人魚姫とことりの秘め事③
プルルパチパチ。
乱れ舞う粉雪がまつ毛に当たる度に、顔を振って瞬きで溶かす。それを何回繰り返しただろう。
「んぅー……、さっぶい……」
電車で十五分かかる距離を歩いてきたから、着込んできたのに体内が冷蔵庫みたいに寒い。感覚のなくなった耳はもうほとんど飾りで、冷え切った足先はスニーカーを脱いだら一緒に捥げそうな気さえする。
いつだったか、雪国育ちなのに何で寒さに弱いのとことりに揶揄われたことがある。けど、とんだ偏見だ。それを言ったら地球人は何で陸生なのかという話になる。関西人なのに面白くないねとか平気で言っちゃうタイプだ、ことりは。
そんなことを考えているうちに、早くも人生の終着点。私が唯一本物の恋愛をした懐かしい公園が、十字路の先に見える。その相手がいつどこで亡くなったのかは分からないけど、それは私の死とは関係ない。私は、私にとって本物だった思い出と共に死にたい。それだけだ。
点在する明かりに頼りなく照らされている公園を、昔の姿を思い出しながら眺める。
地平線ができそうなくらい広かった芝生は一面真っ白に覆われ、青々と茂っていた遊歩道沿いの木々は雪化粧をして狐の嫁入り行列の様相を呈している。いくつかある遊具もどっしり積もった雪に占有され、橋の架けられた大きな水路だけが昔と変わらない黒い水面を映している。
誂え向きだと思った。いつか無くなる偽物の白と、ずっと有り続ける本物の黒。そして私は、永遠の思い出と一つになる。
胸より低い欄干に、まっすぐ近づいていく。
寒々しい水路は一度落ちたら上がって来れない深さで、多分死ねる。
積もった白雪を払い除け、両手を置く。
そこに体重をかけ——
「陽芽莉っ……!」
——ようとしたところで、ことりの叫び声が静寂を劈いた。
心のどこかで願っていた声に、身体のあちこちが弛緩する。しんしんと降る雪の中に過呼吸気味の荒い息が聞こえて、胸だけが締め付けられた。
凍てつきそうに冷たい手すりに左手を置いたまま、ことりの方を向く。
十歩分くらい離れたところに、上着も羽織らず全身粉雪塗れのことりが立っていた。肩で息をする度に乱れた髪が揺れ、口からは止めどなく白い息が漏れている。ことりの家はこのあたりのはずなのに、明らかに長時間走ってきた様子だった。
呼吸を整えたことりがこちらに踏み出そうとするのを、「来ないで」と語気を荒げて制する。
悴む左手に力を込める。
「それ以上近づいたら、飛び降りるから……」
二人の沈黙を、その間にある街灯が見守る。ことりの泣き腫らした目元に気づいて、心臓と目頭がつんと熱くなる。
「……よく、分かったね……」
それを必死に堪え、紛らすために転がっていた言葉を投げる。
ことりが私の瞳を見据えて、力強く拳を握る。雪の中で堂々と咲き誇る姿がノースポールを思わせた。
「恋人のことだから」
毅然とした態度で、凛とした声を発する。拳は、閉じたままだった。
……本心ってこと?
降り頻る雪の中で、希望がちらちらと見え隠れする。
……いや、違う。
きっとことりは、あの日の嘘が勘付かれた理由を考えて自分の癖に気づいたのだ。癖なんて、知っていれば意識的に直せる。この場所に来たのも、必死そうな表情も、私のためではなくことりのお兄さんのためだ。私が死んだらお兄さんに合わせる顔がなくなるとか、大方そんなところだろう。
けど、そんな下らないエゴのために生きられるほど、私の生への恐怖は浅くない。絶望に豹変した希望の分だけ心には深く恐怖が刻まれ、魂は心の働きを維持できなくなった。もはや、肉体的な死以外にその澱みを解消する方法がない。
だから。
純白の希望から目を背け、漆黒の絶望へと体を向ける。
戦慄する身体に生を思い出し、麻痺した左手に死を予感する。
「…………陽芽莉、——」
酷く震えた、この世のものと思えない声だった。
そこに、予感したものと同質の何かを感じ、咄嗟に振り向く。
「——飛び降りたら、私も死ぬから……」
ことりの首元を涙のように伝ったのは、一筋の血だった。
私の頬を血のように流れていったのは、一縷の涙だった。
「どうして……、——」
——私のナイフを持っているの……?
