シンデレラと死に至る病③

「陽芽莉、次は何乗ろっか!」

 抜群の運動センスで後ろ向きにピョンピョンスキップしながら、ことりが満面の笑みを私に向ける。『ジャックの豆の木』の恐怖を乗り越え、絶望と希望の相転移を起こしたことりのテンションは今や最高潮だ。

 あの後、イギリスエリアで『ホームズの館』というショーアトラクションと『アリスのお茶会』というコーヒーカップのアトラクションを楽しんだ。お昼にはまだ早いから別のエリアに行こうと、今は再び運河を左手に見て大通りを歩いている。

「『羽ばたくアヒルの子』、行かない?」

 言って、入園前睨んでいたレールに好奇の眼差しを向ける。ことりはだいぶ怖がっていたし、乗るならことりが有頂天になっている今しかない。

「うん良いね! 羽ばたいちゃうよー! ことりだけに!」

 両腕を大きく広げてトートバッグを落としそうになりながら、小鳥もといことりが私の周りを旋回する。

 そのテンションはハヤブサですらついていけそうにないなと内心苦笑しつつ、ドイツエリアのシンボルである『グリム兄弟像』を一旦素通りする。

 右側がパステルやビビットの景色になったあたりで、デンマークエリアの目印である『人魚姫の像』を運河沿いの手すりの前に見つけた。よく見るとそのあたりの手すりには愛の南京錠が大量にかけられているけど、それを下に見ながら『シンデレラの城』を見上げる。私たちの愛はそんな有象無象の紛い物とは違うのだ。

 それに背を向けて青空に映えるカラフルな街並みに溶け込むと、パークに入ってから一番の活気に覆われた。イギリスエリアに比べて明らかに人が多いし、人気のエリアなのかもしれない。

 大きな噴水を中心にしてグッズショップが点対称に並ぶ歩行者通りを進んでいく。足下の幾何学模様に別れを告げ、白鳥の像が施されたゲートを潜る。

「陽芽莉、『羽ばたくアヒルの子』についてどれくらい知ってる?」

 列に並んだところで、ことりが徐に口を開いた。

「……レールがとんでもない軌道だなって。それくらいかな?」

 質問の意図が分からずレールを見た印象を伝えると、ことりがニマニマと怪しい笑みを浮かべた。

「じゃあ、乗り物がどんなのかまだ知らないんだ?」

「うん」

 どうやら乗り物に何か秘密があるらしいと察して、叫び声のした方を見上げ——

「……え?」

 ——ようとしたら視界が遮られた。ことりの両手と思しきものが両目を覆っていて温かい。

「乗る時までお楽しみ。上は見ちゃだめ」

 視界が開けると、さっきまでの悪戯っぽさは消え、無垢な子どものような笑みだけが残っていた。

「分かった」

 気にはなるけど、楽しそうなことりを見ていると私も楽しいから素直に従う。ことりもことりで私を楽しませようとしているのだろうし。これが幸せスパイラルか。

 『羽ばたくアヒルの子』は『ジャックの豆の木』を差し置いてMSJで一番人気のアトラクションらしく、待ち時間も王者の風格を示すかのように二時間待ちだった。それでも、デンマークにちなんで幸せって何だろうねと話し始めてイチャイチャと二人の世界に興じていたら、あっという間に時間が過ぎた。

 いつの間に上ったっけと、高い螺旋階段を見下ろしながら進んだ列について行く。

「陽芽莉、合図するまで下向いててね」

 階段を上り切る直前、ことりがこちらを向いて念を押すように私の頭を撫でた。さっきまでいちゃついていた名残でスキンシップの癖が抜けていないみたいだ。

「……うん」

 それなのにまだお互い顔を赤らめているあたり、私たちもうぶだなぁと幸せを感じる。

 スタッフとの受け答えを済ませたことりに手を引かれ、足下をコツコツと鳴らすブーツだけを見て乗り場に向かう。

「陽芽莉、もう見て良いよ!」

「うん!」

 大学の合格発表と同じくらいの緊張感で正面を向く。

「……え! そう走るんだ……!」

 頭より少し高い位置にあるレールから、進行方向を向いて吊り下げられた横四列の白い座席。その両端には飾りの翼が背もたれに沿って生えている。それが縦八列に並んでいて、私たちが座るのは一番後ろの席だ。

