きえろー
ピエレ
1
一枚目は、暗い、濃い色彩の、おどろおどろしい教室の絵だった。
どろどろの紫の床に、黄色いシャツの少年が尻を着き、首を後ろから大蛇のような腕で締め上げられていた。苦しみゆがむ少年は、この絵を描いた野崎正太本人なのだろう。黄色い丸顔に赤と黒が混ざり、その目と唇から紫色の叫び声が溢れ出ている。正太の首に暴虐を加えている四角い顔の悪徒は、おそらくクラスメイトの有田武志だ。太い眉が、八の字に躍っている。正太の黒い半ズボンは床に放り出され、下半身がさらけている。黄と赤と黒の腰と足が、画面から浮き出るようにあらわなのだ。奇妙に膨らんだ恥ずかしいものまで、剥き出しの悲鳴をあげている。その片足を持ち上げて、狂笑しながらパンツを抜き取っているのは、学校一の悪ガキの高山信雄に違いない。武志と信雄の顔や手も濃い黄色で、目や唇は紫だ。そして周りに立って眺めている生徒たちも皆、真黄の顔や手だった。その一人が他ならぬ自分であることを、浩は瞬時に直感した。それを分からせる圧倒的な色波が、彼を呑み込んでいた。黄色い顔の浩は、武志と信雄の頭の上から身を乗り出し、両頬を吊り上げ、目を細めて見ている。画面の左下にはゆがんだ机が描かれ、黄色い文字で『きえろー』と落書きがあった。
浩はスケッチブックを放り出したくなった。なのに十本の指は震えるくらいそれを強く握り、二つの瞳はどこにも逃げられないのだった。
「何ね、これ? 何でこいつら、こんな、黄色い顔、してると?」
と浩は思わずもらしていた。
隣に座り、不安げに浩を見ていた正太が、ふいに怯えをあらわにして訴えた。
「き、き、きえろー。きえろー」
浩は頭の後ろを強く殴られた気がした。事件だ。
ここに描かれていることは事実だった。制服を着てこない正太に制裁を加えようと、一学期の半ばに、信雄と武志が皆の前で彼のパンツを剥ぎ取ったのだ。だけどその時正太は、クラスメイトの笑いに合わせ、どうってことないやという具合に笑って、恥ずかしいものまで見せびらかしていたはずなのに。それがこんなひどい絵になるなんて。
「何で? 何で教室が、こんな紫色なん?」
正太が顔を覗き込む気配を感じたが、浩は喜劇だったはずのあの時の悲劇に深く引きずり込まれ、目をそらせずにいた。
いつしか、吐き気にも似た嫌悪の情が浩の胸に沸き起こっていた。その絵によって、他ならぬ浩自身も、痛切に非難されているのだ。それに、正太の絵の才能に、彼は少なからず嫉妬していた。浩は中学一年の夏に描いた工場の写生画で、県の絵画コンクール金賞を受賞し、将来は画家になるのだと、少年らしい夢を胸に抱いたこともあったのだ。だけど翌年のコンクールでは、彼の絵は入選すらしなかった。挫折の暗い血を心から噴き出しながら、彼は会場へ行き、その年の金賞の絵を見た。画面いっぱいの生き生きしたカエル、今にも鑑賞者の顔へ飛び跳ねて来そうな巨大なカエルの絵に、彼は圧倒され、打ちのめされた。その絵には、彼がどうしても描き得ない何かが、まざまざと息づいていた。そして三年生になった時、偶然にもその作者の野崎正太が、久留米市の彼の中学校に転校して来たのだ。正太は知的障害だったが、絵の才が全国に知られていたので、学校側は最初快く迎え入れた。だけど制服を着て来ず、いつも薄汚れた黄色いシャツ姿で、何を言われ、何をされても、にやにや笑っているだけの少年は、やがていじめの標的となった。誰もが正太を差別し、傷つきやすい自尊心を守っていた。浩もまたその一人だ。正太を自分より劣った存在だと確認するたびに、心のどこかで安心していた。たとえば数学の時間になると、どんな初歩の問題でもただ目を白黒させながら地蔵のように固まる正太に、浩は笑いが止まらなかった。おかげで数学の授業を十倍楽しめた。一学期の終わり頃には、髪を雑草のように伸ばしている正太に、映画スターの髪型にしてやるとだまして、皆で一切りずつハサミを入れたこともあった。その時浩は、皆が大喜びするくらい根元からばっさり切って、胸が震えるほど興奮したのだった。なのに顔をしわくちゃにして、「ありがとう、ありがとう」とおどける正太を、腹を抱えて笑ったものだ。
