かぐや姫と不死の薬④
電車を降りると、むわっとした暑さと潮の香りに包まれた。島式ホームからは海岸が柵越しに広がっていて、それを見ている私は浴衣、背後には電車という面妖な状況に少し目眩がする。
一年前に来た時はファンタジー世界のキノコが群生したみたいに浜辺を彩っていたビーチパラソルが、曇り空のせいか今日は数えるほどしか見当たらない。
「去年よりだいぶ人少ないね」
「ね! これなら他人のフリしなくて済みそう」
ことりが私の浴衣姿を揶揄いながら向日葵みたいに笑った。
久しく見ていなかったことりの笑顔に、どういう心境の変化だろうと戸惑いつつ嬉しさが勝って顔が綻ぶ。電車に乗っている間は、天岩戸のように閉ざされたことりの心をどう引き開けたものかと思案していたけど、この分だとなんだかんだ楽しんでもらえそうだ。裸踊りをする羽目にならなくて良かった。
駅舎に繋がる暗い階段を上り、少し砂埃を被った改札を抜ける。人通りのまばらなコンコースを右に進んでいくと、手すりに突き当たって正面には空と海のパノラマが広がった。
「去年はあんなに綺麗だったのに……」
一年前のキラキラ輝いていた景色を思い出す。ことりにプレゼントした絵で美化されているかもしれないけど、それにしてもあの日の空と海はもっと綺麗だったはずだ。
「今日曇りだもんね」
「うん……」
けち臭い雲が結託して青空を出し惜しむせいで、せっかくの眺めは一面鈍色に染められていた。分かっていたこととはいえ、意気込んで来ただけにそれを目の当たりにするとやっぱり気落ちしてしまう。
項垂れて手すり越しに地上を見下ろしていると、少し考えるような間を置いてことりが口を開いた。
「……陽芽莉は、この色嫌い?」
どの色だろうと思って顔を左に向けると、ことりが雲の色と酷似した滑らかな毛先をふわふわ弄んでいた。その目はしなやかに伸びる指先を見つめ、狂おしいほど幼気な表情を浮かべている。私をノックアウトして余りある可憐さだった。
早くも告白してしまいそうになったのを既の所で押さえ込み、浴衣の両袖に顔を埋めてしゃがみ込む。暑さが涼しいくらい全身が熱を帯び、心の動揺に呼応するように提げていたバッグが揺れた。
「……それは反則……」
籠った声で抗議する。その可愛さはレッドカードだと全身が伝える。
「……ほら、行こ」
少し顔を浮かせて声のする方を覗く。隙間から髪を弄んでいた綺麗な指が見えた。今日は私がことりを楽しませないといけないのに、ことりに助け船を出してもらっているのが情けない。
「……うん」
荷物を右手に持ち替えて、艶やかに伸びる四本の指を愛おしむように包み込む。ことりに手を引かれてゆっくりと立ち上がりながら、右手で持ち上げたバッグの重さを確かめる。これからだ、まだ名誉挽回のチャンスはある。そう自分を鼓舞する。
歩き出しても手を離そうとする素振りがなかったから、怪我の功名だと内心少しはしゃぐ。そのまま階段を下りていき、目と鼻の先にある砂浜に足を向ける。
普段は二人で歩いていると私より華のあることりが注目の的になるけど、今は場違いな格好のせいでちょうど視線を折半している気がする。素の状態で浜辺の浴衣に匹敵するくらい際立つことりの美貌はやっぱり底知れない。
緩やかなコンクリートのスロープを抜け、少し湿気った様子の砂浜に躊躇なく足を踏み入れる。寸前、心許なくつないでいたことりの手が何やら意思を持ったのを感じていると、下駄が予想外に深く沈み込んでバランスを崩し、バッグが宙に揺れた。
ぼやけた重心がことりの右手に引き寄せられて胸元でストンと落ち着き、ことりに正面から抱き留められる。右耳がことりの胸に柔らかく包まれ、繋がれたままの左手が視界の真ん中に浮いている。潮の匂いがことりの髪に隠れた。
「やると思った」
得意げに笑う声が少しくぐもって頭上から聞こえる。私の体重を支えているせいかその声にはあまりゆとりがない。
口の中が乾いて舌がざらざらする。頭がぼーっとして、右耳に響いている鼓動が誰のものなのかおぼつかない。
「……ありがと……」
