った。
梓ちゃんは、じゃあね、と俺に手を振り、そそくさと部屋を出て行った。
俺はその背中を見送りながら、要さんの手を握り直した。
空気が少し揺れた気がして向き直ってみると、要さんはさっきと同じように俺の手を見ていて、さらさらの黒髪がかかる白すぎる頬は、泣きそうに強張っていた。
俺が慌てて握っていた手を離すと、彼は、待って、とうっすら涙の気配がある声で言い、離れた手を両手で追ってきた。それは俺の目には、随分と切実な動作であるように見えた。
ちょっと迷って、俺はその手を摑まえた。
自分の行動が間違っていて、要さんを傷つけるようなことがありませんように、と、普段信じてもいない神様に祈った。
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