人魚姫とことりの秘め事②

 ねえ、ことり。

「どうしたの?」

 私、ことりが好き……。

「……いきなりだね」

 うん……。

「ごめん……」

 ……。

「だって女の子同士だよ?」

 そう、だけど……。

「……ほら、行こ」

 え……?

「……天国」



 冷たい。寒い。痛い。

 真っ暗な天井。天国ではないらしい。

 重い頭を起こす。フローリングにぺたりと張り付いている背中を剥がして、床に横たわっている下着姿を見下ろす。

「……バカみたい」

 お手軽に凍死できるかななんて、冗談半分で興じてみた奇行だった。あえて言えばもう半分は本気だったけど。

 節々の痛みを邪険にして立ち上がり、体温を踏みつける。

 足下には脱ぎっぱなしのスウェット、テーブルの上にはナイフと鞘がハの字で並んでいる。生きる理由もなければ死ぬきっかけもない、膠着した空虚な部屋。

 薄闇を全身に纏い、寝起きの習慣で窓際へ歩み寄る。

 その先の景色を見て、寒々しい部屋を暖かく、冷えきった床を温かく感じた。

「……ことり……」

 黒い空夜を慰めるように優しく舞う、幻想的な無数の白雪。白と黒が調和したその静謐な世界は、私がことりとの間に求めた関係そのものだった。

 そしてその理想に、まざまざと見せ付けられた気がした。現実との差を、偽物との差を。

 脳裏にこびりついたことりとの思い出が、どうしようもなく不浄なものに思えた。すぐにでも、消し去ってしまいたくなった。

 だから。

 もう、決意した。



『出会った頃に戻ろ』

 三ヶ月ぶりに陽芽莉から届いたのは、別れを切り出すメッセージだった。それを見た瞬間伝えたい言葉が溢れて、その全てが会いたいという気持ちに結びついた。居ても立っても居られなくなって、十二月五日の終電を経て陽芽莉の下宿へ駆け出した。途中何度か電話を掛けたけど全く出なくて、メッセージを送っても未読のままだった。

 胸騒ぎがする。私に想いを告白してくれた時、陽芽莉は私のことを生きる理由だとまで言ってくれた。もしそれに、何の誇張もなかったのだとしたら。

 陽芽莉にとって、私との別れが意味することは……。

 仄暗い不安から逃げるように、がむしゃらに走る。

 嗚咽が混じり、ひくひくと呼吸が乱れる。

 降り頻る雪と、滲む涙で視界がぼやける。

 暗闇から手招きする枯れ枝に、奇妙に揺れる電線、怪しく明滅する街頭。うっすらと見える不気味な景色が暗澹たる未来を暗示しているみたいで、心が壊れそうなくらいぐちゃぐちゃに掻き乱される。底知れない恐怖と切りつけるような寒さで手足が震えて、積もった雪に足を取られる。挫けそうになる。