言葉とは裏腹に、自分の不甲斐なさを責めるような声が漏れた。
どうにかはっきりさせた意識を込めて、操り人形のようにぎこちなく体を起こす。その流れで、繋いだ手がどちらからともなくほつれた。
「時間はあるし、ゆっくり歩こ」
「うん……」
歩き出しながら、ことりに合わせる顔がなくて足元を見下ろすと、泥のような不快感がうじゃうじゃと絡みついてきた。足がつっかえて歩きにくい浴衣、鼻緒が擦れて走る鋭い痛み、素足に纏わり付くじめじめと湿った砂。その全てが、心までどんよりと曇らせる。
やっとの思いでことりを遊びに連れ出せたのに、エスコートするどころか気を遣わせているのが歯痒い。チャンスは今日しかないかもしれないのに、こんな体たらくで気持ちを伝えられるようなシチュエーションにできるのか。そんな風に気味の悪い焦燥感が思考を蝕む。
……いや、考えるのはやめよう。後悔は後でいくらでもできる。ちゃんと策はあるから今はその機会を窺うだけだ。そう決意を新たにして、足元の不快感を蹴散らしながら歩く。
海岸沿いにしばらく歩いていくと、二階建ての住居然とした海の家が見えてきた。その近くは人が多いけど、今いる位置なら駅からも離れているし、ことりと静かに過ごすには最適かもしれない。
「ことり、」と呼びかけて二人で立ち止まる。
「この辺でお昼食べよ?」
「うん! 私買ってこようか?」
陰気臭くならないような清々しい口調で、ことりが浴衣姿の私を気遣う。その晴れやかな笑顔に曇り空まで明るくなったような気がして、やっぱりことりには与えてもらってばかりだなと思う。
けど、もう悲観している場合ではない。今こそ、ことりに見直してもらう最大のチャンスだから。
「ううん、大丈夫。……お弁当、作ってきたから」
「え、うそ、」
あの陽芽莉が、と続けたそうにことりがあんぐりと口を開けている。
その顔を見て、得意な笑顔を返す。右手にかかる重さが心地よく感じた。
「ほんと」
実は、ことりをデートに誘うと決めた日から今日までのおよそ十日間、私は苦手だった料理と人生で初めて向き合っていた。と言っても、難しいものを作ろうとしたわけではなくて、ことりが喜んでくれそうな可愛いお弁当を簡単な料理だけで作る方向で。それでも、天性の料理下手だから満足できるクオリティになったのはつい昨日のこと。今朝遅刻したのも、いざ作ろうとしたら何度か失敗してしまったからだった。
とはいえ、大事なのはこれまでではなくこれからだ。今のところ格好悪いところしか見せられていないけど、今度こそことりに良いところを見せる。
だだっ広い砂浜に、ことりと二人で涼しげな柄のレジャーシートを敷く。下駄を脱いで踏み入れると、騙し騙し付き合っていた足元の不快感から解放された。
「結構広いね」
「うん。サイズ間違えちゃって」
本当は膝枕することまで想定して寝転べるように大きめにしたのだけど、それは内緒。
海を横に見つつ、ことりと向き合って座る。少し捲れたワンピースから、正座して嫋やかにくっついたことりの太ももが覗ける。そこにできた下三角の影を見て、せいざだけに夏の大三角形だとかぼんやり考える。ちょっと頭がヘンだ。
保冷バッグの清涼感で何とか意識を取り戻しながら、犬と猫の顔を模した二つのお弁当箱を取り出す。どちらも白と黒のシンプルなデザインで、耳がちょこんと付いている。黒い猫が私ので、白い犬がことりの。
レジャーシートもお弁当箱も、お弁当を作ると決めた段階ですぐにネットで購入した。絵を描いた時と言い、やると決めたらとりあえず形から入るのは私の性分かもしれない。
「ありがとう! というか、女子力高過ぎない?」
お弁当箱を受け取ったことりが嬉々として言う。期待通りのリアクションに、私も嬉しさが込み上げる。
「でしょ? 頑張ったもん」
けど、緊張のせいか手が小刻みに震える。
「じゃあ、せーので開けよ?」
視界がちかちかする。
「うん!」
体内に籠った真っ赤な熱が、サイレンみたいに脈打つ。
「「せーの!」」
「……………………え?」
「…………………………」
え?