 レールの上ではなく下を走るのは斬新だなぁと思って「すごいね!」とことりの方を向いたら、なぜかプルプル震えて笑いを堪えていた。

「ことり?」

「んふっ……」

 笑いを噛み殺したような返事ともつかない声が返ってきた。

 何だろう、私のテンションが高いのが可笑しかった? けど朝はこんなリアクションじゃなかったし、うーん……。

 私たちと乗り物を隔てていたフェンスが開き、よく分からないままトートバッグを棚に預ける。

「今度は、陽芽莉が座る場所、選んで良いよ」

 やっとの思いで笑いを押し殺した様子でことりが言う。

「うん。じゃあ、外側で」

 消化不良を感じつつ、進行方向を向いて一番右の席に座る。座ってみて気付いたけど、前の座席に遮られて前方の景色が全然見えない。

 今回はハズレの席だなぁと思いながら『ジャックの豆の木』に比べてかなりしっかりしたバーを下ろす。同時に、何やら遠隔操作で両肩だけでなく太ももや足首までがっちりと固定された。あんな殺人コースを走るのだから、これくらいでちょうど良い。

 『みにくいアヒルの子』のあらすじがアナウンスで流れ出し、歓声が前方から聞こえた。

 肩と腿の圧迫感が強まる。

 悲鳴が頭上から聞こえる。

「……え?」

 何が起こったのか分からない。

 隣でこの時を待っていたように大笑いしていることりの方を、首に力を入れて向く。こんなに大きな声で爆笑しているのに、顔は可愛いまま——

 ——じゃなくて。

 見下ろしていた足下が、正面になった。おへそが下を向いて、背中がレールと平行になっている。全身が空気にうつ伏せになっている。

 多分、座席が頭の方を軸にお尻から持ち上がった。背もたれの翼が空気抵抗を受けそうな向きでついていて少し不思議だったけど、なるほどこの向きで進むのか。

「はぁー……、びっくりした?」

 ひとしきり笑って満足した様子で、ことりが動きづらそうに目の端を拭っている。悲鳴の方も楽しそうな話し声に変わっていた。

「いやもう、何というか。びっくりし切れなかった」

 ことりが無邪気に笑い、私もカタルシスで口元が綻ぶ。

『そうか! 僕は白鳥だったんだ!』

 その台詞とともに、コースターがカタカタと無感情な音を立ててまっすぐ進み出す。クレーンゲームのぬいぐるみになった気分だ。

 黄色かった声が寒色に染まり始めたあたりで足場がなくなり、太陽に向かってゆっくりと上昇し始めた。正面には見渡す限りの青空が広がり、見下ろしたら私たちの歩いてきた街並みが狭く見えた。

「え、これさ」

 こちらに向けて手を振っている米粒大の来園者を意識する。

「うん」

「……下着見えない?」

 裾の短いワンピースから伸びる自分の両腿が、少し開かれたまま固定されていてむずむずする。

「……そこ?」

「いや、だって……」

 なんとか脚を閉じようとするけどびくともしない。

「……そっか。陽芽莉、あんまり脚見せコーデしないもんね……」

 足元に少し熱っぽいことりの視線を感じる。その反応が嬉しくて脚見せしか勝たんって感じだけど。

「いや、それもあるんだけど、さ……」

 ワンピースの下の艶っぽいそれを思い出しながら、恥ずかしくて伏し目になる。

「……今日は、その……。そういう下着だから……」

 付き合ってもう一ヶ月になるし、ことりとなら、やっぱりそういうことだって、してみたいし……。

 ただ、その時にはきっとシャワーを浴びて着替えているだろうから、この段階で身に着けていても意味がないとさっき気づいた。

「……私も」

 ふわり。

 高揚する。

 足下の青空。

 耳を劈く轟音。

 真っ逆さまの世界。

 風の荒波に飲まれる身体。

 瞬く間に広がった頭上の街並み。

 虹色の悲鳴に吸い込まれていく叫び声。

 私を高揚させたのがことりの色っぽい声だったのか、白鳥の乱暴なダイブだったのかは分からない。けど、その高揚感が今、私の心と身体を支配していることだけは分かる。

 植木の枝葉に頭がつきそうになったかと思うと緩やかに上昇し、ニューハウンを思わせる街並みの上空を爽やかに旋回し始めた。降り注ぐ日差しを赤い屋根がてかてかと照り返し、白い壁面はちかちかと眩しく、青い運河がゆらゆらと煌めく。

