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 受験生の浩にとって夏休みの生活は、塾の夏期講習が中心だった。地元で最も偏差値が高い高校を目指す彼は、画家になる夢など消し、あくせく点数を上げるための勉強をした。塾は『解答人間養成所』だ。

 それでも夏休みに一度だけ、頬を紅潮させ、母に相談してみたこともあった。

「夏休み絵画コンクールの絵を、今年も描いてみようかな」

「今年は我慢しなさい。それどころじゃないでしょ?」

 彼を縛る母のまなざしは、愚者を裁く母神の天眼のように痛かった。視力を奪われた少年は、アスファルトの街をさまようモグラとなった。

 一流大学出身の塾長の言葉も、浩に見えない鎖を絡ませ、身をよじれば傷つけた。

「『名門高校』のレッテルは、一生ついてくる。受験戦争を勝ち抜くには、切り捨てなければならないこともあるんだよ」


 だから、正太の家へなど行くべきではなかったのだ。ましてどんなに正太の絵を見たくとも、猫とかカエルとかの小動物しか遊び相手のいない正太に、「友だちになろう」なんて声をかけるべきじゃなかったのだ。

 だけど浩はもう、正太の絵を見てしまった。濃い紫や黄の極彩色が、強毒のウイルスのように胸に広がり、ゆがんだ叫びの熱病が、頭の奥にとり憑いている。痛烈な批判の杭が、心臓に突き刺さって抜き取れない。

 そして、生意気だけど可愛い夏実に会いたいというもう一つの熱病が、浩を悩ませていた。身悶えながら、熱い衝撃が残る自分の手を見つめ、彼は思わずつぶやいていた。

「あの日、この左手が、あの娘の右胸をつかんじゃった。だから今度は、この右手の指が、あの娘の左胸に触れなくっちゃ」

  

 最初に絵を見た四日後の、塾の帰りのことだった。

 浩の前へとやにわに自転車が突進して来て、猛ブレーキで止まった。

「よう、浩」

「あっ」

 行く手をふさいだのは信雄だった。信雄の頬には切り傷とアザができていて、ヤクザな強面で睨まれると、浩は石化してひび割れた。信雄は自転車を降りると、ズボンのポケットからタバコ一本と小型のマッチ箱を出して、浩の胸元に差し出した。

「これ、やるけん」

「えっ?」

「ほら、早くしまわんね」

 浩は是非もなくそれを受け取って、ズボンのポケットに入れた。

「おまえも、あの絵、見たろうが」

 いらだたしげに信雄は言う。

「えっ?」

「正太の、あの絵たい」

「えっ? ああ、あの絵、見たよ」

 こいつの胸にもあの絵の審判の杭が痛く刺さっているんだな、と浩は思った。

「だったら、おまえ、あの絵、焼かんといかんやろが?」

「な、何でおれが・・」

 と言いかけた浩の胸ぐらを、信雄の右腕がいきなり締め上げた。唇をわなわな震わせ、獣が狙いを定めるような目が眼前で見開いた。

「何かあ? 何か文句あるとや?」

 生臭い唾が浩の顔にかかり、『問答無用』の文字が胸を貫いた。

「あっ? いや、そんな」

「なら、あの絵、焼かないかんやろ?」

「う、うん、あの絵、焼かないかん」

 浩は信雄の凄みに呑み込まれていた。

「焼かんかったら、おまえもどうなるか、分かっとろうもんね?」


 浩は筑後川の近くの正太の家へ歩いた。

 そして蒼い顔で古びた家の戸を叩いた。

「こんにちは」

 と言うと、正太は嬉しそうに戸を開けた。

 部屋に入るとすぐ、浩は夏実を捜した。

 見当たらないので、正太に聞いた。

「おまえには、妹がおると?」

 首をひねった正太の丸い頬に、えくぼが小さく輝いた。

「い、いもうと? な、なっちゃん、いる」

「どこに、おると?」

「あっ、と、とこか、いってる」

「あーあ」

 浩はがっかりして、畳の上にばったり、あおむけに寝た。扇風機と窓からの風だけでは蒸し暑すぎる部屋で、しみだらけの板張りの古天井をじっと見つめた。壊れかけた窓からは、熱湯のような夕陽とツクツクボウシのしぐれも降り注いできた。

