シンデレラと死に至る病②

 認知心理学で、選択的注意というのを習った。何でも、人間は必要な情報とそうでない情報とを無意識により分けて前者にだけ注意を向けることで、効率的に情報を処理しているのだとか。習った時はうまいことできているものだなぁと感心したけど、私は今まさにその限界に直面していた。

 足下には日の光を受けてシックな光沢を放つ綺麗な石畳。目線の高さには石造の建物に大小様々なアーチの曲線美が散見され、見上げれば風情のあるガス灯やレンガ色の屋根が等間隔に連なる。そこを十人十色の装いで老若男女が行き交い、そこかしこで手を振っているスタッフは落ち着いた色合いのメルヘンな衣装に身を包んでいる。

 つまるところ、目に映るもの全てが見過ごせないくらい個性的で、目が引っ張りだこだった。まだ入園して五分も経っていないのに、既に普段の一日分は情報を処理している気がする。

 けど、そんな中でも——

 私の左手を優しく握っていることりを見る。

 私と同じように落ち着かない様子で、眩く照り返す長髪ををさらさら靡かせながら、鈴のように丸くて大きな目をくりくり動かしている。

 目線を下げると、歩くたびにそよめくフリルがことりの真白な太ももを音を立てずに撫でていた。この世のものとは思えないほど艶やかなそれは、いかなる物と擦れても摩擦係数がゼロなんじゃないかと真剣に考えてしまう。

 ——一番魅力的なのはやっぱりことりだと、左手に大好きの気持ちを込める。

 握り返されて伝わってきたことりの温もりに、心までぽかぽかと温められる。

「あ! ねえ陽芽莉、あれ着けない?」

 ことりが街路樹の間にあるワゴンショップを指さす。カボチャの馬車をイメージしているのか橙色の丸みを帯びた店構えで、そこにカチューシャをはじめとしたファンシーなヘアアクセサリーがズラリと並んでいる。

「うん、着けよ!」

 その店先でことりと向き合い、手当たり次第掲げて背景のことりに重ねる。ことりも同じように品定めしている。

 ネズミとかクマとか、動物の耳を模したカチューシャは可愛らしいけどどれもしっくりこない。メイドのコスプレみたいなレースのやつは主張が激しすぎるし、サテンリボンは少し幼い。ティアラは流石に安っぽいし……。

「これだ!」

 イメージぴったりのものが見つかって黄色い声をあげる。

「やっぱりそれだよね」

 既にプチ品評会を終えている様子のことりがうんうんと納得している。その手元には私が掲げているのと同じ、小枝をモチーフにしたヘッドドレス。細いワイヤーに高級感のある小花やクリスタルがぽつぽつと施され、両端のリボンで結べるようになっている。

 それを購入し、植え込み近くのベンチに腰掛けてお互いに着け合う。ことりの髪を触ったりことりに撫でられたりする機会が今まであまりなかったから少しドキドキした。

「結婚式みたいだね」

 ことりがスマホの内カメラで私たちを撮りながら笑う。

「あ……。た、しかに」

 無意識に指輪を渡す状況をイメージしていたことに気づいて、図星を突かれた気分になる。けどその時にはもう外しているのか。いや、シャワーを浴びるタイミング次第? あれ、シャワーを浴びるタイミングって、つまり……。

「陽芽莉?」

「はい!」

 思わず起立する。

 ピンク色の思考を隠すために慌てて取り繕う。

「えと、あれ!」

 ぱっと目に入った巨樹を指さす。

 ことりが一瞬きょとんと私を見つめたけど、すぐにその緑色のタワーに目線を移した。

「『ジャックの豆の木』?」

「そう、それ。乗りたい」

「うん、良いよ」

 煩悩を振り払い、立ち上がったことりと手を繋いで歩き出す。

 丸いパーク内には、十二時の方向から時計回りにドイツエリア、イギリスエリア、デンマークエリアの三つのエリアがあって、エリアを跨ぐ時は中央の運河をぐるりと囲む大通りを経由する必要がある。今私たちが進んでいるのは入園ゲートから『シンデレラの城』の正面に通じる道で、左方向にデンマークエリア、右方向にイギリスエリアがあることになる。