「陽芽莉! すごい! 飛んでるよ!」

 ことりの声が燦々と輝く。

「うん! ほんとに……!」

 私の心が麗かに晴れ渡る。

 街並みを外れて太陽とかくれんぼするように林に飛び込むと、幻想的な木漏れ日が私たちを包んだ。木々の間を縫って螺旋状に回転しながら進んでいく。

 目を回している間にコースターは林を抜け、見つけたとはしゃぐような日差しが私の目を眩ませた。

「綺麗……!」

 ことりの声とともに、一面の青と潮の香りに覆われた。

 海を抉るように一回転する軌道を見通す。

「ことり!」

 大きく腕を伸ばす。

「うん!」

 二人の手を絡める。

 空と海が織りなす世界を、ことりとともに寄り添い合って飛翔する。そうして描いた二人の軌跡と太陽が、無限に続く群青を愛のリングで彩った。



 一ヶ月前のあの日。兄への贖罪を決意した理性は、陽芽莉のまっすぐな愛を渇望した歪な愛に、あえなく隷属した。それが、紛れもない客観的事実だった。

 でも、兄を亡くして以来その贖罪のためだけに生きてきた私に、それを認めることなんて到底できなかったから——

「ことり?」

 後ろから呼びかけられた。……あれ、後ろ?

 声のした方を振り返ると、隣を歩いていたはずの陽芽莉が『グリム兄弟像』に体を向けながらこちらを見ていた。それを見て状況を察する。さて、どうごまかそうかな。

 さっきまでいたデンマークエリアを意識する。

「靴が勝手に動いちゃって」

 リズミカルにステップを踏みながら、進み過ぎた分戻る。

「赤くないのに?」

 陽芽莉がにこやかに返し、頭飾りと外ハネを揺らして歩き出す。フリルの付いたワンピースも手伝って、今日の陽芽莉は質量感を全く感じさせない。

「夕日のせいでちょっと赤いかも」

 足下に目を移すと、さっきまで淡白だった石畳がコロコロと可愛いらしくなっていた。

 「照れた時の言い訳みたい」と陽芽莉。「確かに」と返したら、薪をくべたみたいに小さな笑いが爆ぜて、暖かい雰囲気が私たちを包んだ。

 上手くごまかせたみたいだ。最近はごまかすのにも慣れてきたつもりだけど、私は抜けているところがあるから気を引き締めないといけない。

 『羽ばたくアヒルの子』に乗った後、美味しい食事は夜のお楽しみということにして遅めの昼食をホットドッグで済ませた。その後『マッチ売りの少女』のグリーティングと『親指姫』のライド型アトラクションを楽しんでいたら太陽が寂しそうに傾き始めたから、それを見送るべく大観覧車のあるドイツエリアに来たのだった。

 グリム童話を象徴する様々な銅像を眺めつつしばらく進んでいくと、思い思いの色でおめかししている木組みの家々に迎えられた。どれも屋根が頬みたいに赤く染まっていて可愛らしい。

 その街並みの中で異質な存在感を放っている大観覧車を陽芽莉が見上げた。

「よく見たらカボチャの馬車になってるんだ」

「そうそう! だからアトラクションの名前もそのまま『カボチャの馬車』」

 満開の花火みたいに空を彩る観覧車は、ゴンドラをカボチャ、黒い骨組みを車輪に見立てている。サイズ感があべこべなせいで遠目にはモチーフが伝わりにくいけど、近くから見るとそれっぽさは感じられる。

 ちなみに、グリム童話の『灰かぶり姫』にカボチャの馬車は登場しないと色々調べているうちに知った。でも、興醒めなうんちくは披露しない。私には陽芽莉を楽しませる義務があるから。

 アトラクションの入り口に着くと、二頭の馬の像が私たちを出迎えた。左右に阿吽の相で並んでいるのがまるで狛犬みたいだ。

 煉瓦造りのアーチを潜り、茂った木々でいないいないばあしている夕日を横目で見ながら小道を進む。

 列に並んで足を止めると、一日中遊び回った疲労感が足元からじりじり広がった。

「結構歩いたね、今日」

 フラミンゴみたいに片足ずつ休める。腿に擦れるフリルがくすぐったい。

「……ほんとに」

 その声に元気がなかった気がして咄嗟に隣を向くと、すぐにその理由に思い至った。潤んだ瞳が私の脚を捉えている。

 恥ずかしいけど、ここは私から押した方が恋人っぽいかな。

「……あと、ちょっと暑い」

 足をついてひらひらとフリルを揺らすと、思惑通りちらちらと太ももが見え隠れした。頬が熱い。こういうのは私も耐性がないからほとんど捨身——

 ——え?