「——私のためにそこまでするの……」
心から溢れたのは、ことりを求める想いだった。
本当は、死にたくなんてなかった。そしてそれ以上に、ことりが死ぬなんて絶対嫌だ……。
だって——
力なく崩れ落ちそうになった私を、駆け寄ったことりが抱き留める。
——ことりが大好きだから……。
「……陽芽莉が大好きだから……」
身体を包んだのは、私が欲しかった存在だった。
悟性によって、認識した。白雪ことりという存在は私と同じ時間を感じ、私という存在を捉えていると。今、ここにある関係は本物だと。
恐怖の深淵から急激に湧き上がった喜悦が滔滔と魂に溢流し、その浄化に心が咽ぶ。身体を介してそれを共鳴させることが愛し合うということだと悟った。
いつも首の後ろに回されていたことりの両腕が、脇の下から回さている。両腕を伸ばしてことりの首の後ろで絡めたら、二人の心臓の音が重なった。凍り付いた私たちの時間が、じんわり溶けて動き出す音だった。
私の唇に染み込んだ涙を、ことりが舌先で舐めた。それを合図にどちらからともなく抱擁を緩め、とろんと見つめ合う。私の瞳を映したことりの大きな瞳は私を捉えていて、そこには永遠があった。
それを瞼の裏に映したままお互いの唇を馴染ませ、探し当てたことりの舌をちろりと舐める。物足りなくて舌を絡め合ったら、もっと欲しくなった。
身体に気持ちを込めて、心で抱きしめ合う。濃く溶け合って、深く混じり合う。
「んっ…………」
一つになった吐息が、私たちの世界に溶けた。
ひらひらと煌めく天花が、フラワーシャワーみたいに私たちを祝福している。
顔を隠すように、ことりの左肩に顔を埋める。しっとりと滑らかな白肌から、ふんわり甘い匂いがする。
「陽芽莉、」
少し震えた優しい声が、熱くなった左耳に流れ込む。いつになく真剣な口調でことりが続ける。
「ちゃんと、言葉でも伝えたい」
「……うん」
理性を取り戻しながら、ゆったりと抱擁を解く。改めて向き合った寒そうなパジャマ姿に、そうさせてしまった罪悪感が込み上げた。
「……これ、着て」
羽織っていた黒いダッフルコートをことりに手渡す。ドレッサー越しに子どもっぽく映ったそれは、ことりが着ると大人びて見えた。
「ごめんね。ありがとう」
「ううん。……私こそ、ごめん」
「だめ」
怒気を帯びた声は、面食らうくらい食い気味だった。
ただ、それが何を咎める意図のものなのかはもちろん分かっていた。衝動で動く気質が、今回は最悪の形で現れた。
「……ほんとにごめん。もう、しない」
「うん。私が悪いのは分かってる。でも、それだけは絶対にだめ」
「はい……」
愛の鞭という言葉が最も似合いそうな口調で諭されて、胸の中がきゅっと暖かくなる。私にはあまり馴染みがないけど、母親の愛情というのはこういうものなのかもしれない。
「……でね。今度は私の番なんだけど……」
何かを覚悟するように、ことりがしばらく瞑目する。雪は、いつの間にか止んでいた。
「ちょうど、あそこなの……」
ことりが橋に背を向け、ナイフが落ちている十字路のあたりを遠い目で見つめる。首元の乾いた血が目に入った。
「……隼にぃのこと、死なせてしまったところ」
「し、え……?」
死なせた……?
