かぐや姫と不死の薬⑤

 電車に乗っている間、ことりとはほとんど会話を交わさなかった。荒々しく逆巻いて込み上げてきた泥が、言葉になってしまわないように。心を鎮めて、気持ちを沈めていた。

 その甲斐あって、会場の最寄駅に着く頃には周囲に気を払える程度の落ち着きを何とか取り戻していた。

「浴衣、結構増えたね」

「ね! いよいよだ」

 けど、一度秩序を失って不安定になった心は、そんな何気ないリアクションにすらざわついてしまう。陽芽莉が一番可愛いと言ってくれなかったと。せっかく頑張って着付けしたのにまだ褒めてもらえていないと。理不尽で烏滸がましいと分かってはいても、そう思わずにいられない。

 そんな気持ちを隠すように、河川敷まで歪な垂線を引いている人波に紛れる。進めばぶつかり止まれば押される、当て付けのように理不尽な流れだった。

 その中を、左右に気を配りながら進んでいく。右にあるガードレールにバッグが引っかからないように、左にいることりと逸れないように。

 詰まるような息苦しさに痺れを切らし、思わず天を仰ぐ。

 日中陰ながら存在意義を主張していた太陽はとうとう臍を曲げ、負け惜しみに暑さだけ残して姿を消した。そうして意地悪な雲たちがしめしめと言わんばかりに勢いを増し、盛夏の夜を我が物顔で覆い隠している。そんな風に映る。

「着いたら何食べよっか?」

 ことりの明るい声が暗い妄想を断ち切った。

「えっと……。焼きそばとか、たこ焼きとか……」

 適当に浮かんだものを挙げつつ、脳裏にこびりついた惨たらしいお弁当を思い出していた。あれは捨てられちゃったのかな。

 右手に目を移すと、軽くなったはずのかごバッグが重たく感じた。

「こなもんばっかりだね」

「……その、お腹空いたから」

 言った後、それ以上に満たされなかった気持ちに苛まれ、虚しさが募った。

「あ……。そうだよね……」

 ことりが気不味そうに目を逸らす。

 違うのに……。そんな顔が見たかったわけではないのに。

「……うん」

 なのに、散らかった心の中をいくら探しても、そこには醜い気持ちしかなくて、笑顔で返せる言葉は見つからなかった。

「じゃあいっぱい食べよ! いちご凍らせたかき氷とか、美味しかったからまた食べたい」

 ことりが楽しそうにはしゃぐ。

 それを見て、また気を遣わせてしまったと後悔する。その笑顔がよくできているだけに自分が惨めで、大好きだったはずのそれが嫌いになる。そのことが悲しくて、心が裂けそうに痛い。

「……だね」

 なんとか絞り出した空っぽの言葉が、蒸し暑い喧騒に消えた。

「ほら、見えてきたよ!」

 ことりが高揚を抑えきれない様子で背伸びしながら前方を見通している。

 私の身長だと、下駄の高さを合わせてもことりが見ているであろう景色に届かない。

「……うん、ほんとだ」

 ——けど、ことりと同じ気持ちでいたかったから。だからごまかした。

 けど——

 土手の上に着くと、駅まで漂っていた祭りの雰囲気がいよいよ色濃いものとなり、否応なく私たちを包んだ。河川に沿って灯る屋台の明かりやあちこちで聞こえる賑やかな声、立ち込める食べ物のにおい。その全てが闇夜を暖色に染めている。