 猫が昼寝でもしていそうに閑静な小道をしばらく行くと、背の高い住宅が横一列に並んでいるのが正面に見えてきた。その下に通されたトンネルを抜け、大通りの賑やかな空気に包まれる。そうして姿を現した『シンデレラの城』は遠目に見ていたそれとは桁違いの威圧感を振り翳していて、立ったままなのにひれ伏しているような錯覚にすら陥った。

 てっぺんまで見上げて尻餅をつきそうになっていると、ことりが急に後ろを振り返った。

「ねえ陽芽莉、あれ見て!」

 何事かと思いつつ繋いでいる手に引っ張られてそちらを向くと、ことりが「じゃーん!」と言いながら左腕を翼のように広げた。

 はしゃいでいることりの腕の先には、私たちが潜り抜けてきたはずの住宅群……ではなく、なぜか絢爛なホテルが建っていた。私たちが今夜泊まる『ミラカステッロ』というホテルだ。

「え、何で……?」

 私を抓んでいる狐もといことりを見る。

「奇跡も、魔法も、あるんだよ」

 私がことりに勧めたアニメの台詞だ。

「観たんだ」

「この回までね」

 まだ絶望する前じゃん。

「で、ほんとは?」

「うん。部屋ごとに窓の形を変えたりして、あっち側だけ住宅が並んでるみたいにデザインしてるんだって。景観のためとかで」

 言われて、来た道を思い返す。確かに、あんな落ち着いた道の真正面にホテルがでかでかと建っていたら不自然かもしれない。逆に開けた大通り側はこれくらい派手な建造物の方が映える。

「はぁー、なるほど。……というか詳しくない?」

「ちゃんと予習してきたから」

 えっへんと、ことりが左手を腰に当てる。

 いつだったかも似たようなことがあったのを思い出して、ことりは説明書とかちゃんと読んで使いこなすタイプだなぁとふと考える。私は読まずに変な使い方してしまうタイプ。

「……いいこいいこ」

 少し背伸びして小花の咲いている頭を撫でると、頬を紅潮させたことりが気持ちよさそうににへらと笑った。さっきのでことりの髪に触れるハードルが少し低くなった気がするけど、それでもお互い照れが混じる。

「……けど、私たちあそこに泊まるんだね」

 髪の質感を覚えたあたりで撫でるのをやめて、しみじみと『ミラカステッロ』を見上げる。

 中央で爛々と輝く金色のドームは対峙した豪壮な城を睥睨し、緋色の外壁はそれを威嚇する翼のように大きく広がっている。『シンデレラの城』と交互に見比べると、朱雀と白虎の季節を巡る争いに出くわしたような緊張感を残暑が帯びた。

 厳かな沈黙の中、ことりが我に返ったように口を開く。

「でも、一ヶ月記念で奮発しすぎたね」

「まあ、確かに。百年後とか、どこ行ってるんだろ」

 言いながら、当然の如くずっと一緒にいられると思えていることに気づいて幸福感に包まれる。

「……天国」

 けど真顔でマジレスされてしまった。むぅ……。

「急に現実見ない」

 思い出したように歩き出す。

 桟橋を左手に見て、環状の大通りを反時計回りに進んでいく。淡いエメラルドの水面を滑るゴンドラが、優雅に私たちを追い越した。水の都然とした涼やかな景観に心が凪いでいくのを感じて、静かに笑みを浮かべたら波紋のようにことりに広がった。

 正面に見えてきた『シャーロック・ホームズ像』を左手に見て、ベイカー・ストリートを思わせる通りに踏み入れる。曇り空の似合いそうな重々しい街並みを抜けると、高い建造物に遮られて見えなかった『ジャックの豆の木』が忽然と私たちの前に現れた。