竜巻が起きたように、頭の中がぐちゃぐちゃになる。視界がナイフを中心にぐるぐる回る。
「ん? ……あ、白雪隼。私の兄のこと」
「いや、そっちじゃなくて。その、ことりのせいなの……?」
思考が激しく飛び交う頭の中から、やっとの思いでその疑問を口にする。
「え?」と、ことりが驚き、私も「え?」と返す。ますます混乱してきた。
狐に抓まれたような顔をしながら、ことりがこちらに向き直る。
「陽芽莉、一旦整理しよ。私が陽芽莉と関わろうと思ったの、何でか分かる?」
「うん。その、私とことりのお兄さんが、昔両思いだったからでしょ?」
そういう理由で関わって、感じてもいない友情と愛情をずっとそれらしく振り撒き続けた。けど、この三ヶ月で何かしら心境の変化があって、ようやく本当に好きになってくれた。そう思っているのだけど。
「……その続きは?」
ひょっとしてと言いたげな、落ち着いた口調だった。
「それで私に興味を持ったから……じゃ、ないんだ」
丸かったことりの目がだんだん落ち着いていくのを見て、どうやら違うみたいだと察した。
全てを理解したらしいことりが、曇りのない微笑で頷く。推理力はことりだけの専売特許かもしれない。
「もう、結論から言っちゃうね」
「うん」
ことりが乱れていた髪を嫋やかに梳き、艶かしく右耳にかける。そのまましなやかな指先で胸元の空気をさらりと撫で、ふわりと包んだ。そこにある何かを愛おしんでいるみたいだった。
前髪の下でくりくりした伏し目がちろちろと揺れ、あどけなく瞼に隠れたかと思うと——
「私、陽芽莉のこと、ずっと好きだったよ」
——透き通った鮮やかな瞳が私の瞳を見据え、脳裏にある景色を見通した。こびりついた、セピア色の思い出を。
「……ずっと……?」
鮮烈で温かい眼差しに、視界が滲んで熱くなる。
「そう、ずっと。……誕生会した時、陽芽莉がキスしてくれたの、ほんとに嬉しかった」
うそ、何で……。
止めどない涙がセピア色の汚れを洗い流し、記憶を生き生きと蘇らせていく。
「……全部、っ、偽物じゃ、ないの……?」
嗚咽が混じって、うまく声が出せない。
「うん……。全部、本物だった。あのね、陽芽莉——」
そうして、ことりが全てを告白してくれた。過失でお兄さんを死に至らせてしまったこと。私と関わろうとしたのはその罪滅ぼしのためだったこと。それでも関わるうちに本物の友情や愛情を抱いてくれたこと。
いつしか私の涙は止まり、思い出は二度と色褪せることがないほどカラフルに彩られていた。
「——私、臆病だった……。陽芽莉といるのが楽しくて、陽芽莉が大好きで……。ずっと私のためだったのに、そう認めるのが怖かった……。認めた瞬間、生きる理由を失ってしまう気がして……」
「うん……」
怯えるように震え出したことりの肩を、少しだけ背伸びして包み込む。腰に回された両腕が、いつにも増して華奢に感じた。
少しだけ落ち着いた声が右耳を撫でる。
「だから……。だからずっと、逃げてたの……。偽物だってことにして、贖罪だってことにして……。そうすれば、生きていて良いんだって……。そう、思えたから……」
私を抱きしめる腕に、ぎゅっと、熱が込められた。身体が拘束されるほど、心は自由になっていく。その矛盾はきっと、愛だけが持つ特質だった。
「でも、もう……。もう、死んでも良いくらい、陽芽莉のことが好きで……。私にとっても、陽芽莉は生きる理由なの……。陽芽莉が、私のこと、私にしてくれた……。陽芽莉だけが、ずっと隠してきたほんとの私を、見つけてくれた……」
相槌を返しながらさらさらと髪を撫でると、ことりが堰を切ったように咽び泣いた。
それは、ことりが十五年間流せなかった涙なのかもしれない。
「……っ、……だから、っ、陽芽莉は、私が私にかけた呪いを、解いてくれた、……っ、王子様で……。罪を背負ってでも、っ、陽芽莉のこと、ちゃんと好きでいたいって、……っ、そう思って……」
抱きしめる強さを緩め、子どものような泣き顔を見つめる。ことりの首元で乾いていた血は、流れた涙で滲んでいた。
「……大丈夫だよ、ことり」
ことりが私の涙を舐めたように、私もそれを優しく舐める。
罪と恋の味だった。
「……その罪は、私も一緒に背負うから。だから、——」
その続きを、ことりの口付けが制した。
それはきっと、誓いのキスだった。
「……陽芽莉、——」
目の前の大好きな存在が、桜色に頬を染めて、向日葵みたいな笑顔を咲かせる。私をまっすぐ見つめる瞳は月のように輝き、口元では私たちの白息が溶け合っている。
「「——この恋は、二人の愛にしよ?」」
その言葉に、涙で滲む朧月に、巡る未来を予感する。瞼に過去を映しつつ、頬を流れるこの今に、私は誓う。永遠に。
二人の秘めた恋と罪とが止揚した、私たちだけの真実の愛を。
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