え。
なに、これ。
なんで?
なんでこんなに。
あ。
ああ。
そっか。
無意識に振り回してたんだ、私。
だからこんなに。
本当、馬鹿みたいだ。
大事な——
ことりの笑顔が見たくて、ことりを驚かせたくて、ことりにどうやって作ったのって聞かれたくて、ことりと食べさせ合いっこしたくて、ことりの真っ赤に照れた顔を見たくて、ことりに好きになって欲しくて、だから、たくさん練習して、ちゃんと早起きして、一生懸命作った、
——大事な、お弁当なのに……。
もう、ぐちゃぐちゃだ。
ごめんね、ことり。結構頑張って作ったんだけど、ダメだった。やばいね。これ。どうしたらこんなになるのって感じじゃない? 振り回しすぎだよねっていう。陽芽莉は詰めが甘いっておばあちゃんによく笑われてたっけ。お弁当だけに。ねぇ、ことり? 聞いてる?
「陽芽莉!」
なに?
「ねぇ陽芽莉!」
心地よい。
首筋が冷たい。
左耳が温かい。
頭が気持ち良い。この感じ、懐かしい。
何だっけ。
空気を聴く。
消え入るように波の音が囁く。
チリンと物悲しく何かが鳴いた。
仲間外れにするような喧騒が寂しい。
「陽芽莉……」
泣き疲れた子どもを慰めるような声に安心する。
ああ。
頭を撫でられているのか。おばあちゃんによくこうしてもらっていたっけ。
「絶対に幸せにするから……」
あと——
——これは膝枕?
え、何で?
光を映す。
「……ことり?」
「陽芽莉……!」
優しい眼差しに笑った口元、驚くような声。行き場を失って心の底に沈んでいた気持ちが少しだけ報われた気がした。
「私、えっと……?」
状況を整理し切れず何を聞けば良いか分からない。
ことりの膝を惜しみつつ、鈍い苔色の御座に手をついて体を起こす。温度差で、冷やされていた首筋に暖かさを、ことりのお腹に当たっていた左耳に寒さを感じた。
ぼんやり見渡すと、自然光に依存した少し暗い部屋一面に御座が敷かれ、長い座卓が賑わった形跡を残しながら等間隔に並んでいた。
正面に目を移すと、見覚えのある鉛色の景色を背景に活気が満ち満ちていたから、ここがさっき遠目に見た海の家だということを察した。
「お! 良かった! お姫様のお目覚めだ!」
働いてきた頭で状況を吟味していると、近くで談笑していた三人組のお姉さんの一人が、ビールジョッキ片手にこちらを振り向いて豪快に笑った。海に入ったのか下ろした茶髪はボサボサで、いかにもギャルという感じの印象。
その隣に座っている少し幼げなポニーテールのお姉さんも、こちらを向きながら「などとアラサー処女のお姫様気取りが申しておりまーす」と笑う。
会話に加わらないといけない雰囲気を感じて、とりあえずお姉さん方に体を向ける。横目に見たことりも、成り行きを見守りつつ会話に加わるタイミングを見計らっている様子だった。
それを受けて、先の二人の正面で微笑を浮かべていた眼鏡のお姉さんが無駄のない動きで立ち上がり、こちらに近づいてきて私の正面で屈んだ。つやつやしたミニマムヘアが揺れる。
「起きて早々うるさくてごめんね。さっきまでぼんやりしてたけど顔色もだいぶ良くなったし、もう大丈夫じゃないかな」
ことりも神妙な面持ちで会話に加わる。
「陽芽莉、お弁当食べようとした時に倒れちゃったんだよ……」
「そうそう! なんか目立つのいるぞって三人で爆笑してたらいつの間にかアンタバタンキューしてんだもん、そりゃもう慌てて走ったよ!」
「いや、笑ってたのあんただけでしょーが」
ようやく輪郭が見えてきた。私、あの時倒れたのか……。散々空回りした挙句、人様にまで迷惑をかけて……。
