5

 三日後の出校日、正太は学校に来なかった。

 浩は信雄と武志に理科室へ呼び出された。

 武志の四角い顔にも、信雄以上に怖いアザができていた。

 信雄が眉間に峡谷のような縦じわを寄せて睨んだ。

「正太のあの絵、ちゃんと焼いたやろね?」

 と尋ねる信雄の唇がぷるぷる震えた。それはガラガラヘビの尾を連想させるほど身の毛のよだつ震えだった。

 それでも浩は抵抗を試みたのだ。

「焼きたかなら、自分で焼けばよかやん」

 左頬に熱い殺気を感じた直後、頭がガンと響いて、世界が斜めに回った。奈落へ落ちて行く感覚に包まれ、ドサッと目の奥に柔らかな音を見た。気がついたら床に溶け込んでいた。鉄に撃たれて顔が痺れた感じだ。血の味と匂いが口と鼻にめり込んでいる。武志がいきなり殴ったのだと知った。『言語道断』の四字が頭に点滅した。立ち上がろうとしたが、体が痺れて動けない。

 誰かの声が耳鳴りのように響いて、浩の心をも砕いた。

「早く焼かんと、もっとひどい目に合うけん」

  

 すべては正太が悪いのだ、と浩は思った。そう思うことで、暗黒へ引きずり込まれそうな危うい心を守っていた。

 夕方、正太の家へ行った。

 家の近くの草原に横倒しに置いてあるドラムカンに座って、正太はじっと空を見つめていた。

 浩は後ろから近づいてドラムカンを蹴った。

「おい、正太、おまえが変な絵を描くけん、おれは、こげん殴られたとぞ」

 といきなり告げた。

 紫に腫れた唇を見て、正太の眉が吊り上がった。

「おれは、おまえの絵を焼かんと、明日、信雄と武志に殺されるとぞ」

「こ、ころされる?」

「おまえの絵を焼かんと、殺されるとたい」

 正太は猫に追い詰められた子ネズミのように小刻みに震えだし、唇を噛んだ。草むらに長く伸びた二人の影も絶望的に震えていた。やがて正太はよわよわしく笑うと、立ち上がって浩の手を引いた。その指の感触に違和感を覚えて浩が見てみると、右手の人差指に包帯が巻いてある。浩はぞっとして目の前が暗くなった。あんな絵を描かないように、信雄たちに指を切られたんじゃないかと思った。

「お、おいと、ひろしくんは、ほ、ほんとうの、ともたちに、なるとやんね?」

 と、家に引き入れながら、正太は瞳に一縷の希望を灯し、問いかける。

 浩は正太から目をそらし、家の中を見まわした。

「夏実は、おると?」

「な、なっちゃん、お、おらんよ」

 浩が正太の目に視線を戻すと、正太は顔をしわくちゃにして笑った。

「おいと、ひろしくん、ともたち?」

 浩はまた視線をはずし、舌打ちした。

「夏実がおらんとは、おまえを好かんけんやろな」

「おいは、また、か、かえる、かくけん・・」

 と言いながら、正太は押入れからスケッチブックを出した。

「これ、ひろしくん、に、あける」

 浩は目を見ずに受け取り、黙って炊事場へ歩いた。火がすぐに燃え広がりそうな木造の古家だ。火事にならないように流しに水を出しながら、その上でマッチを擦った。すべてを消し去ってくれる黄色い悪魔が復活した。

 背中で言葉にならない叫びが溢れ出た。

 浩は炎を水に流し、振り返って鬼の目で睨んだ。悲しみを瞳いっぱい湛えた知的障害者がすぐそこにいた。心臓が暴れ、血を噴き出しすぎていた。頭の中もぐにゃりと曲がりすぎていた。

「消えろ」

「き、きえろー?」

「邪魔っち言うよっと」

 正太はうなだれ、肩を震わせて家を出た。

 浩は隣の部屋へ戻り、たった一人暗い宇宙に落ちるように長椅子に沈み込んだ。そして最後にもう一度だけと、スケッチブックを開いた。一枚、一枚、食い入り見つめた。どの絵もさらなる痛烈な叫びを胸に訴えてきた。人間の心の本当を、思い知らされる感じだった。

「あいつの絵は違うとよ」

 という夏実の言葉が思い起こされて胸に響いた。

「おれも、本当は、画家になりたかったとよ」

 と、浩はつぶやいていた。

 だけど浩は急にうめき声をもらし、スケッチブックを放り出してしまったのだ。絵は三枚だけではなかった。正太のばかは、四枚目の絵を描いていたのだ。

 それはあまりにもひどい絵だった。


 暗い、ゆがんだ部屋の中で、狂った顔の二人が、うずくまる少年の頭と腹に蹴りを入れていた。彼らは信雄と武志と正太に違いなかった。正太はスケッチブックを胸に抱きしめて守っている。彼らの後ろにはゆがんだ大きな窓があり、その向こうに赤い夕陽が描かれていた。そしてその太陽は、部屋の半分以上を、命の危機が匂う赤褐色の無数の束で照らし出していた。少年たちの痛々しい姿が、赤黒い叫びに染まって浮き上がっていた。

  

 気狂いの正太。彼の人差指の包帯の意味が、鋭い短剣となって浩の胸を突き刺していた。自分の体を怒りや悲しみとともに流れる赤い血で、正太は絵を守る必死を訴えたのだ。切った指から噴き出る血の痛みで、この絵に魂を注ぎ込んでいったのだ。その意味に打ち震えながら、浩は家を飛び出した。

