第五章 人魚姫とことりの秘め事

人魚姫とことりの秘め事①

「しゅんにぃは?」

 それが、お兄ちゃん子だった私の口癖だった。兄がどこにいるか聞く時も、母に食べたいご飯を聞かれた時も、父に何か買ってもらう時も。いつも兄にべったりで、何をするにも兄の真似をした。男の子用を履いてまで全くお揃いのシューズにしていたのなんて、今にして思うと我ながらいじらしい。兄も面倒見の良い性格だったからそんな私を疎んだりせず、ずっと兄妹仲は良好だった。

 でも、ちょうど私が年中組に上がった頃。年長組になった兄はしょっちゅうどこかへ遊びに行くようになって、その時ばかりは私を置き去りにした。連れて行ってと頼んでも、その時だけは血相を変えて私を突き放した。ことちゃんがいたら困ると。絶対に連れて行かないと。

 当然、お兄ちゃん子だった私がそんな状況をすんなりと受け入れるわけもなくて、何度かこっそりと後をつけた。そうして分かったのは、その行き先がいつも近所の公園だということと、兄に好きな人ができたみたいだということ。そして、その相手が同じ年中組の黒崎陽芽莉だということだった。

 夏になった頃には両思いの子ができたと兄が両親に自慢していたから、私は話したことすらなかった陽芽莉のことが嫌いになった。そしてその頃から、家にある仏壇にお祈りをするのが私の習慣になった。黒崎陽芽莉は私から隼にぃを奪った悪者だから、早く罰を与えて下さいと。子どもながらに毎日そう祈った。

 夏が終わる頃に、年中組で急遽ちょっとした催しが執り行われた。みんなで作った寄せ書きを陽芽莉に渡すだけの、慎ましい送別会。そう、引っ越しのために陽芽莉が転園することになったのだ。やっと悪者がいなくなる、仏様にお祈りが届いた。罰が当たったのだと、そう思った——

 そうして、九月になったある日。兄がいつものように公園へ出かけた。年長組の兄は知らなかったのだ。陽芽莉が同じ幼稚園だったことも、もう引っ越したことも。それを見て、私は嬉々として追いかけた。陽芽莉は引っ越したのだと、もう悪者はいないのだと。そう教えれば、優しい兄を取り戻せると思ったから。

 でも、公園近くの歩道で追いついて陽芽莉が引っ越したことを伝えると兄は怒った。今にして思えば当然だ。好きな人がもういないという事実を、さも愉快そうに告げられたのだから。ただ、当時の私にはなぜ兄が怒ったのかなんて分からなかった。私のおかげで悪者はいなくなったのに、何で怒るのと。だから喧嘩になった。そして揉み合いの末、兄を道路に突き飛ばした。

 ——けど、その罰は、私に降りかかった。

 「ほんと、オレのことすきだよなー」大好きで「ことちゃんもたべる?」優しくて「おかあさん、だっこ!」まだまだ甘えん坊で「おとうさん、ごめん……」わんぱく盛りで「オレね、りょうおもいのこができたんだ!」でもちょっとずつ大人になっていて「マラソンせんしゅになりたい!」色んな未来が待っていたはずの「おとうさんとおかあさんのこどもでよかった!」かけがえのない家族を——

「ね! ことちゃん!」

 ——私が、殺した。



 ガバリと、空気にもがいて目覚める。内側から凍てついた身体に、結露したような冷や汗が伝う。呼吸を荒げ、体内の不快感を白息にして吐き出していく。

 曖昧な意識のままヒビの入ったスマホに手を伸ばし、陽芽莉とのトーク画面を開く。九月二日のやり取りの下には、私が送った『一回会って話したい』というメッセージのみ。

「……来てない、か……」

 だだっ広い一人部屋に、吐息混じりの声が漏れた。

 MSJに行った日から二ヶ月経ってようやく送る決心がついたそれは、一ヶ月以上未読のままだった。

 三ヶ月前のあの日——

 母から送られてきたメッセージの通知は、冷静に考えれば核心に迫る内容ではなかった。なのに、陽芽莉にそれを見られた瞬間全てが崩壊していくような絶望感に苛まれて、異常なまでの動揺を露わにしてしまった。勘の鋭い陽芽莉はそれだけで私の「贖罪」のことまで悟ってしまったらしく、私たちの間には致命的な軋轢が生じた。