「本当に、ありがとうございます……」
身なりを整えて、三人全員に向けてお礼を伝える。内心は自責の念と申し訳なさでいっぱいだけど、親切にしてくれた相手には謝罪ではなく感謝をせよとのおばあちゃんの教えに従う。
「いや、私たちはちょっと荷物運んだだけだよ。お礼を言うならその子かな」
優しく諭すように言いながら、眼鏡のお姉さんがことりに顔を向けた。倣うと、ことりは注目されていることを意にも介さず、ただただ私を心配してくれている様子だった。
「そりゃもうカッコよかったよ! アタシが運ぼうと思った時にはその子もうお姫様抱っこしてんだもん!」
「さながら王子様だったよねー」
「ほんとほんと! ……アタシの王子様は……」
「元気だしなってー」
そんなやり取りを横目に見つつ、体ごとことりの方を向く。ことりの足元には私たちの荷物の他に、うっすらと飲んだ覚えのあるスポーツドリンクが置かれていた。
「色々とごめん、ことり……。あと、ほんとにありがとう……」
礼節ではなく、心の中で上澄みとなっている部分を素直に言葉にする。
「ううん、全然! でも、ほんとに調子悪いところとかない……? 大丈夫……?」
ことりが乗り出すように顔を寄せ、心底不安そうに私を見つめる。
「うん、それは全然平気」
浴衣の袖を上下にブンブン振って全力でアピールする。本調子ではないけど、ことりにこれ以上心配をかけたくない。
「ま、一件落着ってことで! てかさ、浴衣着てるってことは花火かなんか行くつもりなんじゃないの?」
そうだ、時間。曇り空のせいでどれくらい経ったのかよく分からない。確認しようと思ったけど、浴衣だからスマホはバッグの中だ。
そんな心境を察してか、眼鏡のお姉さんが右手首の腕時計を確認してくれた。
「今十八時過ぎたところだね」
「え……」
うそ、そんな……。
心の底で沈澱していた気持ちが、気味悪く蠢き出すのを感じた。
だって……。だって今日は、特別な日で。お弁当は駄目だったけど、海でやりたいことだってまだまだあって。ことりがかけがえのない存在で、大好きで、嫌われたくなくて、けどことりの好きが私と一緒じゃないのはもっと嫌で……。だから、ことりにいっぱい良いところを見せて、ちゃんと真正面からことりに好きって伝える日で。今は普通に接してくれているけど、私を拒絶していた理由が分からないから、いつ嫌わるか分からなくて、今日しかないかもしれなくて……。
なのに、そんな今日が、大事な今日が、もう夜? まだ何も出来ていないのに? 日を改める? けど、ことりがまた心を閉ざしたら? でもこんな最悪の状態で告白なんてして上手くいくの? じゃあ何であの日、私を抱きしめてくれたの……? 照れるような素振りを見せてくれたのは……? ことりは私のこと好きじゃないの……? その好きは私と同じ……? 私だけ特別扱いしてくれたのは何で……?
私はずっと、ことりが分からない——
心が、ぐちゃぐちゃだった。
……けど、考えている場合ではない。移動時間を考えると、花火大会の開始時刻までもう余裕がない。
気持ちを押し殺しながら改めて三人にお礼と別れを告げ、空っぽの時間から逃げ出す。寄せては返す虚しい波が、私を嘲るように付き纏う。
軋んでいたはずの歯車が、今は音を立てずに慣性で回っている。そして決意と覚悟の均衡もまた、静かにその形勢を変化させていた。
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