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 互いに「あっ」ともらしながら、絡み合って玄関前に倒れていた。柔らかな鼓動が浩の顔を呑み込もうとしていた。薄汚れた空色のワンピースの胸の白いボタンが、彼の眼前にあった。

「誰ね?」

 声の方へ視線を上げると、驚きと怯えの混ざったとび色の瞳が睨んでいる。栗色の巻き髪が白く輝く頬に乱れ、桃色の唇がわずかに開いて微かに震えている。乳のようなほのかな甘い匂いを感じる。

 烈しく見開いた瞳に深く呑み込まれ、水中に沈んだように浩は息を止めていたのだろう。やがて苦しくなり。ふうふう息をした。

「ちょっと、早くどかんね」

 と天敵に逆襲するような少女の声。

「あっ」

 我に返って立ち上がったが、相手から目を離せずにいた。

 瞳や唇や首筋から色香が漂い、少女は年上に見えたが、

「あんた、誰ね?」

 と、立ち上がりながら聞く声は横柄なのにうわずっていて、年下にも感じられる。

「おれは・・おれは、正太の、友だち」

 少女の目がいぶかしげにゆがんだ。

「あいつに、にんげんの友だちなんて、おらんやろ」

「おまえこそ、誰ね?」

「なつみ」

「なつみ?」

「あいつの、妹」

 浩は少女のすぐ後ろの郵便受けの文字を見た。野崎真一という太い文字の下に、正太と夏実の文字が記されている。

 いったい何が浩を衝き動かしたのか、玄関に入りかけた夏実の細い腕を彼の右手がつかんでいた。

 その時正太の悲鳴が響いたが、夏実も「きゃあきゃあ」もらしていて兄の危機に気づかなかった。無理矢理引っ張っていく不審者を、大きく見開いた涙目が呑み込んだ。

「何すっとね? 何すっと?」

 悲鳴まじりで問いかける。

「信雄と武志が来とるとよ」

 と、さらに腕を引きながら浩は説明した。

「ちくしょう」

 嫌悪の縦じわを眉間に浮かべ、夏実は浩の手を振り払った。そして通りの方へ逃げた。

「あっ? ちょっと、待ってよ」

 浩も彼女の後を駆けていた。

「ねえ、何でついてくると?」

 駆けながら、棘のある声を刺してくる。

「おまえこそ、何で逃げるとね?」

「あたし、あいつらが、一番嫌いとよ」

「おれもそうだけど、おまえ、信雄たちを知っとると?」

 堤を昇って車道を越えると、筑後川の波のきらめきが河原の向うに広がった。それはこの世の喜びも悲しみも全部散りばめたような、空の青の深密な乱反射だった。

 草原を歩いて下りながら、夏実は悔しそうに言う。

「あいつら、死ねばいいとよ」

「怖いこと言うとやね」

「だって、すごくいやらしかとやもん」

 浩の胸は痛いくらい熱くなった。

 風に巻き髪が揺れて、甘い匂いが浩の熱い胸をくすぐった。堤を下りると、少女は水辺へと駆けだした。夏用のワンピースから剥きだした白い腕と足から、うら若き血潮がほとばしった。浩は蜜の匂いを追う蝶だった。

「もう、ついてこんでよ。あんた、ストーカーね?」

 川辺の水鳥たちが「キケン、キケン」とわめきながら川奥へ遠ざかっていく。

「ストーカーって?」

「はあっ? あんた、ストーカーも知らんとね? あんたも、あいつと同じ、ばかなんやね。ストーカーていうのはね、あたしの後をつける悪いやつのことよ」

 大河の流れに逆らって、二人は水際を歩いた。

「じゃあ、おれは、おまえのストーカーになっちゃろうか?」

 立ち止まったとび色の目が、突き刺すように浩を睨んだ。

「いやらしかあ」

「あいつらから・・信雄と武志から、おれがおまえを守っちゃるけん」

 夏実はバカを言う男の頭から足先まで見定めて冷笑した。

「あんたじゃ、ムリでしょ?」

「命、かけるけん」

「うわあ、この人、お兄ちゃん以上に頭おかしいわ。今すぐこの川に沈んで、魚の餌になってよ」

 浩は唇を噛んで水面を見た。ペットボトルやビニール袋が浮いている。

「汚いから、嫌ばい」

「沈め、沈め、ストーカーめ」

 浩は夏実に視線を戻し、彼女のか細い手足を見た。

「だったら、力ずくでやってみらんね」

 睨む目がけわしくなった。なのにふいに涙が溢れ出た。その痛々しい瞳に撃ち貫かれて、浩の胸は熱い血を噴き出していた。それなのに突然少女の手足が前へ出てきたのだ。きゃあきゃあもらしながらつかみかかってくる。

「ばか、ばか、冗談やけん。冗談だって・・」

 浩は懸命の作り笑いで受け止めていた。少女の細い腕に負けるはずないのだが、なめらかな生肌の衝撃に心臓が胸を壊しそうなくらい高鳴っている。夏実と組み合っていると、しだいにその胸奥が甘く痺れてきた。全身の力が抜けるような、こんな気持ちは初めてだった。空色のワンピースの胸のすきまから白い下着がちらちら見え、浩の瞳も胸も炎となった。夏実の頭が胸を押すと、また甘い匂いの予感がした。それを夢中で嗅いでいたら、左足の下の地面がふいに消えた。落ちそうになって慌てて左手でつかんだのは、夏実の幼い右胸だった。不慮の事故に時が止まって、烈しく交錯する二人の血潮に、その瞬間が深く刻印された。かん高い叫び声とともに浩は突き飛ばされていた。浩も少女に負けない叫びをあげていた。浩の視界から夏実が消え、空が縦に回転した。その青空と白い雲がしぶきを上げて水中に沈んだ。ドブンという音の波が濃密になった。地獄へ引きずり込まれる恐怖よりも、宿命に呑み込まれた沈痛に包まれ、河童のように水中でも叫んでいた。瞬光揺らめく水面が終りかけた時間の中で刻々と遠ざかるのを見ながら、手足をバタつかせることも忘れ、重い水を飲んでいると、背中い硬い救いを感じた。必死でもがき立ち上がると、胸から上が水上に出た。

「ばかあ」

 と叫びながら水を吐き出した。

「一生上ってくるな」

 という少女の声が聞こえた。

 視界は川の水のせいか涙のせいか、にじんでぼやけていた。堤へ逃げて行く夏実の背に目を凝らしながら、浩はもう一度「ばかあ」と絶呼していた。














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