「……百年後どころか、今日天国行きじゃない……?」

 ことりが首を大きく反らしながら、大空に伸びる緑のタワーを見上げる。

 同じようにほぼ真上を向いたら、空からものすごい勢いで断末魔みたいな悲鳴が降ってきた。

 ……いや、あの分だと天国行きというより。

「むしろ地獄直行コースでは……」

 ことりが乾いた笑いを返す。乾きすぎてほとんど虫の息だった。

 しばらく頭を撫でたら息を吹き返したことりに手を引かれ、一時間待ちの長い列に並ぶ。

 『ビッグ・ベン』と同じ高さを誇るこのアトラクションは、名前通りイギリスの童話『ジャックと豆の木』に出てくる木をモチーフにしている。八角柱の各側面を伝ってずんずん上昇していく座席はそれぞれ六人掛けになっていて、中でもパーク全体を一望できる座席が一番の当たり席。木のてっぺんで宝物を盗んだら巨人から逃げるために飛び降りてハッピーエンドというシンプルなストーリーながら、屈指の高さを誇るフリーフォールが楽しめるということでMSJで二番目に人気のアトラクションだ。……と、ことりが懇切丁寧に教えてくれた。

 そんな感じで談笑したり、写真加工アプリを使って遊んだりしている間に列はどんどん進んでいき、とうとう地獄の門番に声をかけられる。

「何名様ですか?」

「二人です!」

 ことりがピースを作って胸の前に突き出す。私もおへその前にちょこんと作る。

「Aの五番と六番のシートです! お荷物はそちらのロッカーへお願いします!」

 すぐ近くにあったロッカーに荷物を預け、手ぶらになって指定された座席へ向かう。

「一番人気の席だね」

「うん! タッチウッドさまさま!」

 ことりが私の頭飾りの枝にあたる部分をポンポン触る。列で待っている間イギリスについて調べていたら見つけたおまじないだけど、多分色々間違っている。

「ことり、外側と内側どっちが良い?」

「……内側でも良い?」

 ことりが遠慮がちに私を見る。

「うん、そう言うと思った」

 私が向かって一番右の席に座り、ことりがその隣に座る。

 湾曲したU字型のバーをガッコンと下ろすと、遠目には頼もしく見えていたそれが急に心許なく感じた。お腹と肩は一応バーに付いているけど、その間はスカスカだ。

「陽芽莉、ありがとう。端っこ怖くない?」

「うん……。思ってたより怖いかも……」

 さっきは英国紳士気取りで格好を付けてみたけど、そんな余裕はどこへやら。

 私の恐怖心とは裏腹に、ジャックの軽快なセリフが流れ出す。それがどこかサイコパスじみていてさらに不安を煽る。切り裂いたりしないよね……? うん、私は売春婦じゃないから大丈夫なはず……。

 などと考えている間に、座席が気味悪く唸るモーター音と共に上昇し始めた。地面についていた足は宙ぶらりんになり、左半身はスースーする。

「手、繋ご」

 聖人めいた優しい声で言って、ことりが左手を差し伸べる。

「うん……」

 それに縋るように右手を伸ばしながら、ふと、ことりと恋人繋ぎをしたことがないなと思った。繋ぐ手がいつもと逆だからかな。

 中指でそっと、手のひらの温もりに触れる。しっとりと滑らかで、安心感に満ちた温度だ。

 さっきと少しだけ違う指が、いつも通り私の指を包もうとする。それを指先で優しく制すると、ことりの指がもどかしそうに弛緩した。

 もっといっぱい、ことりが欲しい。そうねだるように熱っぽく、私よりちょっとだけ大きい手のひらを四本の指でなぞる。

 ことりが私を求めるように、きつく指を絡めてくれた。私もそれを愛おしむように深く絡め返す。私たちの熱が濃く溶け合う。

 そうして一つになった熱が、私の心をとろんと溶融させた。溶け出した気持ちが身体中を温め、ことりと一つになったような快感にうっとりする。

 いつの間にか、座席はタワーのてっぺんに到達していた。大きく見えた『シンデレラの城』も、今はぷらぷらとブーツで蹴飛ばせる。

 遥か地上には蟻のような群衆。喧騒もその息のように全く聞こえず、ひゅうひゅうと寒々しい音の風だけが空の孤島に吹き付ける。

 落下を予感して、下腹部の愉快な不快感にもぞもぞする。

 陽芽莉、と指先が呼びかけた。

 ことり、と絡めた指で伝える。

『逃っげろーーーーーーーーーーーーーー!』

「「大好きーーーーーーーーーーーーーー!」」

 かけがえのない宝物を、強く強く握りしめた。

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