夢を創る男

 翌日、普段ならガラガラの冷蔵庫は食材で溢れ返っていた。

 このアパートに住み始めて5年半近く経つが、こんなに食い物が入った試しは今までなかった。真ん中でふんぞり返っていたチューハイ缶が隅っこに追いやられ、代わりに肉のパックと野菜、それから卵のパックが堂々と鎮座している。急に詰め込まれた冷蔵庫もびっくりしているだろうな。


「食材よりも機材が先だな。スマホの角度はこんなもんかな、っと。ライトはこのへんに置いとけばいい感じだろ。あとは……」


 俺は独り言を漏らしながら着々と支度を進めた。このあとも長い時間喋るんだから、舌のウォームアップもしておく必要がある。何事も準備が肝心だからな。念入りに準備してから臨めば、結果はついてくるもんだ。


「……こんなもんか。料理のメモもバッチリ、と。それじゃ、始めるとするか」


 大きく息を吸い込んで、俺は撮影用に固定したスマホのボタンをタッチした。いつになく緊張しているのが自分でもわかる。理由なんて簡単だ。


「はいどーも! リスナーの皆さんこんばんは、『eiterの満腹チャンネル』のeiterでございます! 本日はなんと初めてのライプ配信ということでね、料理作って食うところまで完全密着でお届けしようと思いますんで。まあその、料理もライプも慣れてないんで、不安もいろいろあるわけですけども、一生懸命頑張りますのでよろしくお願いします!」


 そうだ。俺は今日、やったこともない料理とやったこともないライブ配信を同時にやってのけようとしている。

 どう考えても無謀だろう。だがやらずに埋もれていくだけよりは、やって失敗した方がずっといいに決まってる。たとえこのまま折れるとしても、せめて派手な一発をぶちかまさなかったら気が済まねえ。


「さっきもちょっとお話したんですけど、実は僕、料理ってほとんどやったことがなくてですねえ……どうなっちゃうのか僕にもわかんないですけど、まあ火事だけは起こさないつもりなんで、リスナーの皆さんはどうか最後まで応援してもらえたら嬉しいっす!」


 トークの掴みは上々だと思いたい。もともと喋りは得意な方だし、人気配信者のライブを見漁って徹夜で研究したんだから。


 俺は食材をまな板の上に並べながら、そこにいるかどうかもわからないリスナーに向かってしゃべり続けた。

 1人も見ていなかったら――なんてこと、考えたら負けだ。でもコメントが来ているかもしれない。返事をしなかったら離れてしまうかもしれない。


 画面を見たい。見たいが、怖い。


(カメラ映りの確認しねえとな。それだけだ、画面チェックするだけだ)


 なにをごまかしているのか自分でもわからないまま、こたつ机に置いたパソコンをおそるおそる振り返る。

 画面は問題なかった。接続数が出ている場所は見ないようにした。開いたままのコメント欄は空っぽだった――落胆した次の瞬間、黒地のバックに白い文字が浮かび上がった。


『肉の量やばww』


 ほんの短い一言。それを見た俺の心は地の底から天上まで跳ね上がった。少なくとも1人は見てくれている。それだけでにわかに希望が沸き上がった。


「いやそーなんすよ! この挽き肉、スーパーで一番デカいやつ買ってきましたからね。マジでどんだけ買うねんっていうね。これファミリーサイズの挽き肉なんですけど、ぜーんぶ僕が食います。1人で」


 口を動かしながら、ノートパソコンのコードを引っこ抜いて近くに置き直した。コメントしてくれる人がいるんなら、できるだけ拾って返したい。


「それじゃ、今から作る料理を発表していきます! って、もう配信タイトルでネタバレしてるんすけど……細かいことは置いといて、本日のメニューは『超デカ盛り・1キロ丸ごとハンバーグ』! 材料の全重量がなんと1キロのハンバーグを、小さく分けずに丸ごと焼いちゃうやつです。これはいろんな意味でヤバいよなぁ?」


 1キロハンバーグ。名前からしてとんでもない料理だ。想像を絶するデカ飯ではあるが、料理素人の俺はなぜか作り上げる自信があった。


「まずは玉ねぎを刻んでいきまーす。みじん切りってどうやるんですかね? とりあえず小さく切ればオッケー?」


 表面の堅い皮をむき、つるりとした白い玉を半分に切る。このくらいなら簡単だ。問題はみじん切り。切り方自体は一応ネットで調べてあるが、包丁をうまく使えるかどうか。


『ハンバーグが大きいなら粗みじんでもよさそう』


 またコメントが届いた。さっきと同じユーザー名だった。顔もわからないコメ主が神に思えた。アドバイスをくれる人がずっと見てくれているなら、こんなに心強いことはない!