 ——以来、私たちの時間はずっと気味悪く止まっている。明確な目標を見失った私は惰性で大学に通う日々を送り、陽芽莉は夏休みが明けてから一度も大学に来ていない。

 今日は十二月五日、土曜日。

 義務感が乱れた羽毛布団を直させ、私を窓際に向かわせる。

 力なくカーテンを開くと、一面銀色の世界に——

 かつての二人が見えた。雪を浴びるようにくるくる踊っている私と、ぐるぐるのマフラーに顔を埋めている陽芽莉。こんこんと降る雪に大はしゃぎする私を見て、雪国育ちの陽芽莉が「そのリアクションの方が新鮮」と笑っていた時の出来事だった。

 ——目が眩んだ。

「陽芽莉……」

 寂しさが、口から溢れた。マッチの灯みたいな夢想は吹き消されて、焦がした想いだけが残った。

 そうして目の前の現実をぼんやり眺める。

 一夜にして住宅街を覆い隠した、関東には珍しい本格的な積雪。空も陰鬱な雲に覆われ、白とも黒ともつかない灰色の世界が天地の境目を霞ませている。

 私が罪の意識と向き合い始めたきっかけも、確かこんな景色だった。何もかも覆い隠してしまえば良いと、そう幼いながらに考えたのがきっと贖罪の始まりだった。

 でも、もう……。

「隼にぃ、ごめん……」



 ずっと兄を殺した私を隠してきた。

 ずっと——

 小学生の頃は、少し過保護になった母の方針でピアノとダンスを習っていくつか賞をもらった。学校の通知表で「よくできる」以外に丸がつくことはなかったし、休み時間は自分から移動しなくても話し相手がわらわら寄ってきた。

 中高一貫の女子校に入学してからは陸上部に入って、中等部でも高等部でも長距離で全国大会に出場した。クラスでは常にカーストの高いグループに属したし、成績も学年一桁を維持し続けて難関大学に入学した。

 そんな風に人生を彩るくらいしか、贖罪の手段が見当たらなかったから。だから客観的に善とされる存在を、空っぽの心で演じてきた。

 でも、大学に入学して思いがけず再会した。黒崎陽芽莉と。兄が最初で最後の恋をした相手と。贖罪の手段に飢えていた私にとって、それは願ってもない偶然だった。兄の愛した黒崎陽芽莉を幸せにすることは、間違いなく兄への贖罪たり得るから。

 そして何度か会話するうちに、私が白雪隼の妹であることを彼女は知らないし知り得ないと確信した。彼女は兄の近況を尋ねてくることもなければ、「白雪」という名字に反応を示すこともなかったから——多分、兄はそもそも名字を名乗らなかったのだと思う。女の子っぽくて嫌だと言っていたそれを、ましてや好きな人には知られたくなかっただろうから。

 黒崎陽芽莉という存在を贖罪の手段にする上で、そのことは必須要件だった。言動の端々から窺い知った彼女の無垢な哲学は、そうした打算的な関係とは最も相容れないものだったから。だから私の思惑を容易に勘づかせ得る真実は、ずっと隠す必要があった。

 その上で、彼女が望むであろう関係を演じた。それまでの在り方をさして未練もなく捨てて、黒崎陽芽莉という存在を目的として尊重するだけの存在を演じた。遊ぶ時は彼女を楽しませるために下調べを怠らなかったし、いかにも喜ばれそうなアルバムを作るために事あるごとに写真を撮った。率先して行動しながら彼女の求めにも二つ返事で応じたし、彼女の心のうちを理解するためにずっとその存在を捉えてきた。

 でも、予想外の出来事が起こった。偽物だったはずの関係が、いつしか本物になっていた。あらゆる行動が陽芽莉のためであると同時に私のためにもなって、空っぽだったはずの心が楽しさや喜びを感じるようになっていた。それは容易に予想できたはずなのに、陽芽莉の存在と触れ合う中で芽生えていった友情がそうさせなかった。

 ただ、それは許されなかった。私のためになってしまったら、私への罰に、兄への贖罪にならないから。生きていて良い理由を失ってしまうから。だから隠した。自分にすら見えないように、私を。

 でも、隠し続けた友情はやがて取り返しのつかない気持ちになった。陽芽莉に隠すことすら難しいほどに、熱くて大きくて重い気持ちになってしまった。

 私が、陽芽莉に恋をした。

 それでも、遮二無二ごまかし続けてきた。

 ——私が殺した兄を演じてきた。

 でも。



「隼にぃの代わり、失敗しちゃった……」

 白雪ことりの人格を隠して、白雪隼の人生を代演する。私が「白雪隼」として生きる。それこそが兄への「贖罪」で、兄を殺した私が生きていて良い理由だった。

 ずっと、そうだった。

 でも。

 もう、覚悟した——

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