そして今日、ツクツクボウシが求愛を叫び始めた残暑の夕方、浩は塾の夏期講習の帰りに正太の家へ立ち寄って、家の近くの野原で猫と遊んでいた正太に「友だちになろう」と声をかけた。実のところ、夏休み絵画コンクールの正太の絵を見たくて来たのだ。
「と、ともたちって、なんね?」
正太は目を大きく見開いた。
「せからしかあ、そんなこと、知らん」
浩はいらいらしたが、やはり絵を見たくて、
「おまえとその猫のように、おれとおまえが、仲良くなることばい。それが、友だちたい」
「と、ともたちね? ともたちね?」
正太は猫を持ち上げて人生の奇跡を抱きしめるように笑った。驚いた猫は「ネコパーンチ」と叫びながら、正太の頬に鋭いツメのビンタを浴びせ、一目散に逃げた。
浩は正太を引っ張って古い小さな家へ入り、うまく言って、コンクールの絵を出させた。そしてどこからかひろってきたような長椅子に正太と座り、不快な西陽を背に受けながらスケッチブックを開いて、信雄が正太のパンツを剥ぎ取る瞬間のあの忌わしい絵を見てしまったのだ。
浩は嫌悪の情から逃れて楽になろうと、腹を立て、正太をとがめようとした。だけどうんうん、うなるばかり。彼の襟首をつかんで離さないのは、胸の中で分かりすぎるほど分かる絵なのだ。やっと非難の言葉を思いついた。
「へっ、おまえのアソコは汚かあ」
「あ、あそこって、とこね?」
満月のような瞳が浩に注がれた。
「ばかチン、アソコっていうのは、おまえの大事なとこたい。このばかみたいにふくらんだ、おまえのばかチンチンたい」
「ば、ばかちんちん?」
見つめてくる正太の目が胸を打つほどもろいのを、もろいがゆえに何とか崩れまいとしているのを、浩はまのあたりに見た。
「これじゃあ、今年のコンクールはだめやね。こんなんで目を引こうとしても、大人はだまされんけん」
正太が黙って部屋を出た。
浩は長椅子にぐったり身を沈めたが、突然バネ仕掛けのように身を起こし、スケッチブックをめくった。絵は二枚描いたと、正太は言っていたのだ。だけどちらと見ただけで、「ああ」ともらしながら、すぐに閉じてしまった。ひと目で分かったのだ。見てはならぬものを見てしまった。
暗い紫の教室の中で、皆に囲まれ、髪を切られている黄色い顔の正太が描かれていた。髪を切っている男子もそれを見ている皆も、濃い黄色の顔で、笑いながらひどくゆがんでいた。ましてや髪を切られている正太の顔ときたら、ぎりぎりの叫びが聞こえるように、さらにひん曲がっている。誰もが紫の目と唇だ。そしてハサミを持って生え際から髪を切っている悪人は、他ならぬ自分だと浩には思えてならなかった。
「ひどかあ。ひどかあ」
と浩はつぶやいていた。一つには、こんな絵が世間の目にふれてしまったら、自分は恥ずかしくて生きていけない、という危惧があった。だけど一方には、自分にはこれほど胸を揺さぶる色彩を生み出せはしないし、これはど忘れがたい印象を人の心に刻みつけることはできないというような、正太の才能に対する畏敬の念が沸き起こっており、またその裏には、自分の劣等がくやしく、悲しむ感情もにじみ出ていたのだ。
「ひ、ひとかあ?」