 夏実の言葉がなおも胸に響いた。

「あいつの絵は、焼いたらいかんと。きっと、大事なものなんやけん」

 正太はドラムカンに座って空を見ていた。

 込み上げてくる涙や鼻水をこらえながら、浩は走って、ドラムカンを蹴った。

「おまえが焼けよ・・」

 うわのそらでしゃべっていた。

「おまえが描いたとやけん、おまえが焼けよ」

 振り返った正太の目は、深い泉のようだった。

 お互い、壊れまいと必死だった。

「ひ、ひろしくん、と、おいは、ともたち?」

 浩が黙ると、正太はうわずった声で続けた。

「やけん、いっしょに、みつけよ」

「何をや?」

「ひ、ひろししょうたほし、を」

「ああ」

「おいね、こけん、はれたひは、ここに、すわるとよ。そしたら、ひ、ひろししょうたほし、は、きっと、とこかに、あると。すうっと、みると。そしたら、おいは、ひとりしゃなかと、、わかると。ひ、ひとりぽっち、しゃなかと、わかると。たって、そのほしは、おいと、ひろしくんの、ふたりのほし、やもん。たから、ひとりぽっち、しゃなかと、わかると」

 正太が幸せを求めるように視線を大空へ戻すと、自然な笑みが頬に浮んだ。

 だけど浩は胸の中で頑なに首を振っていた。

 おれは正太や信雄たちとは違う人間なんだ・・いい高校に合格して、違う道を進むんだ・・彼らとは関わらないほうがいいんだ・・

 正太がドラムカンの端に腰をずらした。

「ねえ、ここに、すわらんね。い、いっしょに、ほ、ほし、さかそ」

 浩は言われるままに腰を下ろし、空一点を見つめてみた。だけどどんなに目を凝らしても、底知れぬ青がちかちかするばかりだ。最近では大気汚染の粒子が空に満ちているというから、もう昼の星が見える時代ではないのではないかと思った。しだいにいらいらしてきた。

「ちぇっ、ちぇっ、こんなことしても、何にもならんよ。ばからしか」

 と声を尖らせた。

「し、しいっと、みるとよ。しいっと」

「何にもならんよ。見えるもんか」

 正太は祈るように浩を見つめた。

「みえるとよ。みえるとよ。ひろしくん、め、つむってみらんね。き、きえろー、みえるやろ? それか、ひろししょうたほし、よ。それと、おなしほし、きっと、このそら、に、みえるとよ」

 浩は言われた通り目を閉じた。だけど心に浮んできたのは、信雄と武志の怖い顔だった。

 浩はまたうわのそらでしゃべっていた。

「おれは関係なかとよ。正太の責任やもん。おれは、焼かんでよかとよ」

 目を開けると、正太の真実の顔がそこにあった。絵の中と同じ、狂いかけた顔が。

「お、おいは、たた、かいて、みたかったと・・」

 やっと聞こえるくらいの声が、深く響いた。

「おいと、ひろしくんは、と、ともたちたから、おいは、ひろしくんのために、なんたって、するとよ。ともたち、たから」

 正太は顔をくしゃくしゃにして笑うと、ザッザッ草を蹴る音をたてて家へ駆けた。

 浩はドラムカンに座ったまま、もう一度空を見上げた。一人きりの空が。無言で見つめ返してきた。

「きえろー」

 と、正太をまねてつぶやき、星を探してみた。あるはずの星がどこにも見えない。太陽からの今の金星の角度はどれくらいかと考え、予想される方向に目を凝らした。どんなに見てもさみしいばかりだ。目を閉じて星を思おうとすると、今度は塾長と母の顔が頭に浮んできた。「名門高校」とか「我慢しなさい」とか、彼らは真顔でしゃべるのだった。その口調が恐ろしいほど早口になって、耳鳴りのように浩を責めた。不安で胸が張り裂けそうになり、それを少しでも紛らわそうと、塾で習っている数学の公式を暗唱しようとしていた。だけど胸につかえ、いつものように出てこない。何とか絞り出そうと、眉間に苦悩のしわを寄せた。重苦しい頭の奥から記号やアルファベットがやっと現れはしたが、意味をなさぬ無彩色で流れ落ち、それらを押し出す洪水のように溢れたのは、正太の必死の言葉だ。

「ともたち、たから・・」

 と正太はくしゃくしゃの顔で訴える。

「おいは、ひろしくんのために、なんたって、するとよ」

 正太の悲痛な笑い顔が極彩色に染まり、浩の罪を鮮やかに浮かび上がらせていた。頭がぼおっと痺れ、その血の中で誰かの叫びが響いていた。それは深刻な予感の悲鳴だった。おそるおそる正太の家を振り返って見た。黒い煙が上がり始めていた。

「ひどいやつ」

 と誰かが言った。

 身を隠すように大地にすべり落ち、ドラムカンに背中を着けた。やがて浩も、永劫の火の中にいた。ごおっという炎の咆哮が彼を呑み込み、無数の牙の灼熱で身も心も引き裂いていった。ぷるぷる震えながらもう一度振り返って覗き見ると、非情の炎が古家を突き破り、かけがえのないものを焼き焦がしていた。炎の上を黒の巨人が立ち昇り、絶望の叫びで浩を見下ろし、風に溶けながら青空をすすけさせた。

「ひどいやつ」

 狂おしい怒りが、涙や鼻水といっしょに溢れ出た。五枚目の新たな絵の中に入る自分を、浩は思い知らされていた。

 一番ひどいのは誰だ? 

 と、その絵は叫び、狂っていた。















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