「陽芽莉! あっちの方行こ!」

 ことりが比較的空いていそうな広場を左手で指さす。

 その嬉々とした声が、弾むような後ろ姿が、去年私の手を取ってくれた時のものと重なった。

 その記憶をなぞるように、無意識に左手を伸ばしていた。

 縋ろうと、していた。友達でいられた過去に、失いたくない存在に。

「陽芽莉?」

「……あ、ううん。そうしよ」

 けど、それがことりに触れることはなかった。

 浴衣の歩幅では、届かなかった。

「……陽芽莉、ひょっとしてまだ体調悪いんじゃないの?」

「いや、ほんとに大丈夫。行こ」

 その距離に、一年前と今の違いを、離れていく気持ちを痛感した。

 ——もう、限界なのかもしれない。

 でも、それでも——

 ことりの指差した広場に着くと、溢れ返っていた喧騒はまばらになり、聞き取れる程度に落ち着いた。背後で背の高いススキが微かにさざめいているのが聞こえる。屋台の立ち並んでいるあたりから少し離れていて利便性には欠けるけど、落ち着いて花火を見る分には最適の場所だ。

 川から離れた位置に少し砂っぽいレジャーシートを広げ、ひとまず場所を確保する。

 貴重品を取り出すためにバッグを弄っていると、既に財布とスマホをワンピースのポケットに入れたことりが勢いよくトートバッグを置いた。

「私買ってくるから、陽芽莉はここで待ってて」

「え、でも、」

 ことりと一緒に屋台を見て回りたいと、そう言うつもりだった。

 けど、ことりの言葉がそれを制した。

「いいから。焼きそばとたこ焼きで良い?」

 悪いからと、私が遠慮すると考えたのだと思う。その誤解を解くくらい、訳もないことのはずだった。

「……うん。ありがとう」

 なのに、できなかった。憔悴してしまった想いには、そのための力すら残っていなかった。些細な誤解さえ、私たちの間にできた惨たらしい亀裂だと感じた。

「ちゃんと休んでてね。飲み物とかも適当に買ってくるから」

「……うん、お願い」

 そうしてことりが暖色の灯りに消え、私は暗澹とした夜に立ち尽くす。

 あたりは楽しみとか美味しいとか、そんな明るい声に満ちていた。けどどれもどんどん遠くなって、だんだん濁っていく。淀んだ川の中に身体が沈んでいくみたいだった。

 ……分かっている。ことりは私の体調を案じてくれたのだと。普段なら思い違いすることもなかったはずだと。けど、頭では分かってはいても、心ではそう思えない。緻密に組み立てた理屈が、ぬかるんで不安定な心に置いた途端あっけなく瓦解してしまう。

 鬱陶しい歓声が大きくなったのを感じて、曖昧な意識を虚空に向ける。打ち上げを知らせるアナウンスが響き渡り、明るい声でカウントダウンを始めた。

『五!』

 雲が流れていく。

 観客がどよめく。

『四……!』

 雲間に光が見える。

 まばらに呼応する。

『三…………!』

 その正体を知っている。

 会場全体にこだまする。

『二………………!』

 けど一度は見て見ぬ振りをする。

 固唾を飲むような沈黙が混ざる。

『一……………………!』

 それでも、その満月をぼんやり見ていた。

 打ち上げを前に、早くも歓声が上がった。

『〇……!』

 夜空に、私を見ていた。

 月の魅力に取り憑かれた小さな火種が、それを目指して舞い上がり、しかし届くはずもなく火花を散らして消えた。無様に明滅して、やかましい音を立てた後には汚い煙だけが残った。

「ことり……」

 それを遮二無二繰り返す。けど、何度繰り返したって届かない。音も、光さえも。届くわけがない。何も知らない月は雲間に悠然と浮かんでいる。

「ことりが……、遠いよ……」

 そうして煙だけが濃くなり、ついには目指していた当てを見失った。

「ことりが……、見えないよ……」

 それでも、繰り返す。何度も、何度でも。それ以外に目指すものなんてないから。

 ——私には、ことりしかいないから……。

 私はことりが好きで、ことりにも私を好きになって欲しくて、けど何をしたって上手くいかなくて。そうして繰り返せば繰り返すほど、ことりのことが分からなくなっていって……。