ふいの正太の声が、浩の血の気をいっぺんに失せさせた。自分にとり憑いてきた何かとの葛藤を、正太に知られてはいけないのだ。振り返って、自分が何を描いてしまったのか知らないふうににやついている正太を見た。
浩は一枚目の絵を開いて罵った。
「何ね、この色は? こんなの、幼稚園児の絵ばい」
「よ、ようちえ?」
その時誰かが玄関の戸を叩いた。正太が出迎えると、信雄と武志がが強盗のように押し入って来た。
信雄は浩を見て、左の眉を吊り上げた。
「何だ? 浩、こんなとこで、何しよっとや?」
「ちょ、ちょっと寄っただけ」
声がうわずって、頬が熱くなった。
正太が熱湯に入れられた弁慶蟹のような形相で叫んだ。
「か、かえれ。かえれ」
信雄はむっとした表情で正太を睨みつけていたが、やがてズボンのポケットからタバコを取り出し、口にくわえた。武志がマッチを擦って火をつける。信雄はふうっと正太の顔に煙を吹きかけると、浩にも一本差し出した。
「おい、おまえも吸え」
信雄の唇の端が笑みを作ったが、吸わなきゃ殺すという感じに目は据わっていた。
「こ、こんなことして、いいと?」
受け取ろうとしない浩の胸ぐらを、武志がいきなりつかんで締め上げた。
「何ちや?」
射殺すように睨みつける。
浩は苦しい喉から声を絞り出した。
「保健で、習ったやろ? タバコは肺癌の元だって。それに、中学生が吸ったら、犯罪じゃないと?」
武志の眉間に縦じわが寄り、目の上の内側が尖っていった。同時に彼の剛力が増し、浩は絞められたまま宙に吊り上げられ、息ができず、気が遠くなっていった。
「意気地なしが。タバコが害なら、何で大人は吸うとや?」
と問う武志に正太が飛びかかる前に、信雄が間に入って止めた。
涙をぬぐいながらぜいぜい息をする浩に、信雄はさっきと同じ笑顔で、黙ってタバコを差し出した。浩が受け取ると、武志がすかさず火をつけた。
浩は信雄を真似て少し吸い、すぐに吐き出してみた。
これが大人? これが意気地?
信雄たちに背を向け、浩は短い吸吐を繰り返した。
突然鈍い音が響いて、背筋に戦慄が走った。見ると、正太が唇から血を流して倒れている。
「プロレスごっこで遊ぼうぜ」
と言いながら、武志が腕をねじって正太を畳に押しつけた。信雄が正太の首の後ろにタバコの火を押し当てる。正太はうーうーうなるばかりだ。
浩は再び背を向けて見ないようにした。ただ口先でタバコを吸ったり吐いたりしていた。
「おい、何ね、この絵は?」
信雄の怒声に、浩は振り向いていた。長椅子の上に開いたままになっていた例の一枚目の絵に、その絵に描かれた自分たちの邪悪な姿に、信雄が気づいてしまったのだ。武志が悲鳴をあげて正太の腕を離した。足を咬まれている。正太は電光石火、信雄の顔にも捨て身の頭付きをぶつけると、スケッチブックを閉じ、母が赤子を守るようにかたく胸に抱きしめた。
「殺しちゃる」
信雄の顔が赤くなり、両目が吊り上がった。出血した唇が痙攣するように震え、怒り狂った拳が突き出された。
正太は四、五発殴られると、部屋の隅にうずくまって、死にゆく獣のような悲しいうなり声をあげた。
このままでは本当に死んでしまう、と浩は思った。ばかの正太は死んでも絵を離さないと分かった。一歩、二歩、後ずさりし、ふらふら玄関へ降りて靴を履いた。もし正太が死んで、この場に自分がいたら、世間は自分をどう思うだろう。自分には関係ないんだと心で叫びながら、捨てたタバコの火を靴の裏で踏み消した。そして家を駆け出た瞬間、誰かにぶつかったのだ。
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