 正太はどうしたものかと突っ立っていたが、やがて浩をまねて隣に寝そべった。

 正太の顔を見ずに、浩は切り出した。

「おまえ、去年、カエルの絵を描いて、金賞を取ったやん」

「か、かえる?」

「おれは、たまげたとよ。画面いっぱいのカエルが、こっちを睨んどっとやけん」

「かえる」

「おまえ、また、カエルの絵、描かんね。おまえのカエルは、ほんと、すごかけんね」

 正太の忍び笑いが聞こえた。

「かえる、ともたち。ひろしくん、ともたち」

 影たちが潜む撓んだ天井が、無情に見返していた。

「なあ、正太」

「うん」

「おまえ、絵描きになるとやろ?」

「え、えかき?」

「おまえ、おかしな気がするとやろ? 描かないでいると、おかしな気がするとやろ?」

「お、おかし?」

「描くのもつらいけど、描かないのは、もっとつらいとやろ?」

 浩は自分のことを言ったのだ。

 正太は舞い上がるヒバリのように笑った。

 浩はその無邪気に嫉妬し、パチンと言った。

「おまえは、おまえの好かんことを、絵の具で塗り潰そうとしとるだけたい。おまえ、こんなこと、もうやめんね」

 正太は、急転直下、地面に叩きつけられてもがく小鳥のように「あ、あ」もらしていた。

 しばらく間をおいて、浩は聞いた。

「ねえ、もしもね、あいつらが・・信雄たちが、おまえの絵を燃やそうとしてたら、どうする?」

「も、もやそうと?」

 正太は身を起こし、苦悩の顔で浩を見下ろした。やがて彼の唇がきゅっと引き締まり、眼光が厳しくなった。

「た、たれも、そ、そけなこと、て、てきん」

 浩ははっとして起き上がり、何か警告するような瞳の奥をきつく見返した。

「おまえ、また、描いたとやね?」

 押入れを開けた。先日正太がそこからスケッチブックを出したのを覚えていたのだ。

 正太は何かを伝えようと、「あ、あ」もらしたが、言葉にならない。

 浩はめまいに似た興奮を覚えた。あの衝撃の二枚の後に、どんな絵が続くというのだ。悲劇の終焉を観るように、おそるおそる絵をめくった。

 嫌な嫌なありさまが、胸に食い込んで来た。


 浩が今絵を見ているその部屋で、四人の少年たちが悲痛な叫びをもらしていた。腕をひねって正太をねじ伏せる武志。正太の首の後ろにタバコの火を押し付ける信雄。そして彼らの手前で、彼らに背を向けて立っているのは、片手で唇のタバコを支えている浩に違いなかった。誰の顔も濃い黄と紫だ。

 

 浩はその絵に釘付けになっていた。

 一番ひどいのは誰だ?

 と、絵は叫び、狂っていた。ゆがんだ部屋が、ゆがんだ少年たちが、絶叫の黄と紫で真実を訴えていた。

 ああ、ひどかあ、と浩の心も叫んでいた。

「何にもならんけん」

 スケッチブックを正太に投げつけていた。突きつけられた失敗の通知を、怒りに逃れて振り払おうとしたのだ。

「こんな絵を描いて、何になるとや?」

「ひ、ひろしくん」

「何にもならんけん。みんなに嫌われるだけやん。おまえはやっぱり、きえろーたい。おまえ、こんな絵、焼かないかんとよ」

 正太は震える手でスケッチブックをめくり、三枚目の絵を開いた。そして「ひろしくん」とうわ言のように繰り返しながら、少年たちを一人一人指さした。悲痛な瞳が浩を見つめていた。