 でも。

 それでも、走る。私はもう、覚悟したから。

 ——罪を背負ってでも、陽芽莉を愛すると。

 「生きていて良い理由」なんて、要らない。陽芽莉のことを、もう死ねるくらい愛しているから。私にとっても、もう陽芽莉は生きる理由だから。

 だから、陽芽莉にちゃんと告白したい。

 私の愛も、罪も、全部。

 だから。

 真っ暗な恐怖に立ち向かうように、死に物狂いで走る。

 咳で嗚咽を吐き出して、大きく息を吸う。

 甘ったれた涙を拭って、行く先を見通す。

 二人で過ごした楽しい思い出ばかりが浮かんでくる、大好きな陽芽莉の家。はっきりと見えてきたその玄関前に駆け寄る。

 体が崩れ落ちそうになったのを膝に手をついて堪え、躊躇なくインターホンを押す。

 鼓動に合わせてちかちかする視界を閉じ、祈るように待つ。

 電子音が鳴り止んで一拍。反応がない。

 どくどくと両耳に轟く心音が静まるまで待ったところで、徐に冷え切ったドアノブに手をかける。ゆっくりと、力を加えていく。

 カチャ——

「なんで……」

 ——と扉の開く乾いた音が、私の声に重なった。

 大きく拍動していた心臓が、一瞬奇妙に静止したかと思うと小刻みに震え出した。血の気が引き、呼吸の仕方が分からなくなる。

 重厚な黒い扉を、恐る恐る引いていく。隙間風が唸り、甲高い嗄れ声が頭上で響く。

 薄暗くて静かな玄関に足を踏み入れると、短い廊下の先に半開きのドアが見えた。ここでは陽芽莉と談笑していた記憶しかないから、その静寂が禍々しく感じる。

 湿った靴を無造作に脱ぐと同時に扉が閉まり、廊下は真っ暗になった。そうして音も光もなくなった虚無を、薄明かりが漏れている方を目指して一歩一歩進んでいく。

 半開きのドアを開き、辛うじて見える物影を捉える。

 いつも通りのドレッサーと机。きちんと整えられたベッド。テーブルの上には、多分、……ナイフ……。床には、陽芽莉の——

 視界が歪む。

 四つん這いにへたり込む。

 体に力が入らない。

「……嫌……やだ…………」

 苦しい……。

 息、できない……。

 震える……。

 寒い……。

 ねぇ、何で……。

 ちゃんと、話したかったのに……。

 いっぱいあったのに……。

 伝えたいこと……。

「……ねぇ、……へ?」

 ——死体に見えたスウェット。

 這い寄るために精一杯力を入れていた体が、一瞬で弛緩する。冷たい床にうつ伏せになる。

「……陽芽莉…………」

 そのままスウェットに顔を埋め、三ヶ月ぶりの大好きな匂いで乱れた心を落ち着ける。紛らわしいことをしたのだから、これくらいは許して欲しい。

 ……お風呂はちゃんと入ってたっぽい。ボディソープ変えたね。シャンプーは前と一緒かな。

「あ、ここ…………」

 首元、一番陽芽莉の匂いがする……。

「…………よし」

 乱れが淫らになったあたりで、現実を見る。

 さっきは動揺して気づかなかったけど、玄関を確認したら陽芽莉の愛用しているスニーカーがなかった。そして、テーブルの上には無造作に置かれたナイフ。

 懸念していた通り、陽芽莉は明らかに自殺しようとしていた。そして今も、家ではないどこかで、ナイフではない方法で自殺しようとしている。

 ……今こうしている間にもと考えると、怖くて泣きそうになる。また私は私のせいで大好きなものを失ってしまうのかと、絶望感に竦んで逃げ出してしまいそうになる。

 でも、決めたから。陽芽莉を愛すると。だから愛する存在を守るために、私は強くならないといけない。きっとそれが、誰かを愛するということだから。

 これは、罪を背負った私が、陽芽莉を愛する権利を掴み取るための試練だ。そう自分を鼓舞する。

 深く、深呼吸。

 陽芽莉の思考を、陽芽莉が最期に選ぶ場所を、推理する。

 ずっと音信不通だったのに、今日別れを切り出したのはなぜか。少なくとも私たちにとって、今日は特別な日ではなかった。

 でも、それには漠然と心当たりがある。十二月五日未明から今なお関東を襲っている異常気象——雪だ。陽芽莉も私と同じように、その雪景色に特別な意味を見出したのかもしれない。

 陽芽莉からメッセージが送られてきたのは今から約三十分前。陽芽莉は衝動で行動するタイプだから、何かを見出したとしたらそれはきっと今見えているのとほとんど同じ景色だ。

 そして、窓から見えるのは白と黒のコントラストが綺麗な夜の雪景色。きっと陽芽莉は、それを私たちの関係に見立てた。

 ここまでは、大方当たっているはず。

 でも、ここからが分からない。陽芽莉はMSJでの出来事以来私たちの関係を偽物だと、疎ましく感じていたはず。なのに、私たちの関係を象徴するような外の景色を見て、わざわざ外に出ていった。矛盾している。

 逆に、この景色が陽芽莉にとって言わば本物を象徴する、憧れみたいな景色だったら?

 ……筋は、通る。憧れた景色に抱かれて死にたい。そう考えるのは自然かもしれない。

 ただ、だからこそおかしい。自然すぎる。あの捻くれ者の陽芽莉が、自身の死というフィナーレを、そんなありきたりな理由で飾るはずがない——

 ——と、そこまで考えてふと思った。陽芽莉の性格なら、何かヒントみたいなものを残してくれそうな気もする。陽芽莉は何かにつけ言外の意図みたいなものを重視するところがあるから、それを汲み取れるかどうかで私を試すような趣向を凝らしていても不思議ではない。

「ひょっとして……」

 ポケットからスマホを取り出し、ひび割れたトーク画面を開く。この『出会った頃に戻ろ』というたった一言のメッセージに、別れを切り出す以外の意味が込められているとしたら?

 改めて考えてみると、少し変かもしれない。付き合う以前の状態に戻ろうという意味だけなら、「出会った頃」より「出会う前」の方が自然だ。でも、陽芽莉はそうしなかった。

 「出会った頃」が、大学生になって再会した頃ではなくて、私たちが初めて知り合った幼稚園の頃を指しているのだとしたら——

 ——きっと、こうだ。

 陽芽莉は本物の象徴であるこの雪景色を見て、偽物だった私たちの関係を深く嫌悪した。だから、陽芽莉にとって唯一本物と呼べる恋をした幼稚園の頃に戻ろうと考えた。

 そして、陽芽莉にとってその恋の象徴たり得る場所は——

「……公園……」

 ——奇しくも、私が罪を犯した場所だった。

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