 項垂れて、足元を見下ろす。

 血の滲んだ鼻緒と着崩れた浴衣、だだっ広いレジャーシートに置かれた無駄に大きいかごバッグ——滑稽な私と悲劇の舞台。

 それが淡いスポットライトを浴びる度に、観客が囃し立てる。無様なピエロを嗤う声だった。

 ……けど、私には、ことりだけだから。ことりは何もなかった私に全てを与えてくれたから。ことり以外に、生きる理由なんてないから……。

 力なく、夜空を見上げる。

「え…………」

 頬を伝った大粒の——

「そんな…………」

 ——それが涙ではないと気づいた時には、皮肉にもそれを引き金に止めどなく涙が流れ出し、決意と覚悟の均衡が決壊した。そうして氾濫した心に込み上げた気持ちもまた止まることを知らず、もはや堰き止めることなんてできなくなっていた。



 急げ、急げ……。

 両手にペットボトルを握りしめ、右腕に焼きそばとたこ焼きの入った袋をぶら下げて人混みを縫うように走る。飲み物も焼きそばもすぐに見つかったのに、たこ焼きだけがなかなか見当たらなくて、陽芽莉の待っている広場からだいぶ離れてしまった。

 空では既に大輪が咲いては散ってを繰り返している。その度に焦燥感に駆られる。陽芽莉の体調を心配するあまり留守番を言い渡したけど、それも酷だったと歓声が上がってからようやく気づいた。

 今日は本当に、心底自分が嫌いになる。陽芽莉への気持ちを抑えるのに精一杯で、あろうことか陽芽莉を危険に晒した。

 予兆はあった——しゃがみ込んだ時は全身赤かったし、ふらついた時はぼんやりしていた。なのにそれを、色めいた目でしか見ていなかった。

 思い出す度、自分に虫唾が走る。知っている限りの罵詈雑言を浴びせても足りない。陽芽莉を幸せにするなんて意気込んでおいて、本当にお笑い種だ。

 でも、だからこそ、いつも以上に自分を戒めた。陽芽莉を幸せにすると改めて決意した。それは、間違いなく陽芽莉の望む形ではないけど。それでも、陽芽莉をもっと大切にする。これまでも可能な限りそうしてきたつもりだけど、今日の体たらくがそれでは足りなかったという何よりの証拠だ。

 だから本当は、花火大会も大事を取って別の日に改めるべきだと思った。でも、その選択もまた陽芽莉を傷つけることになるのは火を見るよりも明らかだったから。だから陽芽莉の体調には私が最大限気を配って、陽芽莉には思う様過ごして貰えば良い。そう思っていた。

「え?」

 なのに。

「うわ、最悪だ……」

 ポツリと右手に雨が当たったかと思うと、瞬く間に本降りになって全身を濡らした。重力に負けじと頑張ってくれていた雲も、とうとうその重みに耐えきれなくなったみたいだ。

 人混みに気を払いつつ、走るペースを早める。

 次々と打ち上がっていた花火の音がぱったりと途絶え、会場が戸惑い混じりにざわつき始める。

 ほどなくして花火大会の中止を告げるアナウンスが流れると、降り頻る雨が嘆きを帯びた。

 いよいよ我慢できなくなって、人波にぶつかるのも厭わず陽芽莉の元へひた走る。

 息を切らしながら広場に戻ると、誰一人いなくなった暗闇に陽芽莉であろう人影がぽつんと立っていた。雨に視界を遮られ、その輪郭はまだおぼつかない。

 急いで駆け寄っていくと、激しい雨音の中から陽芽莉の声が微かに聞こえてきた。

「……っ、……とりが、……えないよ……」

「……え?」

 輪郭が徐々に浮かび上がり、陽芽莉が空を見上げているのが分かった。

 無造作に荷物を置き、ゆっくりと陽芽莉の正面に近づいていく。その後ろではゆらゆらと風流だったススキが夜雨の中で物々しく揺れ、私の背後では少し流れの速くなった川の音が聞こえる。