 俺は慎重に――こわごわと言った方が正しいか――玉ねぎに包丁を差し込み、できる限り細く切ってから向きを変えて同じように切り分けていった。油断すると玉ねぎがすぐバラバラになるので、作業はなかなか進まなかった。

 包丁ってこんなに難しいものなのか。マンガやドラマでよく「トントントン」なんて軽やかに切ってるシーンがあるが、あんなのよっぽどのプロじゃなきゃできねえだろ。料理人の手ってのは一体どうなってんだ。


 喋ることも忘れて息を詰めているうちに、目の奥がじわじわと痛み出した。だんだん目を開けていられないほどの刺激になり、目玉を抉り出して洗い流したい衝動に駆られる。


「ちょ、ちょっとタンマ! 目ぇ洗ってきます! 痛ってえ! なんだこれ!」


 風呂場に駆け込み、服が濡れるのもお構いなしにばしゃばしゃ洗ってなんとか難を逃れた。顔を擦り上げたタオルを放り投げて戻ると、またコメントがついていた。


『あるあるww 玉ねぎはしみるよね』


 まだいてくれたことにホッとする。目は相変わらずひりひりしたが、俺はなんとか2玉分の玉ねぎを制圧した。できあがったみじん切りは大きさがバラバラで不細工だった。


「そしたらこいつをボウルに移して、肉も一緒に入れちゃいまーす。って、肉が多すぎて全部入らないやないかーい! 百均で一番デカいやつ買ったんちゃうんかーい! ……っと、まあ入らないもんはしょうがないんでね、半分ずつ混ぜることにしますね」


 若干滑った気配を察し、俺はしおらしく肉と玉ねぎを半分ずつボウルに移した。その上に卵をひとつ割り入れ、塩コショウをざかざかと振り、最後に表面をパン粉で覆い尽くした。

 あとはこいつを捏ねればいい。衛生面を考えて、ビニールの手袋も用意してある。


「僕ね、握力には自信あるんすよ。小学校から高校までずっと野球やってて、暇さえあれば素振りしてたんで。バット握って鍛えた握力、今日はハンバーグにぶつけていきますよぉ」


 指を大きく拡げて肉に突っ込み、ギュウギュウと何度も握りしめる。体育会系らしいダイナミックさを見せつけながらも、こぼして作業場を散らかさないよう、慎重かつ大胆に。一手一手に力を込めて、材料をしっかり混ぜていく。


「実際やってみると、料理ってけっこうパワー要りますね。いや疲れたわけじゃないんすけどね? 意外と腕だけじゃなくて、腰入れねえとしっかり混ざらないなって。力仕事なんだなあ、俺こういうの嫌いじゃないっすけどね」


 話しながらも手は止めない。できるだけムラがないように全体を混ぜ合わせ、圧をかけてひとつの塊に整えていく。


 単純作業を繰り返す中で、なんだか集中力が高まっている気がする。そうだ、何度も素振りを続けているときによく似ている。

 重ねるほどに研ぎ澄まされていく意識の感覚と、手のひらに握り込んだ力の感覚。懐かしさとともに、胸に迫るものがある。


「さぁて、やっと全部混ざったぜ! いやマジでやべえ、見てこのデカさ! これめっちゃ重いんすよ、こうやって見ると1キロってやべえなー」


 時間をかけてできあがったのは、まさに肉塊そのもの。両手で持ち上げ、カメラに近づけてみせた。この重さはマジでとんでもない怪物級だ。


『ホントに丸ごと焼くの? 外焦げて中は生焼けにならない?』


 さっきとは別の人からコメントが来ている。確かに目下の不安は焼き加減だ。なんせ俺は、通常サイズのハンバーグすら焦がさずに焼ける保証のない料理素人なんだから。


「それな? いや普通に考えたらそうなんすよ。でもね、僕はやります。この超巨大ハンバーグを肉汁たっぷりに焼いてみせるんで!」


 リスナーと、それから自分に言い聞かせるように俺は力強く宣言した。今さら日和って引き返せるわけがねえ。ここで魅せなきゃ、配信者じゃねえ。


 俺は再びコメント欄を見た。反応だけ覗き見するつもりでいたのに、どうしても視線が同時視聴数のところに引き寄せられた。

 そこにあったのは『39』。思わず胸がどきりと音を立てた。二桁いけばいいと思ってたのに、なんなら50人いきそうじゃねえか。


 この配信、ひょっとして伸びてる? 俺、ちょっとだけ注目されてる?


 心なしか手が震えてきた。せっかく捏ねたハンバーグを落としたら元も子もない。油を垂らしたフライパンにそろそろと肉塊を置き、長い息をつく。

39人が俺の配信を見ている。高校のクラスメイトの数と一緒だからかなりの人数だ。緊張が急速に俺の身体を駆け巡り、自信だったものが恐怖にすり替わっていく。

 俺はヤバいものに手を出してしまったんじゃないか。冷たい汗が背筋を伝う。


「……よし、いっちょこの化け物ハンバーグを焼いちまいますか! こいつをうまく焼けるかどうか、eiterの大勝負が始まりますんでね、皆様どうぞご覧あれ! それでは火をつけていきます、3・2・1・点火!」


 不安を振り払うつもりで上げた掛け声とともにガスコンロの栓をひねる。カチカチカチ、とせっかちな音が鳴ったあと、フライパンの下でコンロが青い火を点した。

 ここからが正念場だ。俺の心にも炎が宿る。

 もう一度、深く息を吸って心を整える。

 これはハンバーグとの勝負じゃない。俺自身との勝負だ。

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