 ひろしには正太の頭が変だとしか思えなかった。

「ちぇっ、もう好きにせんね。だけど、もうおれたち、友だちじゃなかけんね。絶交や」

「せ、せっこう、って?」

 正太の表情の変化を読み取りながら、浩は玄関へ歩いた。

「友だち、終わり、ってことたい」

 汗ばんだ太い指が、浩の手をつかんだ。

「ひろしくん、ともたち。ともたち」

「何すっとね? 離さんね」

「ともたち。ともたち」

「ちぇっ、おれには・・」

 と言いかけて止めた。浩にも本当の気持ちを言い合える友など一人もいなかった。心に熱いものが込み上げてきて、後から追ってきた別の感情ともみ合った。

 しばらくして、やさしく言った。

「ねえ、正太、おれとおまえは、本当の友だちになれるかもしれんよ」

「ほ、ほんとうの、ともたち?」

 正太の涙目に希望が光った。

「窓から、空を見てみらんね」

「そら?」

 正太はやっと手を離し、窓際に膝をついて、西陽の放射に撃たれながら空を見上げた。

 浩は空を指さしながら言った。

「この前、宮崎先生が言ってたやろ? 昼間でも星は見えるって。おまえがこの青空に、昼の星を見つけたら、その星に、おれたちの名をつけるとよ。浩正太星って。そしたら、おれたちは、本当の友だちになれるとよ」

「ほ、ほんとう、ね?」

 正太は窓から身を乗り出した。そして青空を見渡したのだが、やがて悲しそうに浩を見た。

「ひ、ひるまから、ほし、なんて、ないよ」

 浩は空の一点を指した。

「ひとところをじいっと見るとよ。じいっと」

 正太は言われた通りにした。

「と、とんな、ほしね?」

 浩は理科の老先生の授業を思い出していた。先生が言っていたのは、たぶん金星のことだろう。金星なら、太陽とそう離れていない角度に、太陽の通り道あたりに黄色く見えるのかもしれない。

「目をつむってみらんね、正太。ほら、心の空に、黄色い星が見えるやろ?」

「き、きえろー」

「だから、それを言うなら、イエローたい。ほんと、せからしかね」

「きえろー」

 浩の胸に正太の絵の濃すぎる黄が鮮やかによみがえった。どうしてこいつが描く人間の顔はこんなに真っ黄色なのだろう、と浩は心でつぶやいていた。欧米人は東洋人を『イエロー何とか』と呼んでいたというけれど、そんなこと、正太のばかが知っているはずもない。

「本当に目を凝らさなきゃ見えなくても、その星は必ずあるとよ。それはおれたちにとって、とても大切なものなんよ。どうね? そのきえろーは、心の空に、見えてきたね?」

「う、うん。きえろー、みえた。みえた」

 目をしっかり閉じたまま嬉しそうに笑う正太の肩を、浩はぽんぽんと叩いた。

「それが、浩正太星たい。それが、おれたちを結ぶとよ。さあ、目を開けて、それと同じ星を、この空に見つけんね。おれがいいと言うまで、目を動かしちゃいかんけんね。じいっと見るとよ。空に穴が開くくらい、じいっと見るとよ」

 正太は空に釘付けになった。

 夢中の正太を残し、浩はこっそりスケッチブックをひろって、家を出た。「ばかなやつ」とつぶやきながら、近くの草原へと駆け、信雄からもらったマッチをポケットから出して、かがんだ。意を決してマッチを擦ると、危険の匂いが指先に弾け、貪欲な小悪魔が黄色く揺れて踊った。それをスケッチブックに近づけた時、突風が吹いて悪魔が失せた。汗が目に入って、酸のように沁みた。誰かの叫び声が聞こえたが、それは自分の心臓の高鳴りのようだ。指が震えて次の一本がうまく擦れない。やっと悪魔がよみがえった時、迫る影を感じて、はっと振り返ると、すぐそこに夏実がいた。











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