「陽芽莉……?」

 真上を向いていた陽芽莉が、ゆっくりとこちらに顔を向ける。

「こ、とり……?」

 頬を伝った大粒の——

「陽芽莉……」

 ——それが雨ではないと気づいた時には、陽芽莉を強く抱きしめていた。

 雨に濡れた浴衣姿が痛ましいくらい健気で、その表情は消えてしまいそうなほどに儚げだった。

 冷え切った体にありったけの体温を分け与えていると、陽芽莉がおずおずと私の腰に腕を回した。

「ことりが……、っ、分からないの……。ずっと冷たかったのに、今日は優しくて……。でも、分からないから。ことりの気持ちが、分からないから……。っ、明日には嫌われてるかもしれなくて、怖くて……」

 嗚咽混じりの震えた声は、耳元で聞いているのに雨に掻き消されそうなくらい不安定でか細かった。

 幸せにするなんて言いながら、私は陽芽莉を傷つけていた。自分の都合だけで行動し続けて、陽芽莉の無垢な想いを踏み躙っていた。そのことは、痛いくらい自覚していた。

 でも、それでも。私が幸せになってしまったら、兄への贖罪にならないから。

 私は——

 陽芽莉に返せる言葉が見つからず、気持ちを殺しつつさらに強く抱きしめる。

 陽芽莉が私のワンピースをきゅっと摘んだ。

 透き通った魅惑的な声が、耳の奥までさらさらと流れてくる。

「ことりが、遠くに行っちゃうの……。一緒じゃなきゃ嫌なのに。どんどん遠くなるの……。でも、一緒が良いから……。ことりにも私と一緒になって欲しくて……。いっぱい頑張って。頑張るけど……。頑張っても頑張っても、ことりが遠くなって……。でも、今日は特別で……。なのに、全然上手くいかなくて……」

「うん……」

 抱きしめる力を緩めるようにして、陽芽莉の背中を横に摩る。

 ワンピースが、ぎゅっと強く握られた。

「ことりのおかげで、綺麗に見えたから……。だから……。曇り空でも、いっぱい写真撮りたかったのに……。『願いの椰子の木』に、去年と違うことを願いたかったのに……。水族館でイルカショーを観て、ことりと笑って……。楽しくって……。楽しかったはずで……。もっともっと、ちゃんとエスコートして……。綺麗な花火を観て、綺麗だねって言って……。それで、ことりに、言いたかった……。ほんとは、ちゃんと……。ちゃんと、言いたかったのに……」

 ワンピースを巻き込んでいた陽芽莉の握り拳が、柔らかく開いた。

 小さな手のひらの熱が、雨で冷えた私の背中を優しく温める。


「……私、ことりが好きなの。大好きなの……」


 予想していたはずの言葉だった。

 なのにそれは、耳を撫でてから心を包み込むまでの間に私の全く知らない性質を帯びていて、融点に達していないはずの温度でじんわりと心の膜を溶かした。

「変なの。おかしいの……。私だけのことりにしたくて、ことりにも独り占めされたい……。ことりの全部が欲しくて、私の何もかもをあげたい……。どこにもいかないで……。ずっと、そばにいてよ……。ねぇ、お願い……」

 そうして無防備になった心に、単なる言葉ではなく、陽芽莉の想いそのものが滔滔と流れ込み、私の想いと滑らかに溶け合った。

 それが理性によって瞭然と凝集した先に、真実の愛と呼び得るものがあるのだと、そう直感した。

 なら、駄目だ。

 やっぱり私には、それを享受する権利がない。

 だって。


 ——私のせいで死んだ兄だけが、私の生きる理由だから……。

「……全てをくれたことりだけが、私の生きる理由だから……」


 なのに。

「……陽芽莉……」

 私の心にまっすぐ流れ込んできたそれは、私にとってあまりに魅惑的で。

 理性を必要としないだけの凝集力を以て、私の中に歪な愛を生じさせてしまったから。

「……私も、大好き……」

 兄への贖罪と、陽芽莉への愛。

 陽芽莉と交わした二度目のキスによって、私はずっと目を逸らし続けてきた自己矛盾から逃れることができなくなった。

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