 あまりに突然のことで、声も出なかった。

 裾を摘んだままの両手が、腕ごと陽芽莉に拘束された。平たく言えばハグだけど、しがみつかれていると言った方がニュアンス的には近いかもしれない。愛くるしい質量が腰にぶら下がっている。

 頬を蝕んだ熱に思考回路までダウンさせられて立ち尽くしていると、さらさらの黒髪が私の胸の下で微かに動いた。ちょっとだけこそばゆい。

「……たしのだから……」

 小動物を思わせる小さな声が喧騒に消えた。

「え?」

 陽芽莉が腕の力を緩めて私の顔を見上げた。あどけない顔立ちにいじらしい表情を浮かべている。意味的には鬼に金棒だけど、語感的にはちょうどその対極だ。

「ことりは、私のだから……。人前でそういうことしちゃだめ……」

 雑味のない甘い言葉によって込み上げた気持ちを、両拳を震えるくらい強く握りしめて押し殺す。殺しきれなかった気持ちは、それっぽさを醸し出すための表情と声色に変える。

「……うん」

 客観的には恋人っぽく見える時間を夕日に見守られ、紅潮の原因が曖昧になったあたりで乗り場に到着した。

 水平線上を赤く滲ませている正面の太陽に目を細めていると、カボチャのゴンドラが右からどんぶらこと流れてきた。荷物を下ろしつつ進行方向を向いて腰掛けたら扉が閉まり、暖かいオレンジ色の空気が満ちた。

 自然と左隣に座った陽芽莉が、広がっていくパークの景色を眺めながら少し内股で足をぷらぷらさせている。その動きに合わせて繊細な黒髪も楽しそうに揺れて、愛嬌をこれでもかと振りまく。それでいて柔らかそうにくっついた両腿は艶かしくて、行儀良く重ねている愛らしい手は淑やかだから、景色を眺めるのも忘れて魅力に満ちた陽芽莉に見惚れてしまう。

 そんな私に違和感を感じてか、陽芽莉が足の動きをぴたりと止めてこちらを向いた。

「……ことり?」

 私の顔を覗くように、可愛らしく小首を傾げている。

 ……これは、あくまで必要悪みたいなものだ。そんな前置きを心の中で唱える。今日はこれで何度目だろう。

 檻に閉じ込めている気持ちを、暴走しないように少しずつ解き放つ。

「……キス、しても良い?」

 夕日に染められていた陽芽莉がさらに頬を赤らめ、足下に視線を落として無言で頷いた。

 静かに身を寄せ、腿を触れ合わせる。

「……陽芽莉、あったかいね」

「……うん」

 抱きしめるように、私の左腕を陽芽莉の背に回す。

「……ことり……」

 陽芽莉が私に凭れながら、ワンピースを少し捲って私の太ももを優しく撫でた。その右手を愛おしむように、私の右手を重ねる。

「……この繋ぎ方も初めてだね」

「……うん」

 受け入れるように広がった指の間を指先でなぞり、二人の指を絡ませる。

「……あったかくて気持ち良い」

 陽芽莉が私の太ももの上にある私たちの手を、うっとり見つめている。それを見て私も恍惚とする。

 「陽芽莉、」と呼びかけると、陽芽莉がとろんと潤んだ上目遣いでこちらを見上げた。

「大好き……」

 罪になる気持ちを可能な限り排除した精巧な関係。これは、そのための精密な部品。

「私も……。……大好き」

 そしてその言葉は、愛の模造品に向けられた好意であって、私に対する愛ではない。

 ——私は、陽芽莉への愛を偽物にした。偽物である限り罪にはなり得なくて、偽物と気付かれない限り贖罪たり得るから。

 可憐さと色っぽさを湛えている陽芽莉に、陽芽莉が知らない真実を隠すためのペルソナを触れ合わせる。

 視界の右側に目を逸らす。そこにあるのは、愛情の形をしただけの黄昏の影だった。

 その影を見て心を鎮める。ここにあって良いのは、兄への贖罪の気持ちだけだから。

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