6
兄貴は俺に、要さんを連れ出したことについてなにも言わなかった。
兄貴には、要さんが自力で手錠を外したわけではないと分かっていたと思う。俺の想定が正しければ、兄貴の本命はここ五年間はずっと要さんなのだから、要さんの性格や言動の癖みたいなものは、きっと分かっているはずだ。俺の知る限り、兄貴はかなり要さんに執着している。
俺も兄貴に要さんとのことを話したりはしなかった。
そもそも、俺と兄貴の間に会話はない。もともと極端に少なかったけれど、兄貴が俺を強姦した夜からゼロになった。翌朝、強姦事件をなかったことにしようとしたら、お互いの存在ごと無視するしかなくなったんだと思う。あの後も何度か兄貴に強姦されているけれど、その間でさえ俺も兄貴も言葉を発しなかった。
友達から借りてきた講義のノートを書き写しながら、ぼんやり考える。
俺が要さんに似ている間だけ、兄貴は俺を強姦した。
俺が要さんに似ていなくなったからヤらなくなったのか、それとも俺の体格が兄貴に抵抗できるくらいでかくなったからヤらなくなったのか、どちらだろうか。
知ったところで意味はない。もう兄貴は俺とヤらない。俺に抵抗のチャンスは与えられなかった。一方的に殴られ、押さえ込まれ、犯され、それでおしまい。それが一番悔しかった。
母親は今日も帰って来ない。多分、明日も明後日も。
写し終わったノートを二冊とも閉じ、それを枕にテーブルに突っ伏した。
なんだか妙に疲れていた。ずっといつも疲れていたことに、急に気づかされてしまった感じ。
疲れているくせに、急に誰かと話したくなって、困った。
だって、学校の友達や高校時代の連れなんかにも、兄貴や母親のことは話したことがないのだ。
誰にも話せなかった。ひかれるのが嫌だったし、憐れまれるのも嫌だった。
だから、俺の日常とかけ離れた全然別なところにいる人に、なにもかも話してみたかった。話した上で、俺は異常じゃないと言ってほしかった。
それで安心したらそこからは、どうでもいいような話がしたい。なんの意味もないような話。ちょっと真剣になって、将来のことなんか話してもいい。
けれど俺にはその相手がいない。だから机に突っ伏したまま、自分に自分で話しかけてみる。隣の部屋の兄貴に聞こえないように、ごく小さな声で。
「なあ、俺っておかしいのかなぁ。この家って、おかしいのかなぁ。それともみんな、外では普通の顔してるだけで、家に帰ったらこんなもんなのかなぁ。なぁ、どっちだと思う? 俺は、みんな案外こんなものだったらいいなって思ってるんだけど。」
もちろん、返事はない。この部屋には俺一人しかいない。それどころか、もしかしたらこの世に俺一人しかいないんじゃないかと思ってふと不安になる。
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